見出し画像

舞台で体感した、心身をコントロールすることの難しさ

何度舞台に立っても、緊張しなくなることはありません。本番の恐怖のようなものがあります。
 
私はお能の稽古をしており、その成果披露の場として毎年二回ほど舞台に立ちます。昨日が今年二度目の舞台でした。忘れないうちに、自分の内面(心の動き)とそれが外部化した身体の振舞いについて、振り返っておきたいと思います。
 
舞台は、神楽坂の矢来能楽堂。昨日は二回出番がありました。13時ごろから謡、16時半ごろからお仕舞です。
 
まず、朝自宅から神楽坂にある仕事場にいき、一時間ほど一人で最後の稽古をしました。謡は独吟(一人だけで謡う)でしかも本を見ないで謡う(無本)ことを選んだので、最も恐れるのは本番で言葉(詞章)を忘れてしまうことです。だから、何度も声に出して謡い確認をしました。もちろん他にも、節や拍子、間、テンポなども確認しますが、やはり詞章がきちんと出てくるかが気になります。詞章以外は、多少間違えても何とかなりますし、一般の方は聞いていても気づかないことが多いですが、言葉が出てこず止まってしまえば、誰もが気づきます。
 
仕舞も、二、三回通して稽古しましたが、もう体にある程度入っているので、あまり心配しませんでした。
 
 
そして、最初の謡の本番の前。座る所作を確認のため試していると、正坐する際に右足の指がつり出しました。時々はつることもあるのですが、本番前につったのは初めて。指を曲げたり伸ばしたりして抑えてみたのですが、ダメでした。正坐すると必ずつる。我慢できないほどの痛みではありませんが、悪いストーリーが勝手に浮かんできます。
「舞台に出て、正坐したとたんに指がつり、それで気が散って途中で詞章を忘れてしまい、謡が止まってしまう」
(そういう時は、舞台裏で聴いてる先生が、その言葉を発してくださるので、完全に止まることがありませんが)
というストーリーです。一所懸命頭から振り払おうとするのですが・・。大丈夫だ、うまくいく、楽しもうと言い聞かせながら舞台に上がりました。直前は、普段感じる舞台に上がる緊張よりも、足の指がつることの恐れの方が勝っていたかもしれません。ただ、前の演者が謡っているときには、それらが一本化(説明しがたいのですが・・)したような感覚になりました。
 
そして、切り戸口からゆっくり舞台に出ました。眼鏡をはずしているので、客席は一切見えませんし、見ません。
 
舞台中央に敷かれた毛氈の中央あたりに正坐し、腰から扇をとる所作をして右手に取り、客席最後列の少し上に目を置きました。そして第一声。
 
稽古通りに声は出ていきました。しかし、途中で奇妙にことに、詞章はもちろん節やテンポや間を意識して謡っている自分と、次の詞章を思い出そうとする自分が同時にいるような気がしてきました。
「次はよく記憶から飛んでしまう言葉だ。何だったっけ?そうだ、あれだ」
と、謡いながら数回こんなことが頭に浮かんできました。普段はあまり、こういうことは起きません。謡いながら無意識に次の言葉が出てくるものです。
 
ほぼ思い出してミスなくいけたのですが、一か所だけ一瞬出てこないことがありました。幸いすぐに出てきたのですが、その詞章を言い直してしまいました。出なかった言葉だけ、一瞬の間(ま)の後に発すればよかったのに、その直前の言葉とセットで発してしまったのです(一人で稽古しているときそうするので)。これでは、明らかにミスとわかります。
 
しまったと思いながらも、その後は無事に謡い続けることができました。その間、約5分半。立ち上がって橋掛かりを幕に向かって歩きながら、その一か所の悔しさを噛みしめていました。
 
幕に入り、とりあえずは終わったことで緊張の糸が解けたとき、足の指はつっていなかったことに気づきました。また、それに気づいていなかったことも。舞台に上がる直前、あんなに気にしていたのに、すっかり忘れていました。それは意識から飛んでいたのです。
 
コントロールできなかった「意識」は、足の指よりも「詞章を思い出す」ことに使われたようです。そのせいで、指はつらなかったのかもしれません。ただ、その意識のせいで、頭の中が二分裂してしまったのかもしれず、これはいいことではありません。一方で、もし直前の足の指への懸念がなかったら、「詞章を思い出す」ことに向けた意識はさらに強いものになり、その結果分裂がもっと激しくなったかもしれません。
 
少しの後悔はあったものの、とりあえず謡い終えた安堵感を持って長いインタバルに。
 
次の仕舞の出番まで約4時間ありました。他の演者の舞台を見たりしていたのですが、やはり落ち着きません。かといって、一度緩んだ緊張感はなかなか戻りません。
 
そして、仕舞の出番直前。自分の気分を盛り上げようと、何度も動きを試して確認しました。謡と違って、途中で「真っ白」になる恐れはさほど感じません。ただ、満足のいく大きなメリハリの利いた舞をしたいと思いました。その条件は、後ろで謡ってくださる先生方の地謡をしっかり聴いて、それと動きを合わせることです。
 
前の演者の仕舞が終わるのを待っているときに、手に嫌な汗をかいていることに気づきました。心臓の鼓動も高まる。さっきの謡の時とは、少し異なる感覚です。謡の時ほどの恐れは感じないが、緊張はしている。でも、覚醒のレベルが何となく低いのです。さっきは、緊張していて、かつ覚醒もしていた(でも、足の指の心配が過剰な覚醒を抑えていたのかもしれません)。
 
再び切り戸口から舞台に出ます。大小前に歩み出て、片膝で座り扇を広げて構える。そして第一声を発し、続けて謡いながら立ち上がる。
 
その後は、思ったように地謡の声をしっかり聴きながら、それに合わせて舞を進めました。動きを忘れることもなく、舞い終えました。大小前に戻り扇をたたんで橋掛かりを歩いて幕へ。歩きながら、なんだかしっくりきていませんでした。その正体がつかめていなかったのです。
 
不完全燃焼に感じる原因、その後だんだんわかってきました。ミスなく舞い終えることには成功したと言えますが、自分なりに満足いく舞いだったかと言えば違う。もっと、この曲を舞で表現できたはずなのに、及第点を取ることに終始してしまい、そちらに意識をうまく受けることができなった。悪く言えば、流してしまった。なぜそうなってしまったのか?覚醒レベルが低かったからだと思います。それは(謡と比較すれば)危機感の薄さと、いったん緩んだ緊張感を適切に戻すことができなかったからだと思われます。もっと高いレベルの仕舞をするには、良い集中と覚醒が不可欠です。その後、他の優れた稽古仲間の演技と表情を観て、それを確信しました。
 
考えてみれば、普段の生活の中でも、良い集中や覚醒状態になると、何となく額の中央当たりに意識が行き、そこから世界をみているように感じることがあります(仏像の白毫はその表現でしょうか?)。謡の時は少しそれを感じた(しかし過剰に覚醒すると今度はそこからの視野がどんどん狭くなってしまう)が、仕舞の時にはなかった。
 

一日を通じて、意識と無意識、緊張、恐れ、覚醒、集中などについて、自分の心と身体の反応を体感しながら、いろいろ考えさせられました。そして、またたくさんの課題が見えてきて、次こそは、という意欲が湧いてきました。(毎度のことですが・・)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?