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オブジェクト指向科学哲学:『科学哲学へのいざない』の志向的な指向性

佐藤直樹著『科学哲学へのいざない』(青土社)は生物学の方法論をベースとした科学哲学講義録、といったおもむきの書籍。

本書を読み、気になったあることを書きとどめておきたい。

批判的読解

本書は出版時に科学哲学界隈で話題になったようで、科学哲学者・伊勢田哲治氏がブログでやや批判的な読書記事を残している。

当記事の内容はさておくとして、『科学哲学へのいざない』からの引用として下記の記載(太字追加)がある(2021-11-16確認)。

「つまり、科学研究は、〈なぜ〉疑問に答える説明をするのが役割ではなく、人間が自然界を見る際の網目を少しでも細かくしていくことなのである。ではなぜ、科学哲学では〈なぜ〉疑問ばかり議論あれてきたのか。それは、一般人に説明しやすいからだったのかもしれない。」(p.131)
「クーンがはじめに学んだ物理学、特に応用的な物理学ならば、確かに答えがあるかもしれない。多くの物理学者がすべての自然科学の問題が物理学で溶けると思っているのも同じかもしれない。しかし、現実世界を相手にする一般的自然科学では、答えがあるとは限らない。」(p.200)

これらは引用文に誤字・脱字が挿入された例で、もちろん望ましいことではないが、文章を書く上で避けがたい問題ではある。間違いは誰にでもあるし、いつでも起こりうる。特にこれらを糾弾する意図はなく、この後に述べることがらに大きくかかわるため、先に指摘しておく。

間違いなさと希少性

『科学哲学へのいざない』は誤字や脱字の少ない本だ。これは間違いないと思う。著者の慎重な性格と、出版社のすぐれた校正能力がなければこのような間違いの少なさは達成されない…たぶん。

しかしそれゆえに、ひとつの間違いが際立つ結果となる。

この言葉は図らずも、コンピュータのオブジェクト志向プログラミングで使われる用語でもある。(p.127)

通常、「オブジェクト志向」は「オブジェクト指向」と表記される。

なぜこの表記ミスが見逃されたのだろうか?

確信犯説

『科学哲学へのいざない』の著者・佐藤直樹氏は生物学の研究者として活動するうえで、必要に迫られてコンピュータ・プログラムを組んだ経験があるようだ。

プログラミングに触れていれば「オブジェクト指向」という表記になじみがあってもおかしくなく、にわか仕込みのあやふや知識からミスが生じたと考えるのはやや説得力を欠くように思う。

慎重な著者だからこそ、ここは確信犯的にこの表記を選択したという説を考えてみたい。

実はWikipediaの「オブジェクト指向」ページでも、記載内容の編集方針を議論する「ノート」上でこの表記に対する所感を書き残している人物がいる。

著者はここで議論されるような「指向」よりも「志向」が本来的、という主張に賛同しているのかもしれない。あるいはこの主張を展開し、ノート上で議論をしている本人であるという説も、無根拠ながら提起できるだろう。

要するに、確信犯的に「オブジェクト志向」の表記を選択したわけだ。もちろんこうした表記を選ぶ自由はあるのだが、もし確信犯的選択であるとすれば、個人的には何らかの説明があってもよかったように思う。プログラミング経験者にとっては違和感のある表記であることは間違いないのだから。

「志向性」に引っ張られた説

もうひとつ、表記ミス(?)が生じた理由について仮説を挙げておこう。少々長くなるが、重要なのでひと段落丸々引用してみたい。

意識の研究からは、脳と意識の関係が次第に明らかにされている。意識という言葉は、覚醒状態に限定した心の状態を表すこともあり、心を感情的な面に限定して、気持ちという意味で使うこともあるだろう。研究者により、言葉の使い分けはさまざまなようである。信原幸弘編『心の哲学』では、心 mind の二大特徴として、意識 consciousness と志向性 intentionality が挙げられている。志向性は、何かを表す働きを指す。フッサールは志向性をもとに現象学を打ち立てた。『心の哲学』では、意識は心の中でつくられる「もののイメージの現れ」を指しているようである。心的状態には命題的態度と意識的経験があるとされる。前者は感覚の入力と行動の出力、および他の心的状態との関係で成り立つが、後者は独特の感じを伴うことが特徴で、この独特の感じのことがクオリア qualia と呼ばれているよく分からないものである。クオリアは個人的なものなので、自然化がきわめて困難とされる。命題的態度に対する情動と知覚の関係については議論があるところのようである。(p.233-234)

参照されているのは下記書籍。

いろいろと興味深い点はあるが、ここでは「志向性」のみに注目する。

要するに、現代哲学にとって「志向性」は欠くべからざる概念で、この表記に引っ張られる形で「オブジェクト志向」というミスが出現し見逃されたのではないか。

「例化」という重要概念

なぜ「志向」と「指向」などという些末なちがいにこだわるのかと言えば、「オブジェクト指向」への言及は『科学哲学へのいざない』の核心部分に関わるためだ。

このことは伊勢田氏のブログ記事でも「例化」という言葉が冒頭に参照されていることからもわかる。

僕自身は「例化」という表現を知らなかったが、日曜プログラマとして「インスタンス化」にはなじみがある。『科学哲学へのいざない』でも触れられるように、これらは同じ概念の別表現だ。

オブジェクト指向プログラミングでは「クラス」と呼ばれる概念的なものを設計し、「インスタンス化」によって「クラス」から「インスタンス」を生成し実働させる。現代的なプログラミング環境はたいていこの思想に基づいており、これを「オブジェクト指向」とよぶ。クラスもインスタンスもオブジェクト、すべてはオブジェクトなのだ。

『科学哲学へのいざない』では、科学的理解の深化モデルとして、「例化」に基づく階層モデルを提案している。「例化」は同義の「インスタンス化」という表現でコンピュータ・プログラミングでも活用されていることから、「オブジェクト指向」への言及がなされ、「オブジェクト志向」の表記が生じることとなった。

抽象的な法則が実際に適用される場面を指して、インスタンス化(例化)と呼ぶことにする。この言葉は図らずも、コンピュータのオブジェクト志向プログラミングで使われる用語でもある。つまり、一般的な空っぽの対象としてつくっておいたオブジェクトを具体的な部品として利用することを指す。あまりコンピュータに引きずられてもいけないが、オブジェクトや関数を法則と考えれば(以下略)(p.127)

あえて「クラス」という言葉を用いないがために「オブジェクト」の説明がよくわからないものになっているように思われるが、まぁいい。

情報科学/情報工学と科学哲学

『科学哲学へのいざない』における数少ない表記ミス(?)がまさにここにあることに心を囚われる理由は、情報科学や情報工学の知見が科学哲学に光明をもたらすように思われるからだ。

僕自身、たまにプログラムを書いているし、プログラミングから学ぶことは非常に多い。現実の複雑さに抗い、情報処理によって現実にこれまでにない価値を与えるという営みは、きわめて多くの知見を生み出している。科学哲学分野がこれを参照して取り込まない手はないだろう。「オブジェクト指向科学哲学」を標榜する案もある。

そうした意味においては、科学と技術を峻別し、たとえば人工知能からもたらされる知識は科学ではありえないとして距離を置こうとする『科学哲学へのいざない』は、やや残念な内容を含むものでもあった。

2021-11-16時点でAmazon.co.jpにおけるレビュー0、評価2.5/5.0は、ちょっと低すぎ、売り上げに対するマイナスのインパクトを考えれば同情を禁じ得ないのだが、「例化」という表現を教えてくれた礼としてここに紹介しておく。

決して未来志向とは言えない本書だが、経験に基づく過去指向的発想を学ぶ意義はある。

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