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人としての上質さ

上品な人、品格のある人、品性の高い人・・・、日本語には多くの精神のレベルを著す言葉があります。それぞれ、少しずつニュアンスは異なりますが、私が好きなのは「上質さ」という表現です。

「品」には、「生まれ」や育った環境の良さとの関係が深そうな気がしますが、上質さには生まれを含む環境とは異なる、多くの経験を経て自らが醸成させて獲得していったイメージを私は抱くからです。

私が上質な人として、まず思い浮かぶのは、「男はつらいよ」の寅さんです。上品とも品格とも品性とも少し違う気がしますが、上質な人ですね。人として間違ったことは許せない、困った人をほっておくことができない。自分のことより、周囲の人のことをつい先に考えてしまう。

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こういう温かい人のもとには、あらゆるタイプの人々が集まってきます。インテリから、周囲から誤解され疎んぜられているような人まで。間口が広いのです。寅さんは嫌いな人、苦手な人はいません。だから寅さんを嫌う人もいない。

上質を別の言葉に置きかえれば、「魂が澄んでいる」といえるかもしれません。

「澄んでいる」の反対は「濁っている」です。何に対して濁っているのでしょうか?それは、自分自身に対してでしょう。つまり、自分が持っている善悪の価値観を貫くことができない。なぜなら、損得とか名誉とか名声というような我欲が、その人が本来持っている善悪の物差しを覆いつくし濁してしまうからでしょう。

寅さんのような上質な人は、何があっても自分の善悪の基準を曲げません。それはなぜなのか?私は、それは自分自身を「愛している」からだ思います。自尊心、プライドと言っていいかもしれません。何があっても自分を愛しおおせるのだから、(違いは認識しても)他者を嫌う必要がありません。自分自身を愛せる人だけが、本当の意味で他者も愛せるのかもしれません。

我欲を持つのは自分を愛しているから、かのように見えるかもしれません。でも違います。我欲の根底には、他者との比較があります。人からよく見られたい、人よりも豊かな暮らしをしたい・・・、所詮起点は他者です。それは、自分自身に自信がない、つまり愛しきれていない、プライドを持てないから、止む無く他者に基準を置いている。

魂が濁った人は、「そうせざるを得ない」理由をいろいろと思い付きます。生活のため家族のためとか、社会の常識とか世間体とか。そうして自分を欺いて生きていくことで、ますます魂を濁らせて自分自身を貶めることになってしまう。「質」を落としてしまう。

でも、人として上質であることは、そんなに容易いことではありません。寅さんが旅に出ざるを得ないように。もちろん、寅さん以外にも上質な人はいます。先月、追悼文を書いた能楽師の宮内美樹さんとか、・・・・・。でも、やっぱり旅立ってしまいました。

ソウイフモノニ
ワタシモナリタイ

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