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生きる目的は、生きることそのもの

こんばんは。すっかり涼しくなり、夜も早く訪れるようになりました。今日はどんな日でしたか?

私は晩にウナギを食べました。八百屋で売っていた、一匹900円のもので、骨は多かったけど、プリプリしていて脂が乗っていました。
ウナギはそんなに好きじゃないけれど、タレのかかった蒲焼きは、本当に美味しそうな見た目をしていますよね。

さて、今日は最近の私の考えについて、文字にしていこうと思います。
最近のアニメ、特に長い題名で、最後に「〜な件」と来るようなアニメは、結構内容が決まっているように思います。
その内容というのは、恵まれない才能によって周りの人たちから虐げられていた主人公が、突如転生して才能を授かり、類を見ない強さで周りを圧倒する。
もしくは、可愛い女の子が突然家にやってきたり、王子様に激愛されたりする。
だいたいこれだと思います。
前者の話に出てくるような主人公は、最初に、性格は悪くないが容姿や強さに恵まれず、周囲の人間からバカにされている、といった描写がされることが多いと思います。
そんな主人公が周囲にだんだんと認められていく。

そしてそういった話が多くつくられ、多くの人に見られている。

そこには何か、今の社会の風潮といったものも関係しているように思います。
私はそこから、「周りに認められたい、勝ちたい、見返したい」という願望を強く感じます。
そして、そういった願望が起きるのは、それらが達成されていないからだと思います。


ではなぜ、周りに認められていないと感じるような状況になるのか。
それはそもそも、自分自身が自分を認められていないからではないかと思います。
そして、その認められない理由というのは、生きる目的を、社会が決めた基準を超えることにしているからではないかと思います。

例えば、偏差値はこれ以上ないとバカだとか、平均年収は○○○万だとか、結婚は30までにとか、この世の中にはたくさんの基準があります。
私はこれらが苦手です。私は私の人生に、○や△や×をつけたくないし、誰かと比べて苦しくなるのも、幸せになるのも嫌です。
でももしこれらを、自分の中心に据えて生きていたら。
私はきっと、これらの基準を超えるために努力して、もし成功したらそれを誇りとして出来ない人を見下し、もし失敗したら劣等感で苦しむと思います。
そしてその劣等感で自分を認められず、その苦しみを発散するのに、ざまぁ系のアニメを見ると思います。アニメの中の主人公は、劣等感だらけの状態から、誰よりも強い、天才になってくれますから。

しかし、生きる目的とは、社会の基準を超えることなのでしょうか。

私の好きな曲に、bump of chicken の「ray」という曲があり、その歌詞の一節に
「○×△どれかなんて 皆と比べてどうかなんて
確かめる間も無い程 生きるのは最高だ」
というものがあります。

私は、生きる目的は決めたくありません。そうすれば、私の人生には最終的に評価がつくことになります。そしてその基準を達成するために、努力して、苦しんで、それはそれで良いのかも知れませんが、私は嫌でした。
もう、追いかけられるように人生を生きたくありませんでした。
だから、私は生きる目的を生きることにしました。
生きている間はこの目標は達成され続け、死ねばもう私は考えることはできません。
そして何より、生きる上での苦しみも、屈辱も、楽しみも出会いも全て生きる目的だと言えるほど、生きる上での全てを受け入れようと思いました。
そうしたら、私は何にも追いかけられず、歩きたい道を探せるようになりました。

まだ私は道を探している途中ですが、それでも、それなりに苦しくて、それなりに幸せです。

もうすぐ冬ですね。私は冬が大好きです。厳しさと冷たさで、私を包んでくれる冬が大好きです。



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