見出し画像

本当に情報過多だろうか?

ネットを使うようになって情報過多になったと言われているが、本当だろうか?その前提は、「情報とは眼から取り入れるもの」ということだろう。

確かにネットを中心に、眼から入手する情報量は10年前と比べて圧倒的に増えている。しかし、眼はヒトが情報を受容する感覚器(いわゆる五感)の一つに過ぎない。

眼からの情報は、文字情報や映像が主体だ。文字情報は、脳の中で意味づけがなされる。つまり、抽象化された情報を脳で加工し、自分なりの解釈で「つくりあげる」ことになる。そのため、あらゆる前提や思い込みのフィルターを通して出来上がった作品ともいえる。

さて、ヒトは他の感覚器からもたくさんの情報を取り入れることができる。ただ、視覚偏重ともいえる世の中で、それは十分とはいえない気がする。もっとたくさんの情報に触れ、取り込むべきだ。新型コロナの影響で、東京を離れ山の中で過ごすことが多くなった今、そのことを痛感する。

例えば触覚。山の家のフローリング は檜の無垢材だ。裸足で床を歩くと、なんとも言えない柔らかさと温かさを足の裏に感じる。もう15年以上ここに来ているが、これまでここまで敏感に感じることはなかったように思う。足裏の触覚の感度が高まったのだろうか。東京のマンションは化学処理されたフローリングなので、全く何も感じない。触覚から得られる情報が少なすぎるのだ。

聴覚。樹々や草むらの隙間から、ガザガサという不自然な音が時折聞こえる。その方向に耳をすまし目をやる。その先にリスや狐やイタチなどの小動物を見つけることもある。他にも鳥のさえずりや虫の鳴く音で溢れている。東京では、確かに耳に入る情報の絶対量は過剰なほど多い。しかし、一つひとつの音が持つ情報量は少ない。例えはよくないかもしれないが、TVから流れてくる音と、コンサートホールで聴く音は全く別物だ。コンサートホールで響く音は、とても複雑で、たくさんの情報を包含している。自然の中には、そうした複雑な音が溢れている。しかし都会では、なかなか出会うことは難しい。

嗅覚。森を歩くと、移動するごとに様々な香りが入ってくる。東京の街中を歩いていても、臭いは止むことはない。うなぎを焼く臭い、中華料理屋の換気扇から流れ出る油の臭いなど。何が違うかと考える。強弱ではなく、やはり複雑さではないか。東京の臭いはストレートだが、森の香りは多くの要素が入り混じった複雑なものだ。東京にいると、複雑な香りを受け止める感度が鈍ってしまう。森でそのリハビリをしているようにも感じる。

味覚。田舎で食べる野菜は味が深い気がするが、そこまでの違いは正直よくわからない。味覚で思い出すのは、以前の断食をしたあとの経験だ。断食道場での一週間の断食明け、徐々に食事を増やしていくのだが、驚くほど味覚が繊細になったことを実感した。滋味とはよく聞くが、それが目の前に見えるようだった。味の複雑さに敏感になれるのだ。その驚きに、これなら定期的に断食した方がいいと思った。イスラムは正しい。だが、その後はしていない。

ファストフードは、速く食べられるからファストだけなく、味に複雑さがなく単調なので、じっくり味わって食べる必要がないためファストなんだと聞いたことがある。

近代とは、複雑さをできるだけ単純化すること、すなわち効率化する時代だったように思う。弱い人類は、微妙な複雑さを敏感に感じとることで生き残ってきた。しかし、近代はその能力を発揮せずに済むような社会をつくり上げてきた。視覚をのぞいて。そんな頭でっかちの人間が招いたのが、現在のコロナ禍とは言えないだろうか?

ヒトが本来受容できる、そして受容すべき情報の一部しか感知していない。その意味で情報過多ではなく、情報過少だと思う。痩せ細った4つの感覚器を活性化させ、できるだけ多くの複雑な情報を取り入れるように努めることが、コロナと共存せざるを得ないこれからに注力すべきことだと思う。いわば感性の復活だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?