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経済成長から脱し、贅沢を目指す

先日、「日本にとって成長は不可欠か?」というタイトルで書いた疑問への、ひとつの回答が「人新世の『資本論』」(斎藤幸平著)には書かれている。

メッセージはシンプル、「脱成長コミュニズム」を目指そう!というものだ。成長ではなく脱成長、資本主義ではなくコミュニズム。資本主義に基づく限り成長を追求しなければならず、その結果地球環境が崩壊するという。資本主義のもとでの脱成長はありえず、したがって資本主義からコミュニズムへ転換すべきと説く。

資本論を著したマルクスは、晩年それを予見していたというのが、この本のポイントだ。マルクスといえば、一般には生産力至上主義とヨーロッパ中心主義に基づく進歩史観(いわゆる史的唯物論)のイメージが強いが、晩年には考えをあらため、持続可能性と前近代にみられたような社会的平等に重点を置く新しいコミュニズムを構想していたという。ソ連や中国からイメージする共産主義とは別ものだ。

これまで多くの論者が、地球温暖化対策として資本主義を修正するための方策を論じていたが、斎藤はそもそも利潤最大化と成長を追い求める資本主義では地球環境は守れないというのだ。

そしてそのために、「価値」から「使用価値」への転換を主張する。「価値」とは市場で貨幣として計測されるものであり、「使用価値」とは人々の基本的欲求を満たすもの。わかりやすく言えば、コロナ禍で注目されたエッセンシャルワークは使用価値を生み、ブルシット・ジョブは使用価値を生まずに(高給を稼げるという意味では)価値を生んでいるということだ。コロナ禍のおかげで、いかに我々は使用価値をおろそかにし、価値の追求に踊らされていたかを、世界中の人々が認識したのではないか。

消費の観点で考えてみよう。社会学者・哲学者ボードリヤールによれば、消費には限界がないという。なぜなら消費の対象はモノやサービスではないからだ。モノ・サービス自体ではなく、それらに付与された観念や意味を消費するのだ。そうであれば、人は満足することは難しく、もっともっと欲しくなるのは自然なことだろう。観念消費のゲーム。例えば、エコをカッコよくアピールしたい車好きは、プリウスでは満足できなくなり電気自動車に買い替え、さらにテスラに買い替えるだろう。企業にすれば、不足観を与えることは容易だ。それがマーケティング。今の価値は、次なる価値追求のための発射台となる。こうしたことが(先進国だけでなく)世界中で積み重なれば、地球環境を守れるはずはない。しかし、これが「経済を回す」ということだ。

しかし、と私は考える。使用価値中心の社会は確かに地球にやさしく、不平等も生まれづらいだろう。でも、それで人々は幸せなのだろうか?

私は、成熟社会における「贅沢」がこれからの社会には必要だと思う。贅沢といっても散財することではない。お金のさほどかからない、つまり価値を生まない贅沢はいくらでもある。映画でもいい、絵画鑑賞でもいい。自分が楽しめるものを見つけ、そこから生まれる疑問をどんどん追求していく。なぜ小津安二郎監督は、俳優にカメラの真正面を向いて台詞を言わせたのか?なぜゴッホは糸杉をくねくねに描いたのか?好きなものにはいくらでも疑問が湧き、考えたくなる。考え、追求することは何の苦にもならない。そのプロセス自体が楽しい。こんなに贅沢なことはない。

國分功一郎はこういう。
「楽しむことは思考することにつながるということである。(中略)しかも、楽しむためには訓練が必要なのだった。(中略)人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ。」(「暇と退屈の倫理学」より)

決して難しいことではない。日々の生活において、自分の感覚に少しだけ注意深くなること。こうした贅沢が、脱成長の時代にはとても大切になるだろう。経済は脱成長でも、ヒトは豊かに成長していくことができる。



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