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読(web)書日記 2024/04/21

 この週末はプライドウィークです。渋谷に行けても行けなくても「Happy Pride!」と声援を送りたいところですが、こんなにそんな声援を発することにすら躊躇、引き裂かれを感じる年があったでしょうか、と書きながら年々五輪や万博のように国威発揚やウォッシング、資本による搾取に利用されている面も強くなっているなぁとも思う。

 現在進行系で続いているガザでの虐殺、日本を含む世界各地で起きている連帯のアクション。SNSでは「じゃあ、ウクライナはどうなんだ」「ミャンマーはどうなんだ」「◯◯は…」「△△は…」という難癖を時折見ますが、そんなの全部、どこであっても反対するに決まっているだろう。ばかじゃないのか。ただ、こんなに世界規模で差別による大量虐殺が見過ごされている現状と日本に住む私(たち)も加担している状況が明らかになって尚、難癖で済ませられるものではないだろう。

 先月の3/11、国立西洋美術館での参加アーティストと有志たちによる「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」の内覧会でのアクションがあった。直後、SNS上ではそれに対して様々な投稿が見られたのだけど、その目的に触れることなく(触れるとしてもエクスキューズ付きで)パフォーマンスとしての評価や是非論、投稿者のお気持ちに溢れるものが多く、心を乱されて何か言いたい気持ちは分かるまでも(私も心は動かされた)、文化人や知識人枠のような方々が感情的に反応しているものが多くて、「だったらよっぽど黙っていればいいのに」と残念になるものも多かった。必要なのは「反応」じゃなくて「応答」ではないのか?

 翌日に五野井郁夫氏による寄稿があり、「応答第一号だ!」と思ったものの、即応答するのがリベラルや左派で運動や活動をしている方にはおなじみの五野井郁夫氏だけでいいのか、という気持ちがあって、もともと政治に対しての発言や活動をしていた人だけでなく、アートを含むカルチャーの現場や今回批判の対象となった川崎重工含むかつての日本型資本主義を支えた重厚長大産業に関わる人、そしてそれらと享受や労働者として関わる人びと(と広げるとかなりの人数に関わることがわかる)、各界各者の応答が必要なのではないかと。

 そして1ヶ月後、文化研究者の山本浩貴氏の応答があり、全4回予定の現在第2回目までが公開されている。日本にいる自分が応答する必然性、今起きていることとそれに繋がる今までのことが、引用文献含めとても丁寧に書かれているので必読です。

 そして、冒頭のプライドウィークの話に戻ると、プライド・パレード自体が人間の多様性と尊厳、その生を祝福するハレの祭りだと思う。先に引用した声明などをご覧いただければお分かりの通り、今回のイスラエルによるジェノサイドに加担している企業がその祭りの協賛企業として名前を連ねている。なにこの矛盾。
 参加する人たちには楽しんでほしいし、その生を謳歌してほしい。でも、参加を決めた人も不参加を決めた人も凄い引き裂かれや後ろめたさ、辛さを感じている。おかしいだろ。

 中村香住先生…誠実…(泣)と、なったけれども、なんで本来はこの祭りの主役である人たちに、応答責任を負わせないといけないのか。ここでの応答責任は、この日だけ旗を振ってブースを出してアライ面する企業とアライ面して祭りの部分だけを楽しむマジョリティにあるのではないか。と、ジェンダーとセクシャリティに関してはマジョリティである私は思います。
 マジョリティが言う「みんな違って、みんないい」がマイノリティの背景と実存を全て吹っ飛ばす暴力であるように、まさにマイノリティを利用してウォッシングしてきたイスラエルという国家とその国家に殲滅されようとしている人たちとその地域へのとてつもない暴力。これを看過していいわけないよな、と思います。

https://www.iwanami.co.jp/book/b645182.html?

 いま出てる『世界5月号』の早尾貴紀氏の寄稿「ガザ攻撃はシオニズムに一貫した民族浄化政策である」は日本の歴史とも繋がるもので、今ひとつ「何で日本(人)が?」ということにピンとこない方々に読んでほしい。というか、上記にも引用した各記事や寄稿を読んでもピンとこなかったら(自分と無関係と思えたら)、その理由を逆に聞きたい。

心の底から「Happy Pride!」と言い合える日に向けて。
なので、本日は近所の図書館以外どこへも行かないけど黒い服を着て過ごします。



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