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『でたらめの科学』が面白い!科学実験を支えるデタラメとニセモノ

科学実験には「エビデンス(科学的根拠)」を与えうる力がある。その力をとりあえず「証明力」と呼ぼう。証明力を保証するのは何のどういった性質だろうか?

もしそれが「乱数のでたらめさ」であるとすれば、エビデンスがデタラメに支えられているという倒錯的な状況をどう理解すればいいのだろう?

科学的証明

証明について知りたいなら、最善の道は数学における証明の議論を追うことだ。ここでその詳細には踏み込まないが、議論の始点としてまずは「公理系」が与えられ、規則的な推論に基づいて「定理」が証明される。そんな話だ。

公理なきところ証明なし。

それが数学界のルールであり、証明界のルールだ。だとすれば科学実験が証明力をもつには、何がしかの公理が議論の出発点になければならないと考えるのが妥当だろう。

その公理とはいったい何なのか?具体的な内容は?

この問いに答えてくれそうな学問として「科学哲学」という学問分野が存在し、実際に議論がなされているようだが、あまりはっきりとしたことはわからない。

科学哲学業界は「科学者は『自然の斉一性原理』が正しいと考えているようだが、それが正当化できないことをどう考えるか」という問題を問題のままにしておくという態度をとっているようにみえる。哲学者は議論が好きなのだ。

しかしここでは数学に倣い、自然の斉一性が正当化できないことを承知の上で科学実験の公理として採用したい。つまり、自然の斉一性(同じ条件で実験を行えば、同じ現象が生じる)を公理としているがゆえに、再現性のある結果を提示でき、それをもって証明力を担保しているのだと考えたい。

自然の斉一性に基づく科学実験

実際のところ、科学実験においては対照(たいしょう。「コントロール」とも呼ばれる)を置くという手続きないし文化的ルールによって、自然の斉一性を公理として活用する証明方法を採用している。

医薬品開発についてよく知っている人にはおなじみの「プラセボ対照」もその一種。

対照を置くことは、結果の比較を行うためだと考えられがちだ。だがそれと同じかそれ以上に「同じ条件で並行して実験を行いますよ。それは可能なことですよ」という主張を実際的に保証していることが重要なのだ。なぜならそれは、自然の斉一性を公理として活用した証明法において、必要不可欠な要素だから。

(この点についての詳細は他所に記す予定であり、当記事では詳細を述べない)

ランダム⇔斉一性

「プラセボ対照」と同様によく知られた科学実験に重要な手続きとして「ランダム化(無作為化)」がある。対象はランダムに選択・割付が行われた上でデータを比較しなければならないというものだ。

ランダム化比較試験でなくては、科学実験により得られた結果はバイアスのかかったものになる、とされる。自然現象の規則について再現性のある、ゆえに価値ある解釈をなすためにはランダム化が不可欠なのだ。

しかしここで困ったことがある。

科学実験は「自然の斉一性」を公理としている。再現性を仮定することは科学実験の基本的なルールであり、だからこそこのルールから逸脱することなく得られた実験結果には再現性が伴う。

一方で「ランダム化」の実現には、自然に斉一的でない部分があることを基礎としているように思われる。ランダムとは、再現性がないという性質のことなのだから。

実際的な判断に応える疑似乱数

実験屋がランダムに関するこうした問題を実際に意識することはあまりないように思われる。自然の斉一性を基礎として、ランダム化のための乱数生成はコンピュータに任せればいいやと気楽に構えている。

もちろんコンピュータもまた自然の一部として自然の斉一性に従うはずなのだが、問題意識はそこで先送りにされたまま意識の外へ押し出されてしまう。

「乱数を生成する何らかのうまいアルゴリズム(決まった計算手順)があるのだろう」

そんな風に考えておけばいい。それは理論屋や計算機屋の仕事だ、と。

ただ実際にはコンピュータが完全にランダムな数列を生みだす方法はなく、「乱数が欲しい」という要求には「疑似乱数」を返している。疑似乱数とはアルゴリズムにより生成されたランダムに見える数列のことだ。それは一貫して自然の斉一性の範疇にある。

「現代的なアルゴリズムが生成する疑似乱数はとても質が良いから、実験屋の期待に応えるには十分だろう」

なぜランダム化が必要か?

なぜランダム化が必要なのだろう。なぜそれが科学実験の証明力に関わっているのだろう。

もういちど科学実験の公理を眺めてみよう。

自然の斉一性(同じ条件で実験を行えば、同じ現象が生じる)

注目すべきキーワードはなんだろうか?

それは「同じ」だ。「同じ」とは?

「同じ」とは、「違い」がないことだ。そして「違う」とは、「同じ」ではないということだ。つまり「同じ」とは、「『同じ』ではない」ではないということ…。

ある一定以上の大きな人数を含むグループに対し、何らかの割付を行って2つの小グループに分類した場合、どんな条件があれば2つの小グループを「同じ」とみなせるか?という問いは科学実験上の重要な問いになる。

そしてランダム化がその答えだ。繰り返してもグループ分けが再現しないこと。事前に予測ができないこと。こうした条件こそが「同じ」と見なす条件になる。

だから、ランダム化が必要なのだ。だから、科学実験の証明力にランダム化が関わってくる。

デタラメとニセモノが支える科学

こうした興味から『でたらめの科学』(朝日新書)を手に取った。

期待に応える良書だ。

もちろん上記の事柄に直接的な回答を与える内容ではないが、非常に充実したものとなっている。こんな言葉も引用される。

「私はランダム化プラセボ対照比較試験しか信じない」

ある人がある場面で敢然と自身の信念を述べたもので、非常に高く評価されている。詳細は本書を参照されたい。

自然の斉一性を公理として活用するために、斉一性から逸脱するランダムさが要求されている。

またデタラメと並び、プラセボ(偽薬)のようなニセモノもまた、科学実験から価値ある情報(≒単一要素にもとづく再現性)を引き出すための必要不可欠なツールだ。

デタラメとニセモノ。

確かさの象徴のように扱われがちな科学的知識が、こうした一見怪しげな物事に支えられていると知ったら、科学に対するあなたの見方はすこし変わるかもしれない。

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