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哲創11 二項対立の様相


二項対立の発端は 主体と客体(主観と客観)に分離することから始まるように思います。 自分だけのものである主体とそうではない客体。自分とあなたもしくは3人称彼に分けるところからだと思われます。現代ではDNAなどの解析で自分と第三者との違いは明確になりつつあります。それでも思考の元は分ける分離や分類することのようです。

西洋的のように思えるこの分離や分類は別に西洋だけではなく東洋にもあるのですが、どうも西洋のものは要素的で東洋(ここでは中国や日本)のものは現象的なように思います。これは養老孟司氏が述べていましたが、西洋はアルファベット26文字の組み合わせでものを表現します。要はその要素で表現します。その上で単語ができている。「原子などの組み合わせで物ができている発想はそこから来ているのではないか?」というのです。

ギリシャ文字は24文字、ラテン語は23文字から・・・とにかく表音文字ということに対して東洋の漢字は表意文字であるという点が異なります。言われてみればそういう視点はありますね。漢字は感覚が優先するのです。「雨」は水ですが雨は「雨」です。「雲」は雨に関係している。日本語もなんら関係ないのかもしれませんが、あかつき「暁」、しののめ「東雲」、あけぼの「曙」といったような要素とは異なる表現が多くみられます。ともかく思考の根底に水=サンズイ  日へん=太陽ではない思考があります。どちらも 流れが関係しますね。 

詳しくは漢字の構成を見ていただくとして 我々の言葉には現象的な要素が多分に多い=思考的に染みついている(自然にその要素で話が構築されている)ように思われます。勿論、英語でも接頭語や接尾語あるいは語幹の中に現象的なものがないというのではありませんが。そのこととは別に東洋の発想あるいは思考には現象が深く関係している。どちらかというと見たままを許容するあるいは受容する思考が隠されていてそれは感覚との関係が強いと思われます。

「およそ」という言葉があり、凡そと書きます。これは大体とか約とか あるいは「たぶんに」とか要約するととかいくつかの使い分けで使います。「およそ」と「おおよそ」の意味の違い:「およそ」と「おおよそ」の違いを分かりやすく言うと、およそとは口語的に使う、おおよそとは文語的に使うという違いです。(reibuncnt.jp)ということですが、英語では about approximately ということで意味がはっきりします。Perhapsでも同様ですね。

同じように二項対立は対比という意味で 対比を鮮明化し、先鋭化させる効果があります。議論する際にはこうした二項対立の手法は最初の分類にくるので土壌を明確化して
議論する内容あるいは方向を形成する作用があります。したがって、ものをあるいは内容を理解する上では容易になる。あるいは納得しやすいという利点は十分にあるのです。ですが実際の複雑系の問題になってくると見落としも多いのだと思うのです。

「木」の話をすると幹と枝の伸びで比較すると杉と栗はこういう差異がある。だから云々・・。実際の木には葉があり、実があり・・・。 違いを明瞭にするのに二項対立は重要な役割はあるのですが、それだけなのでしょうか? 二項対立を複数、そして重ね合わせて組み立ててきたのが科学の実態ですね。これは科学の歴史でもあると思うのですがどうでしょうか?  理解はできる。納得もする。 で ・・・。杉はある人には建材であり、栗はある人には食用ですね。 植物学では・・・。 森林とか土壌では・・・。

要は「二項対立は理解を進めるための原則的な方法」。「納得するための論理の組立」の元ではあろうかと思います。西洋的なこの二項対立は厄介なものを囲い込んだとも思います。「山」はこのような「造山運動により形成された」と同じように「人間はこのように作られた。」作った元があるので作るには人間以上のものが作るしかないから「神」が作った。これは経験が裏付けている。このような議論が生まれてきたように思います。

ものを見る時、先の「木」を見るでもいいのですがそのまま見ると木陰が見えます。そのものを見ると表があり、裏がある。東洋的なものの見方というのは表裏を含んでいます。
物体として見るといわない限りそうした見方があるのです。科学的思考はある意味での視覚的切り取りのような部分もあるようには思いますが、目的とした解析などではそのものずばりとなるわけです。

このように見える物体の場合は比較的解り易いのですが、抽象的な語群の場合、我々は一旦視覚的な土壌に移して考えるというのが解るための一歩目になるように思うのです。
例えば 「政治」を考える時には 各種政策や政治家あるいはその歴史を踏まえてというように一つ一つ要素や現象をも思い合せて画像上に括るような作業が先ずくるように思います。明らかに表現を共通化させる唯一のものは視覚なのだろうと推察しています。

視覚的特徴はフォーカスになりますからフォーカスした対象があり、フォーカス外の部分が存在します。二項対立はまずその視点がある。そしてフォーカスした内部を分離・分割・分類して各々フォーカスとフォーカス外を考えるという分割法がスタートになります。二項対立の弱点はフォーカスする部分が本質として十二分に大きいものについては成立の妥当性が理解されますが、本質の持つ多様性や複雑性が大きい場合には議論が複雑な
ものになるように思われます。要は仮定の妥当性が疑われる結果をもたらすように思います。

不毛な議論はこうして生まれるのではないでしょうか。

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