処分に困る過去の遺産たちの話。

備忘録として。

子どもの頃から家の中に転がってたので、存在は知ってたんです。

お祖父さんが戦時中に拾ってきた焼夷弾のカラ、っていうヤツ。父の話によると、祖父さんは中に洗剤を詰めて持って帰ってきた、と話していたそうです。(父も生まれる前の話です。)

サビサビの金属のカタマリだと思ってたし、上田市立博物館に展示されている同型と思しきものは、かなりキレイに保管されていることを知っていたので、こいつには価値もないだろうなと。

先日、実家でちょっとした大掃除をした際に、押入れから出てきたので、あらためて検証してみました。

こいつです。

「大東亜戦争 十九年八月 B二十九より投下の焼夷弾」と読めます。


どこで・いつ拾われたものなのか。

拾ってきたのが祖父さんだと考えると、他の都市ではなく、上田市内で拾った可能性は高いものと考えられますが、では、「十九年=昭和19年」の8月に空襲はあったのか? ウィキペディア先生によると、昭和19年の6月に八幡、10月に那覇、東京が初めて空襲を受けたのも11月ということのようです。となると、昭和19年8月というのは、祖父さんの記憶違いという可能性が高くなります。

上田市の戦争遺跡(上田市役所)ページによると、上田市が空襲を受けたのは、下記の2回の記録があります。

(1)昭和19年12月9日
現在の上田東高校の場所にあった小県養蚕学校がB29の襲撃により焼失(2)昭和20年8月13日・15日
現在の上田千曲高校の場所にあった上田飛行場が被害に

おそらく、このいずれかの空襲の際に投下されたものだろうと考えられます。「B29より投下」とあるのが正しいとすれば、(1)(2)の空襲のうちのB29が飛来した日のもの、ということになります。Yahooの都道府県別被害データによると、19年12月の上田空襲の来襲機はB29?とあり、20年8月13日の来襲機は「アメリカ軍艦載機」となっています。8月の来襲が長野空襲と同じものだったとすれば、「グラマンF6F」「F4U」(??)・・・20年8月はB29ではなかった、と考えると、やはりB29から投下されたものであるならば、昭和19年12月9日に投下されたものと考えるのが妥当な模様。ちなみに、(2)の特に15日の方は、おそらく長野空襲の残りの爆弾を捨てたんじゃないかと思われますね。

  ※当時の人々(一般人)が来襲機をどのように判別していたのか、
   という疑問は残ります。B29に関しては、識別のために、
   エンジン音が一般人にも公開されていたようですが・・・


保存すべき資料としての価値はあるのか。

どうせサビだらけで価値はないだろうと思いつつ、でも実は、一度も現物を見てみたことがなかったので、包みをあけてみました。

うほーう・・・

たしかにサビサビ!ではあるのですが、思ったより・・・しっかり残ってますね。特に写真右側の信管の周辺なんて・・・キレイに残ってるじゃないですか。こ、これは・・・ビビります。本当にこれって「カラ」だよね?を心配するくらい・・・(あ、間違いなくカラです。上の方のフタがぱかっとはずせるそうです。←父談。子どもの頃は遊んでたんだろうね・・・)
あらためて、これって「兵器」なんですね。70年以上前の米国で作られた兵器が、ここに現れるわけですか。こ、怖いなー。

これ、「M69子弾」というタイプの焼夷弾みたいです。ウィキペディア先生では、下記のように記載されています。

木造の日本家屋を効率よく焼き払うため、第二次世界大戦時に米軍が開発した焼夷弾。M69焼夷弾1発あたりの大きさは、直径8cm・全長50cm・重量2.4kg程度。38発のM69焼夷弾を子弾として内蔵するクラスター爆弾「E46集束焼夷弾」などとして投下された。投下後上空700m程度でこれらが分離し、一斉に地上へ降り注ぐ。

ヒロシマ平和メディアセンターのWEBサイトに、元々の姿の写真も掲載されていましたが、上方(上の写真だと左側)に、長い布が4本ついており、落下時に信管部分(上の写真だと右側)が下を向くようになっていたようです。中にナパーム剤(油脂)が充填されており、落下や転がったときの衝撃で起爆装置が起動する仕組みらしい。上の写真でも、丸い部分の突起は、スイッチっぽいですよねぇ・・・

というように、けっこうキレイに残ってはいるのですが、でもサビは多いし、果たしてこれに、希少価値はあるのか、ということになります。ネット検索でけっこうな数の写真が出てくるということは、それだけ日本に大量に投下されたってことなので、希少性はあまりないだろうと推測。東京大空襲で使用されたのもこのタイプらしいですし、上田市立博物館にもすでに同型のものが保管されています。資料として価値があるのかどうかは、疑問。うちの祖父さんが拾ってたってことは、他にも拾った人はいるだろうし(きっと古い家なら出てくるはず!)、数は多そうなんだよなぁ・・・(とはいえ、博物館に問い合わせてみるべきか・・・?)

こうした過去の遺産、私たち現代の家族的には完全に「金属ゴミ」な認識なのですが、うっかり金属ゴミに出してしまったらば、不必要な事件に発展しそうなので、然るべき処理をすべきものなのでしょうが・・・はっきし言って面倒です・・・。なんで気軽に拾っちゃったかな?メモを残したということは資料として残すことを考えたのか、それとも、金属としての価値を期待したか・・・つーか、なんで洗剤詰めて持ってきたわけよ??・・・ツッコミどころがありすぎる。うちの祖父さん、なにを考えてたんだろ? 

・・・というわけで、田舎の物置にありがちな処分に困る遺産問題でした。さてどう処理したもんか・・・(汗)

田舎の実家をお持ちのみなさん、あるんじゃないですか、こういう遺産。

しかしM69焼夷弾。
「木造の日本家屋を効率よく焼き払うために」という目的だとしたら、これってやはり無差別殺人兵器じゃないかと思ってしまいます。実際に家屋は「効率よく」焼き払われ、たくさんの人が亡くなったんですから。

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