梅棹忠夫「情報産業論」と複素効理論
呪術は一種の情報の体系である。薬効もまた一種の情報の体系ではなかったか。
梅棹忠夫『情報の文明学』(中公文庫、255ページ)
そんな問いかけで締められた一節。
ここに、複素効理論へ至る道のりの端緒を見出すこともできるかもしれません。
情報産業論
本記事は「情報産業論」と題された梅棹忠夫氏の論文を『僕は偽薬を売ることにした』(国書刊行会)へ接続する試みです。
「情報産業論」は1963年(昭和38年)に発表された論文であり、現在は中公文庫『情報の文明学』で読むことができます。
出会い
「情報産業論」に出会うきっかけは、 図書館で別の書籍を探していたおり、佐藤典司氏の『複素数思考とは何か。―関係性の価値の時代へ―』(経済産業調査会)を見つけたことでした。
『僕は偽薬を売ることにした』の執筆作業もほぼ終わり、複素数という数学的な概念に基づいた薬効理論として複素効理論を本書で提唱していたので、このタイトルの書籍を読まないわけにはいかないなと。
そう思って読み始めてすぐ、上記梅棹氏の論文がきっかけで書かれた書籍だと述べられていました。
そうして「情報産業論」に出会ったのだと、恐らくはそう思います。おそらく。たぶん。いまいち確信が持てないのはどうしてか。
それは、複素効理論に関するアイデアの素を「情報産業論」に感じるからです。この論文を既にどこかで読み、しかも感銘を受け、にもかかわらず失念していたのではないか。そんな風にも思われるからです。
「情報産業論」とは
とは言え、複素効理論の素となるアイデアがあったとして、恐らくは盗作や剽窃と呼べるほどに似通っているわけではないと思います。たぶん。おそらく。
また「情報産業論」には独自の価値があります。
当論文の価値は、令和の時代を迎えた現代にあってますます大きくなるようにさえ思われます。
コンピュータが一般には未だ普及しておらず、インターネットなどといったものが情報インフラとして広く活用されることなど誰も予想しえなかった時代。昭和38年とは、そういう時代です。
梅棹「情報産業論」が具体例として取り上げるのは、テレビなどの番組制作にかかわる放送人でした。テレビ番組が提供する情報。モノが関わる実業ではない、虚業的商売。
時代の進展とともに産業の中心が移り変わり、次第に情報産業が巨大化することを鋭く見抜いた梅棹氏は、実業と虚業の対比から実数と虚数の対応を見て取り、情報の複素数的性格を指摘しました。
薬品工業の情報産業論
『情報の文明学』に掲載された「情報産業論への補論」と題された論文中には、下記の記載がありました。
健康食品と薬品をならべてかんがえることは、不謹慎であろうが、情報産業の観点からみると、そこはある種の連続性をみることができるであろう。清涼飲料水とドリンク剤とは紙一重であろう。薬品の製造は、現在のところ工業の一種とかんがえられているけれども、薬品が人間にあたえるものはいったいなんなのであろうか。一粒の錠剤は人間になにをもたらすのであろうか。薬品もまた情報の伝達物ではないのか。
梅棹忠夫『情報の文明学』(中公文庫、87ページ)
偽薬産業の当事者として、これは気になる記載。
薬品の情報論的分析、あるいは薬品工業の情報産業論的分析は興味あるテーマであるが、後日にゆずる。
梅棹忠夫『情報の文明学』(中公文庫、87ページ)
さてさて、どんな論考になるのでしょう。
くすりについて
1987年。「情報産業論」から24年。梅棹氏は「情報の考現学」という別の論文を執筆しています。こちらも『情報の文明学』収載。
その中に、上記「後日にゆずる」の記載を直接受けたものかどうか定かではありませんが、薬品工業について書かれた一節があります。
基本的に本節では、少量で身体に効力を及ぼす医薬品の、その実効性に着目しています。栄養ではなく、あくまで生体に指示を与える価値を有した情報としての医薬品。そして、医薬品を製造する薬品工業。
ここには、プラセボ効果の入り込む余地はないように思われます。
しかし、本節の最終段落。冒頭で引用した呪術と薬効の対比において、若干プラセボ効果への視点を感じるのは我田引水な読み方でしょうか。
呪術は一種の情報の体系である。薬効もまた一種の情報の体系ではなかったか。
梅棹忠夫『情報の文明学』(中公文庫、255ページ)
複素効理論への接続
複素効理論は、プラセボ効果を説明する理論です。それは、情報の捉え方に関する理論でもあります。
情報をもっと広義に
プラセボ効果を考える上では、上記「薬品工業の情報産業論」で用いられている「情報」よりも広い意味の「情報」を取り込まなければなりません。
私たちは、「薬品」そのものによって治療するのではないのです。「投薬」あるいは「服薬」によって治療を試みるのです。
投薬行為や服薬行為には、様々な情報が付随しているはずです。そこには、梅棹氏の薬品工業に関する論考にはなかった視点を導入せざるを得ません。
むしろ梅棹氏は当の論考において医薬品の実数部分しか見ていなかったのではないでしょうか。虚数を加えた複素数的発想はどこへ行ってしまったのか。
梅棹氏の論考を補う虚数的視点を複素効理論は提供できているはず。詳細は『僕は偽薬を売ることにした』でご確認ください。
お布施理論
さて薬品工業の件はさておき、梅棹氏の複素数的発想に戻りましょう。情報の価値が測定可能でないとき、あるいは客観的に示すことができないとき、どのようにして価格を決定すればよいのか。
この経済学的な問いの答えとして提示されるのが、お布施理論です。読経する坊さんに支払われる金額の決定理論。それがお布施理論。
お布施理論は、坊さんの格、そして檀家の格によって価格が定まるお布施の原理に基づいています。
それぞれ単独では決まらない価格が、両者の出会いによって定まる。そうした理論です。
お布施理論は、いわば社会的、公共的価格決定原理である。
梅棹忠夫『情報の文明学』(中公文庫、63ページ)
場の理論へ?
なんとなくながら、ここには場の理論への応用ができるのではないかと感じます。何らかの性質は、それ自体ではなく、置かれた場によって定められるのだという理論です。
お布施理論は、「格」という属性に基づく場の理論になり得るのかもしれません。
またプラセボ効果を考慮した薬効理論を検討する上で、例えば患者と医療者との関係性は無視できないものです。治療という場がどのようなものであるかが患者の治癒現象に影響を及ぼすならば、やはりここに場の理論を想定することも可能でしょう。
複素効理論が直接的に場の理論を志向しているわけではありませんが、応用の方向性としてはありなのかなと。そんな風に思います。
笑い話
最後に、ややどうでもいい話。
『情報の文明学』に記載された、ある笑い話。この話と『僕は偽薬を売ることにした』の「あとがき」の最後がリンクしている件。
参考にして書いたわけではなく。実のところ、「あとがき」まで書き終えた後に『情報の文明学』を読み、その内容に触れる記載を「あとがき」の途中に追加しました。
しかしここまでくると、もう過去に『情報の文明学』に触れ、すっかり忘れていたと考える方がしっくりくるような気さえします。般若心経然り。『情報の文明学』然り。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?