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「自分の頭で考える」でいいのか?

当たり前のように「自分の頭で考えよう」といいます。何度、研修の場面でそのフレーズを聞いたかわかりません。私もそれを当然と思ってきました。

しかし、近頃それに少し疑問を持つようになりました。本当に自分の頭で考えればいいのか、と。

今朝の日経朝刊「春秋」にこんなことが書かれていました。
みうらじゅんさんの「自分なくしの旅」という小説にふれて、

「自分というものは、単体では存在しない。環境や他者との関係により構成されているのだ。だから悩みが生じたときは、自分だけを信じるのではなく相手の気持ちや環境を考えてみよう」

と、みうらさんの卓見を要約しています。

自分が単体で存在すると思うことから、さまざまな勘違いが引き起こされる気がします。よく「自分探し」という言葉を聞きますが、コアにある自分を探すために、玉ねぎの皮を剥くように一枚一枚はがしていったら、最後には何にもなくなってしまった、なんてことになりかねません。

周囲の環境によって「構成」される、そもそも存在そのものがあやふやな自分の頭で考えて、どれだけの意味があるのか?

もちろん一般的に、「自分の頭で考えろ」とは、「自分の頭で考えず、なんでも他人の言うことを鵜のみにする」ことへの、戒めの言葉でしょう。でも、だからといって、単に自分の頭で考えればいいとも思えません。弊害すらありそうです。

「自分の頭で考える」ことは、自分の経験や知識、価値観、そして身についた思考のフレームワーク(これも経験に基づく)を駆使して考えることになります。そうすると、これまでの枠を超えるような発想は出てきません。当たり前です。枠を超えるどころか、強化されるばかり。だから「自分の頭で考える」ということは、危険に思われるのです。

すると、こう反論されそうです。
「私は常に他人の意見を聞いて、その上で自分の頭で考えている。だから、適切な判断ができるのだ」

でも考えてみてください。
他人ってだれですか?その多くは、自分と同じような属性で、似た経験や似た発想をする人ではないですか?仮にそうでない他人の意見を聞くことができたとしても、その意見を素直に受け止めることができますか?選択的認知という心理学用語がありますが、「聞きたいことしか聞こえない」のは人間の本性です。確か、カエサルもそう書き残しています。

ヒトは、外部からの情報を五感で受容し、それに対して「自動的」に記憶に基づき解釈を行います。そして、その解釈を起点にさまざまに思考する。自動的ということは、無意識でありコントロールできないということです。意識できないところを起点に、思考がどんどん過去の経験や身についた思考のフレームワークによって進んでいくのです。

結局、耳に入り、しかも受け止めることができるのは、過去の経験に基づき、自分が望んでいることだけなのではないでしょうか?それを、十分他人の意見も取り入れ自分の頭で考えたことなのだ、と確信することは、考えてみれば恐ろしいことです。

雪が積もった朝、小さな雪のかたまりを転がして、どんどん大きな雪のかたまりをつくったとしても、それは所詮雪のかたまりにしか過ぎない。

「自分の頭で考えられる」などと傲慢に思わず、自分はそんな曖昧な存在なんだと自覚し、そうならないように意識するしかないと思います。そうすれば、自分と全く異なるタイプの人の意見も素直に聞けるかもしれません。

また、自分の陳腐な思考のフレームワーク、つまり「ものの考え方」にこだわらず、偉大な先人たちが築いてきた「ものの見方や考え方」を借りることができるようになるかもしれません。使えるツールは、たくさん持っているに越したことはない。哲学を学ぶことには、そんな意味があるのだと思います。

自分だけでなく、世の中全体の経験が役に立たなくなる場面が増えてきているからこそ、謙虚に環境や他者、そして先人から学ぶ姿勢が重要になってきていると思います。

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