複素効理論と公理的漫才論
僕は偽薬を売ることにした』(国書刊行会)では、「複素効理論」を提唱しています。読みは「ふくそこうりろん」。
一見して怪しげなこの理論を一言で表現するならば、「数学における複素数という概念を薬効理論に導入したもの」ですが、実際にどのような評価を受けるのかは分かりません。
しかし、この理論に期するところは明白です。
チリンチリン。
複素効理論に著者として期待するのは、まさしく「チリンチリン」なのです。
公理的漫才論
チリンチリン。
この擬音語が用いられたのは、M-1グランプリ2006。お笑いコンビ「チュートリアル」が最終決戦で演じた漫才の中でした。
笑いの爆発
M-1グランプリとは、若手漫才師ナンバーワンを決める大会のこと。2006年大会、最終決戦。チュートリアルは「チリンチリン」を武器に、当時初の満票での優勝を果たしました。
司会者、審査員が「笑いの爆発」と評したほどウケにウケまくるその漫才は、何度観ても笑かされてしまいます。
未見の方はDVDや動画配信サイトなどでぜひご覧ください。
公理系としての常識
ところで、『僕は偽薬を売ることにした』では公理や公理系といった概念を利用してプラセボ効果とは何かを明らかにしようと試みています。
公理とは、ルールのこと。
実は漫才も公理系と捉え、ルールとしての公理を考えることができます。
漫才において演者と観客はある種のルールの体系を共有しており、一般的にそれは「常識」と呼ばれています。常識とは何かといえば、社会が従うルールの総体ともいえるでしょう。
通常、漫才における笑いは、この常識ルールを破ることから生まれます。
常識的判断から観客が期待する言動と、 演者が提示する常識とのズレ。 ここに笑いのタネが生じます。
お笑い芸人の腕の見せ所は、いかにしてこのズレを笑いに転換するか。漫才の評価が笑いの数や大きさ、質に依るならば、この点を深く追求する必要があります。
特異な漫才
多くの漫才において採用される戦略は、常識ルールとのズレの数を増やすものです。笑いのタネをたくさん蒔きましょうという戦略。
うまくはまれば連続的に笑いが起きます。しかし一つ一つの笑いは、常識ルールとの小さなズレから生じることがほとんどです。というのも、常識ルールからの大幅の逸脱は、ただの異常な言動と捉えられてしまう可能性があるからです。
必然的に、笑いも小さくまとまってしまいがち。
チュートリアルの漫才は違いました。笑いのタネ一つ、大事に大事に育てましょうという戦略です。
彼らの漫才における常識とのズレは、「自分の自転車につけられたベルに最上の価値を見出す」というもの。ほぼこのズレ一つで押し切ってしまいます。ズレというよりはむしろ、笑いのために意図的に作為的に創造され漫才に導入された新しいルールです。
さらに「自分の自転車につけられたベル」を「チリンチリン」と称する語彙を採用し、テンポよく軽妙に漫才を展開します。
彼らは巧妙でした。
とてつもなく上手い漫才でした。ケチのつけようがないやり取りでした。
しかし常識とのズレという観点からすれば、たった一つの小さなズレを、最終的にはチリンチリンの喪失を埋めるためインドにまで旅立ってしまうほどのズレに発展させたものです。
必然的に、段階的に、常識ルールとのズレの大きさに応じて笑いが大きくなっていきました。
また、かなりの早口で連続的に発せられる「チリンチリン」という単語が、笑いの引き金としてうまく機能しています。
こうしたネタは、他の芸人においてもほとんど見かけません。徳井な…いや特異な漫才と言っても過言ではないでしょう。
複素効理論への期待
さて、『僕は偽薬を売ることにした』で提唱する「複素効理論」。
これに期待するのは、そう、
チリンチリン。
ベイジアン脳
脳はベイジアンだとする科学的な説があります。脳の中心的な機能は、ベイズ推定をすることだとする主張です。
脳がベイジアンであれば、常識的判断から推定される会話の流れと、漫才として演じられる内容とのズレこそが笑いの源だと考えられるでしょう。
複素効理論として提示する内容もまた、一見するところの怪しさと実際の内容のズレから、読者に笑いを提供できるかもしれません。
チリンチリン
また内容だけでなく、キャッチーな語彙がどうしても必要です。チュートリアルのあの漫才も、「チリンチリン」がなければ、「ベル」などと称していれば、あそこまでウケることはなかったのではないでしょうか。
チリンチリン。
一つの単語が、そのアイデアが、世界に大きな衝撃を与える。
複素効理論に期待するのは、まさにそうした大きな笑いを生じさせる爆発力です。
複素効理論が、常識ルールとどのようなズレをもつ理論なのか。どうしてそれが必要とされ、どのように発展する可能性があるのか。
『僕は偽薬を売ることにした』を手に取り、確かめてみてください。
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