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競争の論理とケアの論理

例えば、単身赴任という形態は、競争の論理に基づきます。企業は競争に勝たねばならない、そのために社員は自分の都合よりも会社の都合を優先せねばならない、もしそうしなければ社内での出世競争に敗れてしまう、だから家族を顧みずに単身赴任すべき、こうした論理です。(コロナ禍によるリモートワークが変化をもたらしつつありますが)

こうした論理は追い込まれつつあるように感じます。そこで注目すべきは、ケアの論理だと考えます。ケアとは、大切な他者に対して「条件なしに、あなたがいるからという、ただそれだけの理由で享ける世話」(鷲田清一)のことです。従って。もし単身赴任と世話が対立すれば、無条件に単身赴任を拒否することになります。

なぜか日本の企業社会では、競争の論理が圧倒的に強力でした。男性が牛耳っていたからかもしれません。しかし、時代は変わりつつあります。これからは、競争の論理とケアの論理のバランスを求めていくことになるに違いありません。

そうしたときに、ケアの論理に対する理解の欠如が課題となる気がします。競争の論理は、数字や勝ち負けで明確に語れる世界です。だから、ここまで広く浸透してきたと言えるでしょう。一方のケアの論理では、そういう目に見える尺度がなさそうです。

それゆえ、近頃「贈与」とか「利他」とか、もちろん「ケア」に関する書籍がたくさん出版されつつあります。私もいくつか読んでみました。

「ケアとは基本的に個体が変わるのではなく、環境が変わることです。」(東畑開人)

競争の論理では、個体が変わることを求めます。与えられた仕事環境のもとで、勝つために自分(や家族、そしてその関係性)が変わる。まさに単身赴任とはそういうもの。そうではなく、環境の側を変えるのです。そうなると転職も選択肢かもしれません。

例えば、常に遅刻してくる部下に対して、遅刻にペナルティを課し、強引に定時に来させるのが競争の論理。一方、なぜ定時に来られないかを聞き取り、事情に合わせて制度を柔軟に対応するのがケアの論理。怠けているとは限らず、人にはそれぞれの事情があり得ます。それを前提とすべきで、一括りにするのがいいとは限りません。多様性重視とはそういうことです。

シンプルに言えば、競争の論理は利己に基づき、ケアの論理は利他に基づきます(「助けは人のためならず、の諺のように利他をすることで利己につながるということもありますが)。では、利他とはなんでしょうか?

「利他とは『うつわ』のようなものではないか、ということです。相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること。」
「この何もない余白が利他であるとするならば、それはまさに料理や品物をうけとめ、その可能性を引き出すうつわのようです。」(伊藤亜紗)

器という新たな「環境」を用意することで、中の「個体」が活き活きしもともと持っている潜在能力の発揮を可能にする、それがケアだとも言えると思います。

これまでの前提に基づいてなされる「競争の論理」では、破綻することが多くなっています。前提が常に変わり予測ができない時代には、「ケアの論理」の重要性が高まっています。

ヒトは社会性の動物であり、本能に利他心が組み込まれています。つまりそもそも利他の心はデフォルトになっており、それを信頼することで組織や社会がうまく回るようになるのではないでしょうか。

自律した個人や経済人といった近代に作り上げられた利己的人間像は幻想であり、それに基づくのが競争の論理なのです。

日本人は、一歩下がって料理を引き立てる器が大好きです。これからの世界は、器を愛でる日本人の感性がきっと重視されることでしょう。そうして、競争の論理とケアの論理のバランスのモデルを、世界に示せれば素晴らしいと思います。


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