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【9】エッセイの社会史

昨今、文章や動画の投稿は、ソーシャルメディアを利用すれば誰でも行えるようになった。誰かと誰かのこころやりとりを伝える身辺雑記エピソード、人生の悲哀や胸騒ぎを刻みつける感情の浄化カタルシスが、この世界のどこかで常に記されていく。

というわけで、エッセイ───自分の思考や動作を「説明や感想や意見を交えて」自由に伝える文章───の社会史───人間と人間の関係の変化を明らかにする学問───について説明しよう。


ちょうど私がドイツへ行ったときは学園紛争の最中だったんです。六九年の末ですから、紛争がほとんど終わりかけてはいるが、まだ余じんがくすぶっている時期です。帰ってきましたら、もう全く人間関係が変わっていたんです。

───中略───

この頃から社会史とは人間と人間の関係の変化を明らかにする学問だというふうに私は定義しているんです。

───中略───

但しこれは私自身の個人的な関心でありまして、日本に社会史を標榜する先生はたくさんおられますけれども、みんなそれぞれ違うと思います。私はそれでいいんだと思っております。

Syakaisi 一橋の学問を考える会 [橋問叢書 第四十三号] 社会史とはどういう学問か 一橋大学 社会学部教授 阿部 謹也

まず、表記はエッセーからエッセイになりつつあり、枕草子に端を発する随筆と物事の善し悪しを判断する小論の意味が混在している。我々は現代の学問が採用している思考の枠組、二元論と要素還元主義によって「随筆と小論」が対立構造だと解釈しているが、ところがどっこい。実際はコインのように表裏一体の関係だ。

詩歌の韻文に対する自由な散文が、稀有な虚構から真実を描き出すフィクション、身近の些細な事実から真実を描き出すノンフィクションとして歩み出したのである。

黙読が未発達だった時代、日常会話に古典や物語の講釈が加味された人々のコミュニケーション。同時代、清少納言を意識していた紫式部が源氏物語を執筆した。いみじくも、弁が立つ人々が世界の中心で語り合う世界で、筆が立つ人々が世界の片隅から意思表示を始めるきっかけとなった。

原本から手書きの写本による情報伝達は、手紙のやりとりが常に自分と相手の分が記される必然に連なり、ふで忠実まめな人々は全国規模の情報ネットワークを可能とした。江戸期の数学書が未来の読者へ宿題を出す遺題いだい継承けいしょうで投稿活動となり、明治期に新聞小説で文豪が研鑽した言文一致体は、学校制度による標準語を仲立ちとして共有された。

明治末期には小品文という百字文の投稿がなされた。

折にふれてちょっとした事柄を短くまとめて書いた文章。特に、明治末期に生まれた百字文の類をいった。短文。小品。

精選版 日本国語大辞典「小品文」の意味・読み・例文・類語 より

1905年(明治38)ごろから10年代にかけて文壇に流行した散文の一形態。原稿紙1、2枚程度のものから、長くても十数枚の短文章で、もと新聞・雑誌の投書文芸の一種として行われ、叙情文、感想文などが主流をなしていた。

───中略───

内容的にも広義の随筆、エッセイから小説に近いコントに至るものをも包含している。また散文詩風の作品もあった。
[岡 保生]

日本大百科全書(ニッポニカ)「小品文」の意味・わかりやすい解説 より

小品文(しょうひんぶん)とは? 意味や使い方 - コトバンク

新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどのハガキ職人(メール職人)、星 新一が第一人者となった超短編のアイデア小説であるショートショートに連なる。大正期から昭和期に作者が主人公の心境小説や私小説が人生の理想と現実を綴り、その隙間を数多の身辺雑記が埋めていったのである。

こうしてエッセイは、ネットでつぶやかれる自分語り、投稿サイトの物語に今も息づいている。

さて、どうでしょう?


壁l・ω・) 壁l)≡サッ!!