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哲創9 科学的思考についてー2


科学的思考というのは「階層構造を持つ」特徴がある。問題があって考える時、思考は始まる。その時の問題というのは対象のことで例えば自然の不思議の場合にはリンゴを見てどのような構造なのか?何が甘さの源泉であるのか?というようなこと。あるいはテレビは何故映るのか?というようなこと。熱はどうして発生するのか?とかこの金属はどのような構造なのか?というような問から発する考え方の方法だったり手法だったりする。

その際の対象になる問題は「モノ」であったり「現象」であったりする。「モノ」にも原子的な構造体に関するもの、分子的な構造体あるいは構造物(テレビとか家とか)に関するものとか、更には 山とか川とか海とか、地球や太陽など天体に至るまでいくつかの階層を持って思考は始まる。これらの階層はある意味、「科学的思考」によって特性を分析することで相似や類似によって分割、分類に基づいて位置づけされる。特徴づけされて階層として位置づけされ、その階層上からの思考が始まる。そう考えていいようである。

こうした思考パターンはどこから来るのだろうか? 養老孟司氏の話で人間だけがこの様な「ある性質を持つものを同じものであることを認識できる」のだそうです。同定、相似や類似性から分類する思考はそこから来ているような気がします。話はそれますけれど人の思考の元には視覚的なものへの変換があるように思うのです。「モノ」にしても「現象」にしても視覚的変換で思考することが備わっているように思うのです。そのことと大小で考える癖があるようです。ある意味で科学的思考の原点には疑似視覚的な大小やその広さや大きさで比較するようなそして定量化すること。より大きい、何倍か?ということから数値化。数値化は判りづらい時は表やグラフ化してものを見易くする。これらをデジタル化と現在は言います。聴覚についても波と考えて数値化する、属性をグラフ化するのも視覚化の一種です。同質異質の判断や独立や従属ありは各種群の関係性もグラフや図示を用いて理解しようとします。これらは複雑化してデジタル化が難しいものだが推論上デジタル化できるとして理解します。これらは定性的理解ということになるでしょう。

階層というのはカテゴリーと言ってもいいかも知れませんがカテゴリーというのは階層の一部と互換とういような関係であり、カテゴリーも階層を作ることが可能という関係にあります。例えば 物質の構成は原子に行きつき、原子は素粒子に行きつく。それらは量子ということで 量子力学の土壌です。ですが金属の構造は物質の構成には違いないけれど量子力学による理解を必要とするのはその一部です。金属の硬化やその特性を理解するには結晶学や化学結合論、熱力学の知識を必要とします。それらの土壌の上で現象や物の説明がなされます。この土壌の選択はどちらかというと歴史的とか経験的あるいは感性に近い選択になる。この根拠の妥当性はそのモデルの根底にある思考の原点に遡ることになるだろうと思う。また、このような方法を採るのが科学的思考ということになろうかと思います。少なくとも理解ということを優先すればそうした見方が重要になるでしょう。

科学的思考には「階層」が重要な視点になる。 階層なりカテゴリーの選択は時に不適切な場合があるので注意が必要でしょう。 特に「部分は全体ではない」という視点や不適切な分析法、解析法あるいは「似ているから」同種として見るような誤謬は避けるというのが留意点になるかと思います。そうした前提で「数値で物事を見る。」ことは感覚とは異なる事実を与えます。このことも認識として感覚ではない重要な視点になります。
納得する。理解する。事実と認定できる。真実となる。といった元には階層やカテゴリーのモデル妥当性と裏付けの理論と数値が必要になるということです。

ここでの重要性はこの元となるモデルや原理の適用に依存しているのであり、世の中の現象は自然科学の範疇ですら例外や境界問題などによる変更を余儀なくされることもあることを念頭に置いておく必要があろうかと思います。物理学などは数少ない妥当性が多い部類ですがこれとて絶対ということはないのであって、事象がたまたまそのモデルで表現できるというだけに過ぎないということです。例えばお風呂の水を抜く話でも計算上の何分何秒でほぼ水位0になるには水の温度を一定(ex.15℃)での条件など考慮する必要があるので実際は完全な理想の水でもないので、実際には計算からズレます。ほぼ理論に近いものでも計測器が違えば一致はしない。ただ、考え方の妥当性は近いものだということです。

科学的思考といっても多くの暗黙の裡にある条件設定の上での理解というのが比較的正しい表現になろうと思う。その際、自分はそこになく、自分が入って納得ということになる。何も感じない問題の場合は理解=納得の等式が成り立つ。先のお風呂の水抜きのように疑問とする対象 「この場合は風呂から水を抜くということ」 があって 計算に乗せるのであり、無作為の対象はそれこそ五万とある。対象と認識しなければ考えることはしない。

今回の結論は
1. 科学的思考には 対象がある。
2. 科学的思考には階層ということがある。
3. 科学的思考は一種の視覚化であり、理論あるいはモデルの妥当性と数値的裏付けがその担保となる。
ということになろうと思います。

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