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「ケアとは何か」を読んで

以前、競争の原理とケアの原理という話を書きました。ケアについて、もう少し考えてみたいと思い、この本を手に取ってみました。

本書では、身体と<からだ>を区別して考えています。身体とは客観的に扱うことのできる臓器の集合体であり、<からだ>とは内側から感じる曖昧なもので、日常的に「心」と呼ばれるものと混じりあっています。医学は身体を対象とし、ケアは<からだ>と積極的に関わります。

ケアは人間の本質そのものである。

ヒトは生まれたときから、自力では生きられない。「独りでは生存することができない仲間を助ける生物」として人間を定義でき、弱さを他の人が支えること、それが人間の条件だと言います。

次に、ケアのゴールをこう設定します。

患者や苦境の当事者が自分の力を発揮しながら生き抜き、自らを表現し、自らの願いに沿って行為すること。

これは、私がずっと関わってきた人材開発と全く同じです。人材開発とは、人が本来もっている能力を発揮できるように支援することだからです。スタートポイントが少し違うだけで、人材開発とケアは非常に近しい関係にあることがわかりました。

そのために、

困難を乗り越え、つながるための強い意志と技術がケアの現場を支える。

その技術の一つが、<からだ>から発せられるサインをキャッチする力です。それは、最も根源的な哺乳類の機能だと言います。現代人は空気を読むことは得意でも、この感性が衰えている気がします(もちろん私も)。

コミュニケーションが極めて困難であったとしても、(中略)お互いに努力を続けることで、具体的な単語は伝わっていなくても、<出会いの場>が開かれ、コミュニケーションとなる。

私たちはどうしても言語中心で考えてしまい、それができなければ諦めてしまいがちです。あきらめずに、他の出会いの場を開く方法を模索したいものです。

コミュニケーションこそが人間の生にとって消しがたい価値であることが、ケアの倫理においてはっきりと示されている。

そしてコミュニケーションにおいて、相手の目を見ることが絶対的に重要です。

相手を見ない、ということは、「あなたは存在していない」というメッセージを送ることです。人は他者から「見てもらえない」状態では生きていけません。

言葉は、<からだ>と関係してつながることで意味を成します。以下の出来事は、それを如実に表しています。

母親を失い、途方にくれているきょうだい(小学生と中学生)は葬儀の集まりの中で孤立している。泣くこともできず押し黙っている。そこに叔母が「ひゅって」その二人に寄っていって、「悲しい?」って声をかけたことで、初めてきょうだいは「わあっと」自分の感情を表現する。声かけによって、「きょとん」「ひゅっ」「わあっ」という身体のリズムが生まれる。身体のリズムが活性化して、子どもの<からだ>は生き生きとした様子を回復する。そうして、子どもたちは世界の中に存在を獲得する。

自分が感じたままの言葉を伝えることが、相手の<からだ>を触発し、対話が開かれます。私たちは、頭でいろいろ考えてしまいますが、もっと素直になるべきだと感じます。もし、相手の気持ちがわからなければ、率直に相手に訊けばいいのです。訊かれることを待っているのかもしれません。もしそれも難しければ、ただ「共に居る」だけでもいい。

ケアは自律や自立を支援することとも言えますが、依存しなくてもすむようにするということではありません。

「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと、私は思います。

この熊谷晋一郎の言葉は、目から鱗でした。以前、読売新聞連載の四コマ漫画「コボちゃん」に、こんな場面がありました。どんな人になりたいかを問われ、皆は人を助けられる人になりたいとか、尊敬される人になりたいとか答えるのですが、コボちゃんは「人から助けられる人になりたい」と答えました。深いなーと感じたことを覚えています。

依存先を増やすことは、決して恥ずかしいことではありません。それは、「つながり」をたくさん持っていることであり、また「助けたくなる人」であるということですから。ただし、そうなるためにはどうすべきかを、深く考える必要があります。自立すること、とは考えを向けるベクトルが少し異なるはずです。その上で、依存先に感謝した上で、もっと頼ればいいのでしょう。

人は、他者や環境との相互依存関係によってつくりあげられる存在であることを、忘れないようにしたいと思います。

本書からは、まだまだたくさんの気づきがあったのですが、このくらいにしておきます。

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