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パニック障害 改善までの20年体験記【完全版】

連載でお届けした体験記。
こちらからは1~36を一気読みできます。
合わせてよろしくお願いします。

1.はじめに【ごあいさつ】

はじめまして。記事に目を止めて頂き、ありがとうございます。
白川咲子と申します。

1976年大阪生まれ大阪育ち、お笑いとB‘zをこよなく愛する45歳です。noteは書くのも読むのも初心者です。無作法ありましたら、申し訳ございません。徐々に慣れていければ幸いです。

では、本題です。

これは私が20代前半に発症したパニック障害を、カウンセリングと横井式3ステップ認知行動療法によって改善させ、パニック障害発症前よりも楽に快適に、自分に正直に生きられるようになるまでの20年体験記です。

酷い時は自宅のトイレすら飲み物を持ち込まなければ不安だった私が、楽に過ごせるようになるまでの記録。

「パニック障害って、治らないのでしょ?」と諦めている人に、実際に元気になった私の体験が届きますように。少しでも未来への希望につながりますように、との気持ちを込めて書きました。
長くなりますが、最後までお読み頂けたら嬉しいです。

「これを読めば、パニック障害が楽になる」と言った類ではありません。

「こんな経緯を経て楽になった人がいる。なので、あなたのその症状も諦めないで欲しい」との体験記です。

よろしくお願い致します。

※本文にはパニック発作時の詳細な描写があります。気持ちが引きずられるようでしたら、読むのを止めて楽しいことを考えて深呼吸してください

 

〈1.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

突然出てきた【横井式3ステップ認知行動療法】に戸惑われるかもしれません。すみません。これは、私がお世話になったカウンセラーさんが提唱するパニック障害改善のステップです。詳細は2.の自己紹介をお読みください

 

2.現在の活動について【カウンセラーです】

また、現在私はお世話になったカウンセラー横井先生のもとで、オンラインカウンセリングの新米カウンセラーとして活動しております(不安障害・パニック障害カウンセリング│ライフコーチング life-coaching.link)

体験記は純粋な体験記となっております。

私が実際にカウンセリングを受け、どのような経緯で元気になっていったか、横井式3ステップ認知行動療法の実践結果や気持ちの浮き沈みなど包み隠さず書いております。

それを読んだ結果「カウンセリングを受けて楽になりたい」と思う方が、一人でも増えたら私は嬉しいです。それが、当カウンセリングルームだったらなおさら嬉しいな、とのスタンスです。

〈2.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

【横井式3ステップ認知行動療法】の大まかな説明はありますが、それだけ読んでもピンとこないかもしれません。これはあくまで私の体験記なので、「自分の症状にあてはめて改善させたい」と思う場合は、HPをご覧ください

 

3.発症2000年夏【恐怖は突然やってきた】

※今回の話にはパニック発作時の詳細な描写があります。気持ちが引きずられるようでしたら、読むのを止めて楽しいことを考えて深呼吸してください

ミレニアム(懐かしい)に沸いていた2000年。私が24歳の夏の夜、大阪の繁華街十三(じゅうそう)のカラオケ店で初めての発作が起きました。友人とお酒を飲みながらカラオケを楽しんでいた所、急に自分の意識が離れていくのを感じたのです。意識が遠のくのではなく意識はあるけれど、その意識が遠くにいく感覚です。それを上から自分で見ているとなると幽体離脱なのでしょうが、そうではないのです。

体の私は友達としゃべっているのに、意識だけが遠のく感覚です。

のちに【離人症】と判明するその感覚を、私は子供のころからの体験で慣れていました。そのため、【離人症】だけならば普通にしゃべってやり過ごせるのですが、その時はいつもと違いました。

まず、言いようのない恐怖心が私に襲いかかってきたのです。徐々にその恐怖心は輪郭を表し【もうすぐ私は死ぬ】と強く感じ始めました。

【死にそうに苦しい】ではなく、ただ単純に【私は死ぬのだ】との強い恐怖だけが私を支配しました 。
【ここに居ては死ぬ、とにかくこの場を離れなければ】と思い立ち、いったん外へ出て彼氏へ電話をしました。

「なんか体と頭が変。怖い。ヤバい」(語彙力)、とだけ必死に伝えました。電話で話しているうちに意識が身体に戻り少しは安心したものの、そのまま歌いなおす気は起きず。結局「体調が悪くなったので、帰ろう」と友人にお願いし、友人と一緒に自分の家へと帰りました。

帰ってきてから【離人症】は出ないものの、恐怖心は継続していました。でも、その時はお酒のせいだと思っていたので、眠ってお酒が抜ければ普通に戻ると信じて眠ることにしました。眠る前に【私はこのまま死ぬ】と恐怖が増大しましたが、それをとにかく【お酒のせい】で押し込み、何とか眠ることには成功しました。

翌朝、恐怖心はキレイさっぱり消えてなくなっていました。「やっぱりお酒のせいだったのね」と安堵したのですが、それは大きな勘違いでした。こうやって突然に、20年続く私とパニック障害との生活が始まりました。

 〈3.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

この体験を思い出す時、二つの光景が浮かびます。
●電話をしながら見た夜空とカラオケの外観
●空から見下ろす電話している自分とカラオケの外観

不思議です
やっぱり幽体離脱していたのかなー、って思うほどに、電話している自分が思い浮かびます

20年以上も前の事なのに、今でもハッキリ思い出せるって、やはり負の体験は根強いってことを思い知らされます

 

4.病院での仕打ち【内科】

※今回の話にはパニック発作時の詳細な描写があります。気持ちが引きずられるようでしたら、読むのを止めて楽しいことを考えて深呼吸してください

初めての発作から数週間後。
今度は仕事中、突如として【ソレ】が起こりました。

意識が遠のく感じ、そして猛烈な恐怖心です。とにかく怖くて怖くてしかたがありませんでした。その場にいるのが耐えられないので、またもや外へと飛び出しました。外に出てブラブラ歩くうち少しは落ち着いたのですが、今度は息苦しさを感じるようになりました。

一度は大丈夫と思った私も、さすがにおかしいと思いました。前回は夜中、お酒も入っていたので【お酒のせい】にできたけれど、今回は昼間の仕事中。もちろんお酒は飲んでいないし、場所も地下や高層階ではない、ビルの3階です。そんな場所での恐怖心と息苦しさに、私は心底戸惑いました。

でも、今回はちゃんと【息苦しい】との症状があったので、肺か何かの病気を疑って、会社の近くにある総合病院の内科を受診しました。問診票にも【息が苦しいです】ときちんと書きました。問診票を見たお医者さんはレントゲンを指示し、おとなしくレントゲンを受けました。

これでハッキリ原因がわかり、薬でスッキリ元気になると思っていました。

でも、レントゲンを見た医師が言ったのは「空気、通っていますよ」のひと言のみ。しかも半笑いで。「へっ、空気通っていますけど?」って、バカにした言い方でした(20年も前のことを執念深く覚えております)。

私が「でも、苦しいです」と訴えるも、医師は「イヤっ、空気通っているので」とそれしか言ってくれません。結局それ以上は何も言えず、薬も出されずに診察は終了しました。

その時もチラッとね、メンタルが影響して症状出ているのかな?と、私も考えました。でも、そこは総合病院で【心療内科】もあったので、世間知らずな私は、「もし、メンタルから来る不調ならば、内科の医師が心療内科を紹介してくれるはず」と信じていました。

そのため私は【心療内科について何も言わないということは、本当に何の病気もない。息は通っているし健康体】とプラスに解釈するようにしました。

モヤモヤは残っていたけれど、それ以上は望めない。何より、自分がそう思いたかったのかもしれません。私は病気じゃない。私は普通だ。あの症状はたまたまで今後一切起きない。そう思いたかっただけなのかもしれません。

〈4.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

まずは病院へ行くだけでも勇気が必要だったので、よく頑張った私、とほめてあげたい(笑)。
あと、私はこの数年前に、スキューバダイビングで本当に息苦しくなる体験をしていたんですよねー(息苦しくなりかけくらいで、まったく危険な状況ではなかったのですが)。仕事のストレスに息苦しくなる経験が重なり、本格的な発作を発症するようになったと、当時の自分は思っていました。ある意味間違いではなかったけれど、根深い部分を見ていなかったのが改善を遅らせた理由と、今なら思う

 

5.本屋にて【私ってパニック障害?】

2000年当時、本屋には【パニック障害】について書かれた本がチラホラと並び始めたころでした。名前だけは聞いたことがあった私は、何となく【パニック障害】の本を立ち読みしてみました。

何となく読んだそこには【息苦しくなる】【意識が遠のく】【猛烈な恐怖心】など、私に起きた症状が次々と書かれていたのです。本を読んで、すごくドキドキしたのを今でもハッキリと覚えています。

でも「私はコレなのだ」との安心感ではなく、焦燥感で本を閉じました。

なぜなら、怖いからです。本で症状を読むと、症状が誘発されてしまうのです。そのため【パニック障害】の情報を知りたいけれど、情報を集めることがまったくできませんでした。

私の状態はその後も微妙な感じが続きました。大きな恐怖心は出ない。大きな息苦しさはない。でも、何となく息苦しいような、何となく怖いような。毎日がそんな日々の連続です。自分で「気のせいよね」と言い聞かせながら過ごしている感じです。

〈5.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

最初【パニック障害かも?】と気づいた時は、ちょっと嬉しかったんです。原因がわかれば解決策もすぐ見つかると思っていたから。でも、軽い気持ちで立ち読みした時の焦りも鮮明に思い出せます。発作の恐怖体験って、なんであんなに根強いんですかね? それに一人で耐えるのはやっぱり難しい、と改めて思います

 

6.病院での仕打ち【神経内科】

本屋さんでは逃げ出したものの、心のどこかで【パニック障害】なのかもしれないとの思いもありました。曖昧だから不安なのかもしれない。そう思い立って今度は【パニック障害】を診てくれる病院を探しました。

そこで、今度は診療内容に【パニック障害】がある、大阪市内総合病院の【神経内科】を発見しました。

そして、決意も新たに受診を決めました。不安だけど、期待もあります。次こそは私の辛さをわかってもらえる、楽になれる!との期待です。

しかしそこでも、私は病院に裏切られました。
症状を訴えた私に「でも、今は普通ですよね」と、医師が言いました。「今、息苦しくないですよね。息はできていますよね」と、更に医者が言いました。

確かに私はその時、普通でした。でも、突如として普通ではない時がやってくる、その恐怖心に苦しんでいたのです。

その辛さの原因が知りたくて、少しでも楽になりたくて頼った大きな病院の医師に「だって、あなた、今は普通ですよね。そんな普通の人に薬は出せないし、治療法もないです」と言われて私は絶望しました。

でも、前回内科で何もせずに撤退した教訓を生かし、勇気を振り絞って食い下がりました。

「じゃあ、どうすれば良いのですか?」と訴えると、医師は私に「我慢すれば」と言い放ちました(これも20年たった今も執念深く覚えています)。

もう、何も言えません。絶句です。

しかし、その時はさすがに泣いてしまったのです。「散々我慢はしてきたよ。でも、辛いから来ているのに」と絶望感でいっぱいの涙でした。

そうすると医師は慌てて、「じゃあ、薬出しますね」とだけ言って、そのまま診察は終了しました。

その後院内で一時間待たされ、出された薬には副作用がいっぱい書かれていました。【めまい】【ふらつき】【下痢】などなど。薬の効能はサラッとしか書いていないのに、副作用は丁寧に書かれていました。

医師から薬の説明はひと言もなく、あれだけバカにした感じだったのに泣いた途端に出された薬。そんな薬はただでさえ信用ができない上に、副作用はいっぱいなのです。その状況で、その薬を飲めるわけがありませんでした。

結局私は2件の病院へ行き、【内科】と【神経内科】で、【肺には問題がないから息は通っている】とのことだけがわかりました。

〈6.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

医師が面倒くさそうに「じゃあ、薬出します」って言った姿、今でも浮かびます。院内処方箋で再び泣くのをこらえながら薬をジッと待ったのも(改めて書いていると病院での嫌な体験、ずっと根に持ってるね)。

そんな経験を繰り返したからか、今でも病院は苦手です。でも、母親ってめっちゃ病院行きますよね。自分の分と子供の分。楽しい病院経験増やしていきたいけど、楽しければ病院なんて行かずに済みますからね。楽しくない時に行くのが病院、と割り切って、楽しみを持って行くようにはしています

 

7.再び病院探し【心療内科との出会い】

モヤモヤした気持ちを抱えながらも日常生活を送っていましたが、症状は徐々に酷くなっていきました。

【地下鉄】の駅にいると、逃げ出したい感覚に襲われました。
【JR】の車内で本を読んでいたら突如恐怖心と息苦しさが襲いました。

そんなことを繰り返すうちに、【地下街】【地下鉄】【窓のない場所】【高層ビル】【暗闇】がダメになりました。それに伴い【高速道路】【トンネル】【渋滞】も苦手になりました。

苦しさを感じた時に外に出て難を逃れていたので、【自由に動けない状況】【自由に降りられない場所】に恐怖心を抱くようになっていたのです。これだけ苦手なことが増えた私ですが、それでも仕事に行き、日常生活はなんとか送れていました。

そんな状況を久しぶりに会った小学校からの幼なじみに話すと「それは、ちゃんと病院へ行った方が良い」と言われました。でも、2件の病院で心をバキバキに折られた私は、断固拒否しました。それでも幼なじみは食い下がり「その病院が合わなかっただけかもしれない。あなたに合う病院が見つかるはず。その状況は気のせいではないと思う」と強く言ってくれたのです。

8歳から20年近い付き合いの友達からの言葉は、私を動かしました。そして私は再び病院を探しはじめ、ネットでパニック障害に理解がありそうな心療内科を見つけました。

2件の経験で疑心暗鬼になっていた私は受診をためらっていたのですが、HPにメールフォームを発見しました。そこで、ひとまずメールフォームに「こんな症状ですが、診てもらえますか? 気のせいではないですか?」と、状況やほかの病院でのことを細かく書いて送りました。

その返事は「1度でもツラいと思ったのであれば、ぜひ来てください。一緒に楽になる方法を探しましょう」。そんな内容でした。散々【気のせい】【普通】と言われた私には、そのメールだけで泣くほどうれしかったです。そこで、この心療内科への受診を決意しました。それは、初めて発作が出てから約2年後のことでした。

〈7.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

そんな、ありがたい言葉をくれた幼なじみと、今は疎遠です(笑)。何があった訳ではないのですがね、何もないからこそ切れる縁もありますよねー。でも、この幼馴染は、小学生から20歳まで弱みを見せて甘えられた、唯一の存在だったかもしれません。また、コロナが落ち着いたら同窓会とかで会えるかなー。会えたらいいな

 

8.薬との出会い【心療内科で投薬治療】

意を決して行った心療内科は、それまでに行った2件の病院とはまったく違う診察でした。でも、私が想像していた診察とも違いました。

心療内科というと悩みを聞いて「仕事がストレスですね。まず、仕事をやめましょう」と言われると思っていました。しかし、その病院では発作が起きた回数や状況など、症状のみを聞かれたのです。

そして医師が言いました。「私は元々薬学が専門です。心療系の疾患は薬を上手に使う事で絶対に楽になります。必ず元の生活に戻りましょうね」と。

その時は今度こそ楽になれると思いました。実際、出された薬を正しく飲んで、私の症状は劇的に改善しました。薬さえ飲んでいれば地下鉄も乗れるし、飛行機にも乗れます。私は以前のように、色々なことを普通にできるようになっていました。あの日が来るまでは。          

〈8.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

本当に良くなっていたんですよねー。新婚旅行で飛行機に乗って海外旅行も行きましたし。高速道路も電車も、地下も高層階も普通に行っていました。ストレスのみが原因で発症した場合は、薬で発作を忘れたらそのまま寛解するケースも良くあると思います。ただ、私の場合は薬で症状を抑えているだけで、根本的な改善には至っていませんでした

 

9.薬が効かなくなった日【大阪駅前ビル22階で大発作】

※今回の話(ブログ引用部分)にはパニック発作時の、さらに詳細な描写があります。気持ちが引きずられるようでしたら、読むのを止めて楽しいことを考えて深呼吸してください

薬を処方された私は、大きな副作用もなく薬とうまく付き合えていました。自分でも「もう、治っているのかな?」とは思うものの、たまに発作が出ていたし、病院へ行かないのも不安なので通院は続けておりました。

医師からも「もう薬を飲まなくて大丈夫ですよ」と言われないまま、通院歴は5年目に突入していました。31歳になった私は小さな編集プロダクションでライターとして、超絶不規則な生活が続いておりました。

そんな中、引っ越しで環境が変わり、それまでほとんど乗ることがなかった地下鉄に乗る機会が増えたのです。5年で自信を付けていた私は、地下鉄も大丈夫だと思っていました。しかし、それが甘かった。その頃から、小さな発作が頻繁に出るようになっていました。そして、極め付きの発作が起きました。当時のブログに発作状況の詳細が書かれていたので引用します。

★2007年7月27日 ※以下ブログ引用

仕事で大阪第3ビル22階の県事務所にリサーチへと出かけました。
環境の変化で発作が起きてから、地下鉄を避け、

お酒を避けて生活していたので、
それ以来、発作は起きていませんでした。
なので、油断していました。
会社を出る前に「お茶を持って行こうかな?」とも思ったのですが、
手持ちのお茶が少なかったので「まっ、いいか~」と思ったのが運の尽き。

今まで、エレベーターで発作が起きたことはありませんでした。
なんやかんや言っても、エレベーターやったら降りられるし。
ただ、今回は違いました⋯。
18階までノンストップで上がるエレベーターに乗ったのですが、乗った瞬間、頭がふんわり状態。脈拍アップに、息苦しさも出てきました。
22階を押していたけど、とりあえず18階で降りることにしました。
降りて自動販売機でお茶を買って頓服を飲んで、外の景色を見て落ち着こうと思ったのです。

しかし、オフィスビルなので降りた場所には会社への扉しかない。
普通の人が入れる場所に、窓がない。しかも、自動販売機もない。

立ち止まっていると怖いので、ひとまず階段で目的地でもある22階へ。
自動販売機は諦め、給湯室の水道で薬を飲んで、一段落。
お目当ての場所にたどり着き、平静を装いながら先方と話を続ける間に、症状が去るのを待ちました。でも、頭はクラクラ、息苦しくて立っていられない。

『もう、これ以上は無理』と思ったので、先方には『暑気あたりみたいなので、少し休ませていただいてもいいですか?』と断りを入れ、イスに座っていました。

顔色が相当悪かったのか、事務所の方が冷たいお水を持ってきて下さり、
さらに『会議室で休んでください』とありがたい提案がありました。

お言葉に甘えて会議室に入ると、何よりうれしいのが【外が見える】こと。
しばらく休めば落ち着くだろうと思うも一向に動悸、息苦しさは治まらず。
早く地上に降りたいが、降りられない。

少しマシになっても、降りるためにエレベーターに乗る事を考えると、息苦しくなる。考え抜いた挙げ句、夫の仕事が休みだったので、半泣きで電話をしました。※最初の発作で電話した彼氏と、数年の間に結婚していました

事態を察知したらしく、『タクシーで行く』との返事をもらえました。
夫に電話して体調は戻ったのですが、やっぱり足が動かない。
それから待つこと30分。夫に支えられながら、階段で22階を降りました。
地上って素晴らしい。

その後、心療内科の先生に電話し、
『1時間前に頓服飲んだけど、効いていないから、もう1錠飲んでもいいですか?』と聞くと『4錠までなら1度に飲んでもいいから、本当に辛ければ飲んでください』との言葉を頂き、安心してもう1錠飲みました。
その後30分ほど夫と話し、何とか仕事に戻りました。
“逃げ出せない!”って状況が、初めてだったので大変焦りました。
※引用終わり

これが当時の状況です。投薬治療を始めた私は、本当に順調だったのです。

しかし、決して【治った】とは思っていませんでした。それは、自分では発作と意識していない恐怖心は、薬を飲んでも出ていたからです。医者からは「薬を増やしましょうか」と提案されました。10ミリ飲んでいた薬を「20ミリに変更しませんか?」と言われました。

ワラにもすがる思いの私は、もちろん快諾しました。
でも、薬を増やしても、前のような生活には戻れなかったのです。

地下鉄だけでなく電車に乗るのが全部無理になりました。高速道路も助手席はかろうじては大丈夫ですが、自分で運転して走るのが無理になりました。

高層ビルのエレベーターも無理です。当時は朝晩飲む薬とは別に、苦手な場所へ行く際に飲む頓服をもらっていました。頓服さえ飲めばどこへも行けたのが、ビルでの発作時に薬を飲んでも変わらなかった恐怖から、今までのように薬を信頼できなくなってしまったのです。

職場は私の体調に1ミリの理解もなかったので、体調不良を理由に9年勤めたライターの仕事を退職することにしました。でも、この時もまだ私は【パニック障害】はストレスからのみ発症する病気だと思っていたので、仕事を辞めれば発作は出なくなると思っていました。

仕事を辞めて規則正しい生活をすれば、元気になれると思っていました。でも、仕事を辞めてからが真の地獄だったのです。

〈9.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

振り返ってみて、5年も通院していたとは驚きでした。発症して2年後に病院探しを開始し、5年通院しているので足掛け8年。ライター生活9年中、8年パニック障害と共に過ごしていたんですね。そう考えると、ちょっとビックリ。若さですかね? 逆に言うと、薬を飲みながらだったから、9年もあんな激務を続けられたのかな?とも思います

また、薬に関してハッキリと記載できずすみません。当時の記録がなく、飲んでいた薬の種類が厳密に思い出せません。【パキシル】【デパス】【ソラナックス】を飲んでいたのは確かです

 

10. 断薬【退職からの妊娠】

体調不良を理由に退職しましたが、私には前向きな目標がありました。それは、妊娠出産です。28歳で結婚し、退職時32歳だった私は子どもを産みたいと考えていました。

でも、10:00出勤、22:00退勤が当たり前、ロケの日は6:00集合して深夜1:00時帰宅、が当たり前の職場では妊娠・出産のビジョンが見えませんでした。日頃の会社の状況から、妊娠したからと言って配慮が望めないこともわかっていました。

そこにきて、発作が頻発して仕事にも影響が出始めたので、この辺が潮時と思って仕事を辞めたのです。心療内科の先生も「妊娠したら薬をやめた方が良いので、妊娠したら教えてくださいね」くらいだったので、パニック障害の治療薬の妊娠への影響などはみじんも気にせず妊活をしておりました。

〈10.仕事に関して振り返った2021年の気持ち・補足1〉

当時、社長に言われた言葉。

23:00まで働きながら「今日誕生日なのにこんな遅くまで仕事大変」(でもやらなきゃいけないのはわかっているから単なる愚痴)と言ったら、「誕生日って年じゃないでしょ」と言われ(でも、自分は子供がお祝いしてくれるから、と誕生日早く帰る)

祖母がなくなり葬式に出る際も「火葬場までは行かなくていいよね?」(老齢やし、そんな悲しくないよね?それより早く帰ってきて仕事して)と言われる

そのような状況下で妊娠したとしても、仕事をやり続けるのは不可能だと感じていました。」でも、中学生から憧れだった念願の仕事だったので、辞める踏ん切りが付かずにズルズルと働いておりました。

〈10.妊娠に関して当時を振り返っての補足2〉

当時は妊娠に関して無知過ぎたので、薬を飲んでいながらの妊娠に特に不安はありませんでした。でも、今だと情報も多く、薬を飲みながらの妊娠は不安になっていたと思います。

私は妊娠出産に問題はありませんでしたが、妊娠出産を考えている方は主治医と相談して妊活することをおすすめいたします

 

11. 断薬【妊娠初期】

そして仕事を辞めて数か月、私は妊娠をしました。心療内科で相談し、服用していた薬はすべてストップとなりました。

「胎盤が完成する、いわゆる安定期に入るまでは薬を飲まないようにしましょう」と言われたのです。頓服が効かなくなっていた私は、これを軽く考えていました。

毎日服用していた薬の効果はあってないものと思っていたので「3日ごとにリバウンド現象がくると思いますが、それも薬を飲まずに耐えてくださいね」と言われても軽く考えておりました。

医師の宣言通り、2日目まで体調に変化はありませんでした。しかし3日目に、ちゃんとリバウンド現象がやってきたのです。

胸のムカつきと言うよりは、めまいに近い感じです。常にフラフラしており、起きているのがツライ状態でした 

でも、発作的な症状は何も出ていないので、ひたすら寝転んで耐えました。しかし、断薬して1か月。ついに不安感が強くなり、夫が仕事へ行っている間、一人で家にいるのに耐えられなくなりました。

〈11.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

つわりなのか断薬のリバウンドなのか発作なのか、とにかく辛かったです。また、この時ドラマ【アテンションプリーズ】の再放送を見て号泣したのを覚えています。普段、刑事ドラマしか見ないので、そんなドラマを見ようとしただけでも珍しいのに、なんでもない頑張りに号泣して「いよいよヤバいな」と思うも、涙が止まらない、超絶に不安定な時期を過ごしました

当時、友人が近所に住んでいて遊びに来てくれていました。起き上がったりはできないけど一人は不安な私に「寝ながらでいいよー」と言いながら話し相手になってくれる時だけが昼間の落ち着ける時間でした

 

12.断薬【妊娠中】実家で猛烈な発作

※今回の話にはパニック発作時の詳細な描写があります。読んでいて気持ちが引きずられるようでしたら、読むのを止めて深呼吸してください

一人でいることが不安になった私は、車で30分の実家に帰ることにしたのですが、これもまた間違った選択でした。
落ち込んでいる時に環境を変えたので、余計に不安感が強く出ました。

不安感はあるものの家には母がいるし、断薬のリバウンド現象やつわりは治まっていたので、「ちょっと歩こう」と思い立ち、徒歩10分のスーパーに一人で買い物へと出かけた時です。

そこで、今まで経験した中で最も恐怖心の強い発作を体験しました。
その場に立っていられないほどの恐怖心です。今すぐ、その場を離れて、叫び出したいほどの恐怖心です。

意識はもちろん遠くにあるけれど倒れはせず、買い物を中断して必死の思いで歩いて帰りました。坂を上る10分の道のりを、恐怖心に支配されながらも必死で歩きました。

何とか家にたどり着き、布団に潜り込んで眠ることだけを考えました。【眠れば恐怖心が去る】その頃の私には眠ることが唯一の対処法だったのです。

それ以上に酷い症状は出ず日常には戻ったのですが、実家では体調が悪くなるばかりでした。母との折り合いも悪くなったので、結局一週間で自宅へ戻りました。

この、スーパーでの出来事は私に大きな衝撃を与え、大きく行動を制限しました。なぜなら、今までは高速道路や地下鉄など、【自分で自由が利かない閉塞的な場所】限定で発作が出ていたからです。

でも、スーパーと言う開放的な1階で発作が出たことにより、私はどこへ行くのも怖くなってしまったのです。結果、産婦人科医と心療内科医と相談のうえ、安定期からは頓服を服用する事になりました。

〈12.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

私にとって実家や親は安心できる存在ではありませんでした。幼少期から押さえつけられていた感情が新しい家族を得ることで緩み、緩んだ結果歪みが生じて【パニック発作】に繋がったとも思っています。不安だらけの幼少期、でも誰も助けてくれない+せっかちが合わさって、自分でなんでもやる、積極的な人間になっていったのです。それが、元来の自分の性格のように。そこに仕事での強いストレスが加わり、体がついに限界を超えました

今だから思うけれど、パニック障害を発症していなくても、私は健康なままではいられなかったと思います。何かしらで苦しんでいただろうな、と思うほど私は無理をして生きていました

 
13.頓服のみ服用【妊娠と薬の関係】

私は妊娠前から抗不安薬などを服用していたことで、最初に受診した個人の産婦人科で、総合病院の産婦人科での出産をすすめられました。

「あなたが発作でどうにかなる心配はないけれど、出産した赤ちゃんに影響がないとは言い切れない。総合病院ならNICUがあるので、万が一薬の影響が出ても迅速に対処してもらえるから」との説明でした。

その総合病院ではハイリスク妊娠・出産を多く受けつけているため、私のパニック障害にも理解があるとのことでした。建物の高さなど不安はありましたが、結局私は総合病院での出産を決めました。

妊娠中は産婦人科が心療内科と連携を取り、頓服を飲むことにも肯定的でした。そのため妊娠6か月ごろ、胎盤が完成して安定期に入ってからは、再び頓服を飲むようになりました。

1度は裏切られた頓服ですが、日常生活での不安解消には役立ちました。妊娠中に【高速道路】や【地下鉄】に乗る必要もありませんでした。

たまに友達とドライブへ行った際、妊婦検診で不安が出た際に飲んでいました。

〈13.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

エレベーターが怖かったので、個人病院が良かったんですよねー。評判も良かったですし。でも、とても親身になってくださる医師が、めちゃくちゃ混雑しているのに丁寧に説明してくださりました(その時の看護師さんの「早くしろ」って視線が痛かったのも覚えています)
結果的に総合病院の産科にお世話になって良かったです。

 

14.頓服のみ服用【出産】

陣痛が来た時も頓服を飲んで出産へ挑みました。産科病棟が8階だったので、頓服なしではエレベーターに乗れなかったからです。

出産は約10時間の普通分娩でした。通常は陣痛室から分娩室へ移動するのですが、私は10時間を分娩室で過ごしました。陣痛室には窓がなく、分娩室には窓があったからです。
閉塞感が苦手な私の、不安感を和らげるための配慮でした。

母子ともに異常はなく、陣痛・分娩中に大きな発作が出ることはありませんでした。しかし、ここからさらに、私の地獄の日々が加速します。なぜならここからが、真の断薬になるからです。

〈14.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

入院中の発作が心配でしたが、大きな恐怖心は出ませんでした。「すぐそばにお医者さんがいる」と思うと、安心できるものなのか。移動しなければ「ここは家」と思うのか、それどころじゃないのか。母子別室なので授乳時間に新生児室へ行き、それ以外は病室で過ごしました。発作は出ませんが、ずっとフワフワしていた気もします。現実感がないから発作も出ない。不安はないけれど安心もない。これも今だから思うことですが、やはり新生児のパワーはすごかったのかもです。赤ちゃんと触れ合うことで少し安心し、安静に過ごしてやり過ごす1週間でした

 

15.完全に断薬【育児】

妊娠中に飲んでも問題がなかった頓服ですが、【母乳で育てる場合、薬を飲んでから24時間は母乳を飲ませてはダメ】との決まりがありました。

そこに私はとても引っかかってしまいました。【24時間母乳をあげない】ということが、私にはできなかったのです。 

なぜなら私は、母乳への強い憧れがありました。また、娘が寝ない赤ちゃんだったので、先輩ママの言う「おっぱいあげていたらそのまま寝ちゃうよ」との体験が、眠らない娘への希望の光だったからです。

そのため【完全ミルク】に抵抗がありました。しかし、娘はミルクが大好きでした。母乳を飲ませるには私側にも問題があり、かなり苦労しました。

お腹が減ってから母乳を飲ませようとしてもギャン泣きして拒否されるので、毎日時間を計って【お腹空きそう】なタイミングにとりあえず母乳を飲ませ、その後大泣きし出したらミルクを飲ませるを繰り返していました。

そんな状況の中、24時間母乳を飲ませなければ、二度と母乳には戻れないと思っておりました。だからこそ、薬は飲まずに耐えていました。

その間、心療内科には月一回の頻度でお世話になるものの、どれだけ私が不安を訴えても「薬を飲みましょう」としか医師は言いませんでした。

出産前はそれが良いと思っていたけれど、産後はそれが不信感へと変わりました。「薬を飲みたくない。でも、不安がツラい」と訴えても「薬を飲んでください」と笑顔で言われるだけなのです。

病院へ行っても状況は何も変わらないのに、友人や父へお願いして車で30分かかる病院へ付き添ってもらうのが申し訳なく思った私は、ついに心療内科への通院を勝手にやめてしまったのです。

〈15.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

当時は「母乳にこだわって薬を拒否」と思っていましたが、潜在的には違っていたのかもしれません。「薬への拒否感が母乳へのこだわりとなった」が正しい感情だったのかも。現にあのまま薬を飲み続けていたら、カウンセリングを受けていなかったかもしれません。

薬を飲み続けていた場合、そのまま浮き沈みしながらアゲアゲで過ごしていたか、薬を飲んでいてもどうにもならなくなっていたか。もしもの話に意味はないですが。
私はやはり、このタイミングで完全断薬できたのは良かったと思っています

 

16.通院終了【孤独】

通院を勝手にやめた私ですが、またもや短絡的に考えていました。どうせ、薬は飲んでいなかったし。先生からなんのアドバイスもなかったし。そのうちまた、不安のない日々に、今度こそ戻れると思っていました。

妊娠中は産科にて、先生や看護師さんが私の体調を細かく気遣ってくれていました。パニック障害や発作について産科で相談することはなかったのですが、それでも体調を気遣ってくれる医療のプロがいたことは私にとって大きな心の支えだったようです。

実は、産後の不安定さから、院内の母乳外来を受けていました。表向きは赤ちゃんの母乳の飲みが悪いからですが、実際は私が産後鬱にならないためのサポートだったように思えます。

そこで、うまくいかない育児を相談し、助産師さんに「お母さんは頑張っている。大丈夫だよ」と言ってもらえることが、かなりの励みになっていました。子どもが3か月検診を迎える頃、母乳外来も卒業となり、ついに誰にも頼らずに一人でパニック障害と向き合うこととなりました。

〈16.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

14.のミルクの飲ませ方、退院直後はできていませんでした。最初はとにかく母乳。でも飲めていないから娘も寝ない。ボロボロでした。でも、不安が強そうだった私は退院1週間後に産後検診があり、その際の様子が酷かったようで、母乳外来のお世話になりました。そこで、ミルクの飲ませ方や諸々指導してもらい、混合育児が進みました。母乳外来に通っていたころは、母に付き添ってもらっていたとは言え、車を自分で運転して通院していました。体はボロボロでしたが、赤ちゃんと添い寝することで眠ることができ、ミルクを足して赤ちゃんのお世話にも慣れていきました

 
17. 症状悪化【絶望】

※今回の話にはパニック発作時の詳細な描写があります。読んでいて気持ちが引きずられるようでしたら、読むのを止めて深呼吸してください

母乳外来が終了後、出かける機会がグンと減り、そこから坂道を転げ落ちるように症状は悪化していきました。自宅から徒歩3分のスーパーでレジに並んでいる最中に発作が出て、恐怖心に支配されながら帰宅した経験後、家から離れた場所に行けなくなってしまったのです。

私にとって発作が出た際に落ち着ける場所が、出産前は【地上】だったのが、出産後は【自宅のベッド】以外、落ち着けなくなってしまったのです。

このことにより、私の行動範囲はさらに極端に狭くなりました。徒歩5分以上の場所へ出かけることに、恐怖心を感じるようになったからです。

また、自宅でも発作が頻発しました。自宅で出る発作は【恐怖心】よりも【息苦しさ】でした。【息が通っている】とはもちろんわかっているのに、喉にフタをされたような苦しさを感じるのです。

そんな時はお茶を飲むことで【フタがない】事実を確認し、気持ちが落ち着くのを待ちました。

そのため、窓がなく発作の出やすい【トイレ】や【お風呂】に入る際は、ペットボトルのお茶を持ち込むことで何とか用事を済ませているような状態でした。 

でもある晩、不意に何の予兆もなく【呼吸ってどうやるのだっけ?】との疑問がわき出ました。【呼吸の仕方がわからない】【普通がわからない】のです。

その瞬間、絶望しかなかったです。だって、決して息苦しい訳ではないのです。でも、【呼吸の仕方がわからずに苦しい】のです。

頭では【そんなことはない】とわかっていても【どうやって呼吸をすればよいのか】との疑問から逃げられないのです。夜のベランダで外を見ながら【もう、死ぬしかないのかも】と思いました。決して【死にたい訳ではありません】。ただ漠然と【このまま生き続けることが難しい】と思ったのです。

〈17.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

この時、恐怖心はまったくありませんでした。ただ、冷静に一人で絶望していました。当時はそれも発作の一種とは思っていなかったので、その状態が永遠に続くように思えたからです。今ならば「これも症状の一つ。気分転換して忘れよう」と思えるのですが。ただ、赤ちゃんがいて、元々死への恐怖が強かったので、突発的な行動には出ませんでした

 

18.薬に頼らない治療へ【ヒプノセラピー】

今までにない絶望を感じた私は、さすがにコレではダメだと思い、自分なりにパニック障害と向き合うことにしました。インターネットでパニック障害を調べたところ、【ヒプノセラピー】のセラピストに目が留まりました。

その何に惹かれたかというと、家まで【出張】してもらえたからです。とにかく当時は、外へ出るのが怖かった。外出すると【今発作が出たとしたら家に帰るには5分かかる。と言うことは発作に5分耐えなければならない】、常にそんなことを考えながらの外出でした。

そんな私がカウンセリングを受けに出かけられるはずもなく、【出張】が何よりもありがたかったのです。何かを変えたかった私はとりあえず、そのセラピストさんにお試しで家に来てもらうことにしました。

誰にも相談できず孤独だった私にセラピストさんは優しく、その後、セラピストさんのヒプノセラピーに2年ほどお世話になりました。ヒプノセラピーで自分を癒やすコツを覚え、楽になった部分も多かったです。

自分で受けるだけでなく、ヒプノセラピー養成講座を受けて自分自身にもヒプノセラピーを取り入れました。徐々に行動範囲は広がり、高速道路を使わなければ離れた場所へも行けるようになりました。

そこから更に経験を積み、ヒプノセラピーを初めて2年後、産後からの目標でもあった【主人の実家がある四国へ帰る】との目標が果たせました。これで完全に自信を取り戻すはずが、そうはいきませんでした。帰ってきてから、まさかのどん底に逆戻りだったのです。

〈18.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

ヒプノセラピーで改善されたことも多かったです。特に母との関係改善にはかなり役立ちました。元がどん底だったので、浮上できた喜びは大きかったです。

 

19.帰省中の出来事とその後の落胆【死を覚悟した動悸】

※今回の話にはパニック発作時の詳細な描写があります。読んでいて気持ちが引きずられるようでしたら、読むのを止めて深呼吸してください

帰省中、私には心休まる時間が1秒もなかったです。常にソワソワドキドキしている状態でした。でも、それ以上恐怖心が大きくならないように、恐怖心が出ていない振りをして過ごしていました。

ツラくなりそうだったらヒプノセラピーのアファメーションで自分を癒やし、ギリギリ何とか耐えている状態でした。そんな状態で日中を過ごし、疲れていた私は、夜はすんなりと眠れました。

しかし、夜中に目が覚めたのです。それも、猛烈な動悸と共に目が覚めました。これが初めての発作だったら、救急車呼ぶレベルの動悸でした。ドクンドクンではなく【ドックン・ドックン】と、心臓が壊れてしまうのではないかと思うほど、早くて重い猛烈な動悸でした。

怖くて怖くてたまらないけれど助けは呼べず、またもや眠ることでやり過ごし1人で耐えて朝を迎えました。翌日昼前には四国を出発し、大阪の自宅に帰るまでその話は家族にできませんでした。その話をした瞬間、また動悸が出るかもと思うからです。

旅行前は四国に帰りさえすれば、私はパニック障害を克服できるのだと思っていました。でも今までにない大きな発作が出たことで、私の体には猛烈な恐怖心が染み込み、またもやどこへも出かけられなくなったのです。

そして、何よりも私を落胆させたのは周りの反応でした。「高速道路に乗って四国へ行けたのだからこれでパニック障害も治ったね。良かったね」と言われるばかりだったのです。

でも、私は全然良くなかった。むしろ症状は悪化し、出かけられる範囲は前よりも狭くなり、逆戻りしていたのです。でも、誰一人としてそのツラい気持ちを理解してくれる人はいませんでした。一緒に頑張ってきた、ヒプノセラピーのセラピストさんですら、それは同じでした。

 

〈19.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

「家に帰りたい」と思った瞬間に自分が壊れてしまいそうで、その本能からか「家に帰りたい」との恐怖心は出ませんでした。でも恐怖心は抱えていたので、結果的に今までにない【動悸】として現れたようです。これは本当に怖かったですが、これ以降ここまでの動悸が出たことはありません。
しかも、当時の夫は運転ができなかったので、私が帰りも運転しました。今考えたら逆にスゴイ

 

20.横井式3ステップ認知行動療法との出会い【無料カウンセリング】

四国から帰った私は、再びどん底の日々を送っていました。

まただ、また【気のせい】と言われた。友達にも家族にもセラピストにも見放された。【義実家で疲れただけ】と言われ、誰もこのツラさに寄り添ってはくれない状況に絶望しました。

そして、何よりも私自身に絶望して、本当に苦しかったのです。高速道路に乗って四国にさえ帰れれば、それで元通り何でもできるようになると思っていただけに、そのふり幅が大きく落ち込み具合も相当でした。

そして、しばらく消えていた恐怖心が、常に顔を出すようになるのです。どん底に落ちた私は、そこで気づきました。ヒプノセラピーは【パニック障害専門ではない】。

そして私は【パニック障害について何も知らない】ということにたどり着いたのです。長年自分を苦しめるこの症状が、どこから来て何が原因なのか、私はまったく知りませんでした。

なぜなら、前述した通り【パニック障害】を調べることは、症状を誘発するからです。無意識にパニック障害と向き合うことを拒否していたのです。

また、調べたところで無意味とも思っていました。目に見えない、気のせいと言われる症状に、答えなどない。花粉症と同じ。ツライ症状は目に見えていて薬で症状を抑えることはできても、完全に消すことはできない。調べたところで、治ることはない。

それほどまでに、私は【パニック障害】に絶望していたのです。

でも、どうせ絶望するなら前向きに絶望してみようと、インターネットで【パニック障害】について調べました。

そこで、【パニック障害】を専門にカウンセリングしている、横井先生の当時の㏋と巡り合いました。でも、最初は【無料オンラインカウンセリング】にも不信感がありました。

対面せずに、私の何がわかるのだろう。そこに引っ掛かりました。ただ、私が一番シンドイ時は、外へ出るのが怖いのです。だからこそ、オンラインカウンセリングはピッタリだと気づきました。

さらに、初めての電話で今までの経験を話した後、先生が「それはツラかったですね」と言ってくれたのです。

周りが皆「四国まで帰れたのだから、もう大丈夫だね」と言う中、先生だけは「頑張ったのにシンドイ分、余計にツラい状態ですよね」と、言ってくれたのです。

その瞬間、涙が出ました。この先生ならば私のツラさを理解してくれる。その先生が「白川さんは治ります。必ず、元気になれます。そして、パニック障害を発症する前よりも、より良い人生にしましょう」と言ってくれた言葉に賭けてみよう、そう決意したのです。

〈20.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

改めて書くと「え?そんな言葉だけで泣くほどなの?」と自分でも思いますが「気のせい」「(根拠のない)大丈夫」を言われ続けていた時に「(カウンセリングで実績のある先生からの)大丈夫」は本当に安心できました。目に見えない症状だからこそ、目に見えないカウンセリングでの改善を目指そうと思いました

 

21.横井式3ステップ認知行動療法 最初の気づき【実践後は褒める】

まず、カウンセリングを受けて驚いたのが、自分では自覚していない小さな発作を繰り返していたというところです。

私としては【高速道路や車での遠出の際、発作が出ている状態】との認識だったのですが、スーパーや耳鼻科、信号待ちなどでも発作が出ていました。

【動悸がして息苦しくなる】のが私の中での発作だったのですが、先生に【家に帰りたくなる】【意識が遠くに行く】のも、発作だと言われました。

「普段の生活で小さな発作を繰り返している状況では、遠出をするのはしんどくて当たり前ですよね」と言われて、目からウロコが落ちました。私は常に我慢をしていたのです。常に恐怖心を抱えながら、そこに無理やりフタをして生活していたのです。

そのため、まずは私の日常生活を見直すところからセッション(カウンセリングの事をこういいます)はスタートしました。

何がツラいのか、何が楽しいのかを改めて書き出しました。自分で「これはパニックの症状」と思っていないことも、すべて話しました。そうすると、先生が「その時は、この症状が関係していて」など、色々な解釈を与えてくれました。

パニック障害のやっかいなところは【頭ではわかっていても、身体が反応してしまう】所にあると思っています。【パニック障害では死なない】そんな事は百も承知です。でも、【死ぬかもしれないとの恐怖から、身動きが取れなくなる。そして、実際身体にも異変が生じる】そのことに苦しむのがパニック障害です。

したがって、パニック障害の治療には【行動】するしかないのです。いくら頭で【大丈夫】と思っていても【体が拒否】しているのならば、【体に大丈夫な状態を思い出させる】しかないのです。

もちろん、最初は怖くて絶対にやりたくありません。できるとも思えません。でも、そこで先生は『大丈夫だから、私を信じてやりなさい』なんて、無責任なことは決して言いません。

先「なぜ、やりたくないのですか」
私「怖いからです」

先「何が怖いのですか?」
私「発作です」

先「なぜ、発作が怖いのですか?」
私「発作が出たら、動けなるかもしれないからです」

先「動けなくなったら、どうなりますか?」
私「家に帰れません」

先「じゃあ、家に帰れる場所なら行けますか?」
私「それならば、大丈夫かもです」

先「じゃあ、まずはそこから行ってみましょう」

このようなやり取りが行われます。これは私の一例です。まず、【できない理由を探す】。そして、【なぜ、そう思うのかを考える】、そして【それならばやれるかも】と、自分で決断して実践する。

私は【一人で家に帰って安心した経験】が多かったので、自転車や徒歩圏内ならば、【家にすぐに帰れる距離】はまだハードルが低いということが、やり取りで発見できました。

【絶対に無理】の中でも、話し合い、色々な可能性を探ることで【これならばできる】が必ず見つかります。まず、そこをカウンセラーと一緒に見つけることで、次へつながります。

さらに、何よりも重要なのが【結果に囚われない】と言うことです。

実践の結果が成功しても失敗しても、それはどちらでも良いのです。ただ私は、以前友人にも「ツライ場所へ行こうと思っただけでも偉いことだよ」と言われ「ケッ。何も知らんくせに」と思ったことがあります(口悪い)。

したがって、「失敗しても大丈夫だよ」なんて言葉だけならば、何も響かなかったと思います。でも、先生の言葉には続きがありました。

「実践は次への一歩なのです。でも、結果に囚われて落ち込んだら、次へは絶対に繋がりません。ですので、どんな結果でも『今日の私はよく頑張った』と思って一日を終えてください。そうすると『次も頑張ろう』と思えるからです」と言われました。私の実践に足りなかったのはそこでした。

ヒプノセラピーで苦手なことを少しは頑張れていたのです。でも、頑張った後、その倍くらい落ち込んで寝込んでしんどくなって。しばらくすると、それに付随することすらできなくなってしまいました。

「ツライ経験を繰り返したいと思いますか? 実践は苦しいことも多くなりますが、それを『良い経験』として、脳に覚えさせるのです。『息苦しくはなったけれど、私は頑張った』『恐怖心は出たけれど、私は頑張った』そう思うことで、次への一歩となるのです」との言葉が、私の日常生活を変えました。

耳鼻科へ行って小さな発作が出た日は、【今日の耳鼻科、私は頑張った。エライ】。【友達の家、頑張った。エライ。おやすみ】。これを繰り返すだけで、日常の小さな発作は驚くほど減りました。

〈21.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

カウンセリングを受けるまで、自分のパニック障害は軽度だと思っていました。倒れたことも入院したこともないので「症状としては軽い方」だと思っていたのです。でも、日常生活での発作頻度は高かったです。「発作が出ているけれど、何とかやれている」ばかりの生活でした。それに気づけただけでも、日常生活は激変します

 

22.横井式3ステップ認知行動療法 【行って嫌なら帰ればよい】

実践後は脳の無意識化に働きかけつつ、意識化には【行動サポートシート】を活用しました。

【なぜ行きたくないのか?】を見つけるため、シミュレーションを何度も行うのです。そして、実践して結果を書き「自分が思うより、楽に行けた」を積み重ねていきました。実践する際、一番励みになったのは【嫌なら帰って来たら良い】との言葉です。

私の実践の例です。【子宮頸がん検診を受けたい】そう願っていました。現に、何度か受けには行っていました。でも、誰かと一緒に行っただけで、一人で受けに行くのは初めてでした。

そして、【誰かと一緒】でも発作は出ていたため、その場所に良いイメージはありませんでした。でも、私は検診を受けたかったのです。ただでさえ、子宮頸がん検診はハードルが高い実践です。

そこにパニック発作がプラスされたら、行きたくなくて当たり前です。【行く・行かない】を自問自答してもらちが明かないので、ひとまず病院まで行くことにしました。

【検診を受ける】ではなく、【病院の入り口まで行く】を目標にしたのです。それなら、行けます。病院へ行って、待合室で長時間待って、検診受けて、お金を払う。それはできそうにもないけれど、【入口まで行く】ならば、できそうだったからです。

そこで【せっかくここまで来たのだから、検診受けてみよう】と思ったら、受けたら良いのです。【今日はここまで頑張ったから、検診は来週にしよう】と思ったら、帰れば良いだけです。

結果、入口を開ける前にドキドキして、病院の周りを2周しました。そこで帰ろうかな?と思ったのですが【来週来る方が面倒だな】と思い、無事に検診を受けられました。

〈22.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

「嫌なら帰ればよい」は私にとってはとても有効でした。「全部を完璧に成し遂げる」と思うと、考えただけで恐怖心が湧き、まったく行く気が起きません。そうなったら必ず発作が出るので、また行くのが嫌になります。でも「嫌なら帰ればよい。とりあえず行く」ならば、半ば開き直ってリラックスして挑めます。行くのすら気が乗らない時は「とりあえず歯磨き」に始まり「とりあえずオシャレしてみる」「とりあえず化粧してみる」と段階を踏んでいくと「せっかくフルメイクしたし、行くだけ行ってみるか」と気持ちが前向きになれます

 

23.横井式3ステップ認知行動療法 実践【恐怖心を受け流す】

パニック発作と向き合った際、最も役に立った情報は発作の時間経過です。【発作のピークは10分程度】で【発作そのものは1時間で治まる】。

この2点が私の治療に大きな影響を与えました。これは、どのような発作状況でも、変わらないのです。確かに、自分の発作を振り返ってみても、ピークが10分以上続いた記憶はありませんでした。

ただ、私の場合とても厄介だったのが、その10分内に【家に帰って布団に潜り込む】を行っていたことです。したがって、単なる【時間の経過】で治まっていた発作を【布団に入ったから治まった】と思い込んだところに、私の最たる症状の【恐怖心が起こると家へ帰りたくなる】を増長させる原因があったことに気づかされました。

発作が起きた時、何を考えていますか? 私は【家へ帰りたい。帰りたい。帰りたい】その一心でした。

でも、時間経過で治まることを知ってからは、【家へ帰らなくても時間さえ過ぎれば治まる】と思えるようになり、リラックスを心がけるのはもちろん、時間を意識するようにしました。

時計を見て時間を確認し【00分になれば、治まるから大丈夫】。そして、自分は恐怖心に身をまかせるのです。恐怖心に抗わず、恐怖心を受け入れるのです。

それまでは、恐怖心が起きたら絶対に、自分の中で恐怖心が起きているという事実を認められませんでした。心の中で見て見ぬふりをするのです。

なぜなら、怖いからです。でも、見て見ぬふりをするということは、一番そのことを意識しているのです。

【発作が出ている自分を認める】のはとても怖かったです。身をゆだねたら最後、そのまま倒れてしまうのではないか、息苦しくて死んでしまうのではないか、色々な心配をしました。

でも、すべて大丈夫だったのです。それには先生の強力サポートがあったからに他ならないです。LINEでのやり取りはもちろんのこと、カウンセリング時間外でも電話で話をして落ち着かせてくれるのです。

【発作が出たら電話すればよい】これだけで、安心感が得られます。さらに、実際に電話で話をすると【それは発作ではなく、別の理由で嫌なことがあるからですよね】など、シンドイ理由が見えてくることがあります。

そのような体験を繰り返していくうちに、ある瞬間がやってきます。シンドイ、頭がフワフワした状態が【パンっ】と弾けて、頭がクリアになるのです。そしてその後は不安が起こらず、いつも通り過ごせるのです。

この体験がまさに、心と身体がつながった瞬間に思えます。【この恐怖心で死ぬわけじゃない】を体が受け入れることで、恐怖心や頭のモヤモヤを弾け飛ばしてくれるのです。

発作の時に恐怖心が弾ける経験を重ねると【発作が出そうだな】と不安になっても【でも、出ても弾けるから大丈夫か】と思えるようになるのです。

〈23.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

初めての弾け体験はイオンの帰り道でした。絶対に渋滞するゾーンがあって、毎回発作が出ていました。発作を我慢しているうちに渋滞が終わり、そのままフワフワと家に帰っていたのですが、その時は発作が出ても焦らず、発作が出ている自分に身を委ねていたたら、急に視界がクリアになり恐怖心が消えていました

 

24.横井式3ステップ認知行動療法 実践【それでも行けない理由】

発作が出たら100パーセント弾けるのか、と言うとそうではありません。でも、実践回数を重ね、自分と向き合い、振り返ってみると弾けない時には大抵理由があります。

まず、【単純に体調が悪い】。体調が悪い中、無理をして出かけてしまい、出かけた先で発作が出る。そもそも、出かけるのに向いていない状態なので、発作が弾けなくて当たり前です。

 新型コロナウイルスの流行で体調が悪い時に無理をして出かける事はなくなりましたが、やはり以前は【微熱くらいでキャンセルするのは良くない】と思って無理して出かけていました。当たり前ですが、体調が悪い時は出かけないに限ります。

次に【誰もそのお出かけに乗り気じゃない】時です。なぜそのような状況になるのか?それはわが家の事情に関係しています。

夫は健康そのものですが、お出かけの段取りは私に丸投げです。夫としては「自分が行きたくても、あなたが行けるかわからないから。それなら、まかせた方が良いと思って」との理由からですが、発作が酷くなる前からお出かけに関するすべてを私が仕切っておりました。

私自身はインドアなのに行事好き、との傾向があります。日本に四季がなければ、ずっと自宅でも満足できるのですが春には花見、夏は海、秋は紅葉、冬は雪、と四季を感じずに家にいるのは耐えられないのです。

それに加え、連休などに子どもたちをどこへも連れて行ってあげられないと罪悪感でいっぱいになります。そのため、【今月はどこへも行っていないので、せめてカラオケに行こう】と何かとイベントを入れがちでした。

【行こう】と言うと、夫も子ども「行こう、行こう」と喜びます。でも、いざ行ってみると【シーン】と盛り上がりゼロなのです。そうすると発作が出ます。その発作は帰るまで治まりません。だって本当に帰りたいからです。

「私だって来たくなかった。子どもたちのために来たのに、なんで誰も楽しまないの?じゃあ、帰ろう。帰るために発作を出そう」。と、自分を守るために発作が出るのです。もちろん、出そうと思って発作が出ている訳ではないのですが、発作は自己防衛でもあるのだな、と感じるようになってきていました。

【自分が楽しければ発作が起きても大丈夫】そんなことに気づき始めた時、そのことを決定づける体験が起こりました。それが大好きな歌手のライブへ行った体験です。

〈24.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

家族との調整は本当に難しかったです。幼児と幼稚園児、幼稚園児と小学校低学年、に大きな長男と化す夫。単純に子供たちが大きくなることで解決できることもあるし、それだけでは難しいこともあるし。

でも、「とにかく話し合う」を頑張りました。「私に起きている事」「それを助けるためにやって欲しいこと」。パニックがなければ「母親だし、我慢しなきゃ」と思うタイプのメンタルだったので、ため込んでため込んで爆発していたと思います。パニックのカウンセリングを受けながら、家族関係の問題も見えていき、解決するとパニック障害の症状も楽になっていくのが不思議でもあり、嬉しくもありました

 

25.横井式3ステップ認知行動療法 実践【完治への確信】B’zのコンサート

産後の母親は、色々と諦めます。それは一時的な場合もありますが、離れてみて「実はそんなに好きではなかった」とそのままやめてしまう趣味もあります。

私はそこにパニック発作が加わり、沢山諦めていました。やめた中に、コンサートへ行くことがありました。これは【実践しよう】と思ってもすぐ実践できるものではありません。

なぜなら、【行きたいコンサートのチケット】【行ける日程】【行ける場所】の条件がそろわないと実践がかなわないからです。

しかし、2018年9月、私は奇跡的にそのチャンスに恵まれたのです。中学生から大好きなB’zのコンサート。ファンクラブを退会して以来、もう一生行けないと思っていたコンサート。

 それが、ダメもとで一般応募したライブチケットが当選し、10年ぶりに行けることとなったのです。自分でチケットを取っておきながらも、コンサートには不安要素がいっぱいでした。

【人込み】【大音量】【暗闇】などなど。コンサートは夜だったのですが、当日の朝を迎えてもまったく行ける気がしませんでした。想像するのは悪いことばかりで、発作が起きる想像ばかりしていました。

特に、帰りが怖かったのです。コンサート会場は大型スタジアムなので、規制退場が必須です。その大勢で待たされている、閉じ込められた感に不安が募ります。

さらに、人込みが動かない、人込みの渋滞が怖くて怖くて仕方なかったのです。やはり無理だ、諦めようかと思いながらもひとまず先生に時間外電話をかけました。

そこで先生に「また完璧にやろうと思っていませんか?行ってダメだと思ったら、帰って来たら良いのではないですか?」と言われたのです。

確かに、そのことをスッカリ忘れていました。チケット代は無駄になるけれど、それは自分の責任です。一緒に行く友達は私の症状にとても理解があり、【万が一、行けなくなるかも】との可能性を伝えたうえで、一緒に行くことを了承してくれていました。

チケットはあらかじめ各々が持っていたので、私が行けなくて困るのは私だけだったのです。そこで、決意しました。行くだけ行ってみようと。

しかし、会場へ向かう途中、小さなバイパスの渋滞で発作が出ました。その頃は発作が出ても焦らなくなっていたのですが、コンサートへの緊張感と【その道は渋滞するから通ってほしくなかったのに】との運転している夫への理不尽な不満が重なり、しっかりと受け流せなかったのです。

発作は弾けないものの渋滞からはすぐに脱出できたので、少しフワフワしたまま会場へと到着しました。コンサートが始まる前、もちろんドキドキしました。でもコンサートが始まればテンションマックスです。

しかしコンサートが始まって少し経ってから、不意に帰りが不安になりました。【人込みで動けない状況で発作が出たらどうしよう】との恐怖です。

不安に押しつぶされそうでしたが、ステージには大好きなB’zがいます。大好きな音楽が聞こえます。大好きと発作がぶつかりあった瞬間、【この幸せな時間と引き換えに、発作が出ても仕方がない】と思えたのです。

それほどまでに、コンサートの幸福感はすごかったのです。そう思えてからは、コンサート中に発作はよぎりませんでした。

懸念の規制退場も2番目に呼ばれ、出口も近かったのでほぼ止まらずに会場から出られました(後から知ったのですがなかなか出られないのはドームツアーだけのようです。スタジアムは出入口が多いので比較的すぐ出られるそうです)。

この経験は、私にとって本当に大きかったです。今までは発作中に【発作が出るのは仕方がない。時間が過ぎるのを待とう】と思っていましたが、この時はこれから起きるかもしれない発作に対しても【こんなに幸せなら発作ぐらい仕方ないよね】と受け入れられたのです。

それまで、ツラくて苦しくて、ちょっと楽になっては発作が出て落ち込んで。一生私はこのままなのだ、と悲観していました。

それでも、諦めずに実践を繰り返し、脳の誤作動をちょっとずつ正常に戻して行って。それらの経験が積み重なり、コンサートを経験した時に【私は本当に、パニック障害を克服できるのだ】と確信しました。

〈25.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

「絶対に無理」だと思ったことを楽しく終えられたことで、次に「無理だ」と思う出来事にぶち当たっても「でも、コンサートも大丈夫だったし」と前向きになれました。やはり、推しの力は偉大です。コンサートは苦手要素も多いですが、その割にその場の気はとても良いものです。誰もが皆ワクワクを抱え、並んでいても笑顔、待っていても笑顔。ただの人込みではありません。幸せの人込みです。コンサートの実践は「強い動機があるうえ幸せな空間なので、難易度の割に成功率がとても高い」と先生に言われておりましたが、身をもって体験して大納得でした

 

26.横井式3ステップ認知行動療法 実践【自分を信じれば動ける】

その後「発作はまったく出ず、どこへでも行けます!」と、劇的に変化するように思えますが、すぐにそこまでにはならないのが現実です。

でも、今までなら行くことすら諦めていたような場所も、【B’zのコンサートを思い出せ! きっと大丈夫だ】と、思えるようになったのです。

コンサートでの経験によってようやく私は、【自分を信じる】ことができたのです。自信を持てたことで、選択肢も格段に広がりました。旅行やテーマパークなどは、今でも行く前は憂うつになりますし、出かける直前には「やっぱり無理かも」とも思います。

でも最後は【自分を信じる】。それだけです。【大丈夫、大丈夫】と自分に言い聞かせるのではなく、自分を信じていれば【まあ、大丈夫でしょ】と開き直れる日が、必ずやってきます。

 

27.横井式3ステップ認知行動療法 実践【楽しくなくても行ける】

じゃあ、楽しいこと以外は行けないのかと言われると、そうではありません。私しか行けない【授業参観】や【自分の病院】など、楽しくなくても行ける場合があります。

それは、自分自身が【行くことに納得】しているからです。「コレ、私は行かなくても良いよね?」と心底思っていたら、【なぜ私が】のイライラが増幅し、発作が出ます。

そして、元々帰りたいので【帰りたい発作】はもちろん治まりません。そのことに気づけていない時は「やっぱり私はまだ発作が出るのだ」と落ち込んでおりました。

しかし、不思議なもので、この【気づく】だけで状況が変わるのです。まず、本当に自分がその場にいなくて良い用事であれば、そのまま帰ります。そして、帰った自分を責めないでむしろ褒める。

次に【それでも私はなぜ、ここにいるのだろう】と考えます。そうすると【いなくても良いけれど、●●だから私はこの場所にとどまる】と、自分の中で納得する理由が見つかります。

そうなると、そこには【嫌々その場所にいる自分】ではなく【納得してそこにいる自分】に代わっているので、症状がスッキリなくなるのです。

〈27.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

産前は「ノリが良く、誘われると嬉しくて断りたくないタイプ」だったので、当日気が乗らなくても予定がない限り、全部の誘いに乗っていました。でも、元々の元々は人見知りなので、自分でも無意識に無理をしていたのです。これ、産後に気づいて良かったです。パニック発症していて良かったです。学生時代は似たようなタイプと付き合うのでそれでも良かったけれど、ママ友関係でそれをやっていたら、かなり無理をして、そこで別の症状が出ていたように思えます。カウンセリングを受けてからは、「そっちが本当の自分なんだ」と諦め、本当に行きたい予定だけ行くようになりました。

 

28.横井式3ステップ認知行動療法 実践【症状が消える人消えない人】

きれいサッパリ症状が出なくなる体験を期待していた人には申し訳ございません。私は芸能人の体験談のように【今は発作がまったく出ずに元気です】とは言えません。

でも、それでも私は【元気です】とは言えます。なぜなら、今残っている症状は、私が昔から持っていた症状だからです。昔から人込みに出ると【頭がフワフワ、意識が遠のく感じ】はありました。

でも、それだけならば別に気にせず過ごせていたのです。そこに【息苦しい】と【恐怖心】などが加わり、さらなる恐怖心が生まれて行動が制限されただけなのです。

B’zのコンサート後に行動範囲が広がり、7年振りに四国へ里帰りができました。宿泊も問題なく、自分では良い感じだと思っていたのですが、帰りに明石海峡大橋を渡るのが無性に怖くなったのです。

しかも、渡った先の高速道路も【渋滞しているかもしれない】と恐怖心は膨らみます。そこで、明石海峡大橋手前のサービスエリアに車を止めて、先生に電話をしました。

状況を説明し【橋が渡れません。帰れません】と伝えると、先生は言いました。「白川さん、あなたは今、疲れていますよね? 慣れない運転、慣れない場所での宿泊。気を遣うことも多かったでしょう。その疲れが出ているだけなのですよ。疲れてくると、人は弱いところに症状が出ます。事故の古傷がある人はそこに、腰痛持ちの人は腰に。健康で出かけてもそれだけのミッションを済ませたなら、弱いところに症状が出てもおかしくはないのです。白川さんの場合、その弱いところが【自律神経】なのです。だから、それはパニック発作ではなく、自律神経が弱っているから出ている症状ですよ」と言われて、すごく安心しました。

同じ経験をしても、自分の中で【これは発作じゃない】の判断ができるようになると、行動の制限がなくなるのです。でも、これは認知行動療法を積み重ねていないと、たどり着けない境地なのです。

ヒプノセラピーで四国に帰った際に同じ言葉をもらっていても「そんな風に言われても、私はシンドイ」と突き放していたでしょう。自分で何度も発作を乗り越えて症状が弾ける感覚を体験し、自分を信じられるようになったからこそ、【疲れているだけ。発作じゃない】を受け入れられるのです。

 

〈28.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

明石海峡大橋はいまだに苦手です(笑)。高いし風強いし、渡り切ったら長いトンネルがあるし、その後は渋滞が待っているし。でも、それでいいんですよね。パニック障害がなくても、初心者ドライバーや高所恐怖症の人ならば同じように苦手に思うはずだし。そこに「症状」を合わせて過剰に過敏に怖がらない、と言うことを先生との電話で実感しました。「症状を受け入れて受け流す」焦ると忘れてしまうことを、電話で先生に思い出させてもらえました。その後、普通に渋滞は嫌でしたが、問題なく帰れました

 

29.横井式3ステップ認知行動療法 実践【実践は裏切らない】

ここまで読んで、ガッカリされた方もいるかもしれません。結局、パニック障害を治すのは自分次第ってことか。それができないから苦しんでいるのだ。そう思う人が大半だと思います。

ツラい経験が長ければ長いほど、【発作の起きる自分】が当たり前になり、【発作が起きない自分】の想像が付かない。想像しても【発作が出てもいい】なんて思える訳がない。そう思っているはずです。

私も一人では絶対にできませんでした。もしかしたら、ヒプノセラピーに出会うタイミングで、横井式3ステップ認知行動療法に出会っていたら、一人で実践して乗り越えられていたかもしれません。

記憶の書き換えは、ツラい経験が長くて深いほど時間がかかると思います。でも【実践をやらなければよかった】と思ったことは一度もありませんでした。実践を行うまではツラくとも、終わった後は必ずスッキリしています。

うまくいった時はもちろん、しんどくなっても理由を分析し、次への一歩へつながります。そういったことの積み重ねで、発作を受け入れ、発作の出る自分も受け入れられるようになるのです。

〈29.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

発作が起きていない自分も発作が起きて苦しい自分も、全部認めて付き合っていくしかないですよね。発作が出ていないのが本当の自分ではなく、それも含めて自分。それを認めることで「これはできない」と思っても「でも、それも自分の延長だから、きっとできるよね」と開き直れました。自分を信じるのにはとても時間がかかりますが、積み重ねた行動がそれを後押ししてくれました

 

30.横井式3ステップ認知行動療法 実践【不満の根本を探る】

カウンセリングを積み重ねて気づいたのは、【できないのには必ず理由がある】と言うことです。私の場合、実践を重ねて友達と出かけるのは楽になったのに、家族とのお出かけは苦痛だった時期がありました。

自分なりに【子どもたちがいて自由が利かないから】や【自分が本当に行きたい場所ではないから】と思っていたのですが、実は心の底で【夫の態度】に不満をためていたのです。

出産前からお出かけは私が主導でした。どこへ行くか、どうやって行くか、行って何をするか、何を食べるか。ツアコンのようにスケジュールを組み立てて、夫はそれに従うのみでした。

したがって、そこに不満はなかったのです。ただ、出産後のお出かけは以前と何が違うかというと【私への気遣い】がなくなっていたのです。出産前、いわゆる発作が酷くなる前は【私にすべてまかせてしまっている】と、多少の罪悪感があったのか、お出かけ先で私を気にかけてくれていました。

そして、多少の感謝もありました。でも、産後のお出かけは【俺はどこへだって出かけられるから、出かけられない方がプランを立てて当たり前】との思いなのか、感謝も気遣いもなくなったのです。

言われたことをやるのみ。正直、私は自分との戦いに必死なのです。だから本来は、それ以外をすべて夫にまかせたい気持ちなのです。でも、子どもたちに気を使うのは私で、マイペースな夫はまったく戦力になっていないのがお出かけの現実でした。

それでは私への負担が多すぎます。その状態で楽しく行ける訳などなかったのです。このように、目に見えている【プランを立てる】には納得していたものの、現地で【気を使わない】に不満を持っているという事実に自分だけで気づくのは至難の業でした。

なぜなら、現地では【パニック発作】と戦っているので、それ以外に不満・不安要素があると思ってもみないからです。それを【なぜ、友達とは大丈夫で家族ではダメなのか】と、カウンセリングで根気強く、先生と一緒に考えていくのです。そうすると絡まりあった不安・不満の糸がほどけ、問題の根本にたどり着けるのです。

そうやって日常の不満や不安を取り除いていくと、結果的にパニック発作の改善につながっていきます。

パニック発作が出る人は、自分では気づかない我慢をしている場合が多いのです。私も【仕事由来】と思っていたパニック発作でしたが、そうではなかったことにカウンセリングを重ねるたびに気づけました。

だからこそ、発作は完全にはなくなっていなくても、【発作前よりも幸せな自分】【発作前より生きやすい自分】と言い切れるのです。

〈30.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

24.でも触れましたが、家族とのお出かけにとても苦労しました。なぜなら、不調の原因はすべてパニック障害が由来だと思い込んで、発作の対策を色々試しても一向に楽にならないからです。でも、友達と出かける機会が増えたことで「友達ならば症状が出ないのに、家族だと出るのはどうして?」と思い、パニックではないところに原因があることに気づけました

 

31.HSPについて【症状と対処法】

ここで少し話がそれますが、前回の夫とのやり取りの件です。私は夫が恐ろしく【マイペース】な人だと認識しておりました。そして、私が【気づきすぎる】だけだと。

お店で大声を出して泣き叫ぶ子どもがいた場合、元々お出かけに不安要素のある私は、それだけでその場にいるのがシンドクなってしまいます。

でも、夫はもちろん平気です。私の認識では【夫は気づいているけれど、平気なメンタル】と思っていました。でも、違ったのです。その【泣き叫ぶ子ども】に気づいていたのが、私だけだったのです。

夫は【気にしていないのではなく、気づいていなかった】のです。その違いを先生にカウンセリングで指摘され、ある体質が判明しました 

それは、【他人の気を受けやすい体質】と言うことです。最近ではHSPと言われ、一般的になっているこの体質です。HSPとパニック発作が融合することでより苦しさが増し、より出かけられなくなっていたのです。

すべてを【パニック発作】のせいにしていると【なぜ私の発作はなくならないのか】と落ち込んで出かけられなくなりますが、【HSPだから仕方ないよね】と割り切れたら、出かけるのには問題が減ります。

例えば、以前ならお祭りなどに出かけて頭がフワフワし出したら【あー、今日も発作が出る。このまま動悸がして恐怖心が出て、帰りたくなるのね】と思っていたのですが、今は違います。

まず、大声で泣く子どもなど、負のオーラを発している人に近づかないようにします。私が感じる子どもの泣き声には2種類あって、【自分のために泣いている泣き声】と【人へアピールするための泣き声】です。

自分のために本心から出る泣き声は大丈夫なのですが、【私はこれだけツライ】もしくは【私の意見を聞け】とアピールするための泣き声は発する【負のオーラ】が強く、そばにいるとモロに食らってシンドイ状態になります。

そんな時はすぐにその場を離れて、気持ちを整えます。離れたら決して引きずらない。でも、大声でアピールする子どもがいなくても、負のオーラをキャッチする場合があります。それは、行列での待ち時間です。ほとんどの人は納得して並んでいるのだけれど、たまに異常にイライラしている人を見かけませんか? 

そんな人が後ろに並んだら、こっちまでシンドイです。だからといって列から抜けては、目当ての物が買えなくなります。そんな時も【発作由来】だと思っていたら【帰りたい恐怖心が出たらどうしよう】と不安がいっぱいで、それに誘発されて発作が出ます。

でも、その状況が【負のオーラのせい】とわかっているならば、自分で対策ができます。私が意識するのは、【自分にバリアを張る】ことです。負の相手を意識するのではなく、【自分自身に集中】するのです。

その際、お守りやパワーストーン、アクセサリーなど自分が頼れる物があると集中しやすくなります。アファメーションと呼ばれる、自分が集中できるおまじないのような言葉があると、さらに集中しやすくなるのでオススメです。 

【自分に集中すれば良いのだ】と気づいた時、私には簡単にできました。なぜなら、ヒプノセラピーの経験があったからです。すべての経験が役に立っています。ヒプノセラピーではなくても、瞑想やヨガの呼吸法など、自分が自分に集中できるのであれば、方法は何でもかまいません。

大事なのは【相手を遠ざけるのではなく、自分に集中すること】です。集中している間に順番が回って来る場合もありますし、しっかり集中すると発作の時と同じく、ツラさが弾ける場合もあります。

無言の【負オーラ】ならば、これで防げます。この方法に気づいてから、人込みの行事へ参加するのがとても楽になりました。私は【ツラさから発作を誘発】が怖いのですが、シンドイ理由がわかってバリアを張って防ぐことで、発作も起こらなくなるのです。

〈31.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

常にギリギリの精神状態でお出かけしているので、些細なストレスで発作が出ます。でも、そのストレスが自分の中で見えていたら、そこから発作につながることが格段に減ります。そういった意味では「私は感じやすいHSP」と分かったことは大きかったです。

今、私が不登校に悩む人々の手助けをしたいと思う強い理由がここにあります。それはまた、これを書き終えたらゆっくりとお話ししたいです(ここに書くには長くなってしまうので)

 

32.HSPについて【子供とのお出かけ】

今では家族とのお出かけが苦痛ではなくなった私ですが、家族と出かける場合に気を付けていることがあります。それは、自分の状態を家族に詳しく伝えることです。

普段からパニックの症状に理解がある家族も、いざ一緒に出かけるとなんのフォローもしてくれません。しかも、マイペース父と何でも気づくHSP母の場合、子どもたちは不快なことが起こると必ず母に訴えかけてくるのです。

「喉が渇いた」「トイレ行きたい」「まだ、到着しないの。ねえ、まだ?まだ?」などです。これらを一手に引き受ける余裕は私にはありません。でも、夫は言わなければ動かないので、子どもたちにも伝えます。

「今回のお出かけは久しぶりで、お母さんはとても緊張しています。いつもなら笑って流せることも、怒ってしまうかもしれない。そんなお母さんと出かけてくれますか?」と聞きます。

それで「じゃあ、お母さんはお留守番」と言われたら、私は家でダラダラできます。ただ、子どもたちはいつも「それでも一緒に来てほしい」と言ってくれます。

そうなったら「じゃあ、一緒に思いっきり楽しんでほしい。楽しい、うれしいを言葉に出してほしい。もちろん、嫌なことも起きるかもしれない。でも、それも楽しむくらいの気持ちでいてほしい」と伝えます。

それを伝えて出かけるのと【子どもたちも楽しいはず。喜んでくれるはず】との思い込みだけで出かけるのでは雲泥の差になります。

また、子どもたちも思春期、反抗期に入ると、出かける前から機嫌の悪い時があります。本人に自覚がなくても、お出かけ前で過敏になっている私には感じられます。

そんな時も「出かけるの、どうする?」と聞きます。子どもの機嫌が悪いけれど出かける時と言うのは、だいたいが子どもの用事です。したがって、出かけなければ困るのは子どもです。

「出かけたい」と言ったら、「その機嫌では困る。私も久しぶりの外出で緊張して余裕がない。できれば、サポートするくらいの気持ちで一緒に行って欲しい。でも、それはできない、機嫌よくもできない、と言うのであればお出かけは延期したい」と伝えます。

そうすると本人が「さっき怒られたから機嫌が悪くなっていた。でも、もう大丈夫なので出かけよう」と、自分で気づいて消化して、出かける気持ちを作ってくれます。

友達とのお出かけの場合は、私に依存されることがないのと、しんどければ「先に帰るねー」ができるのでそのような準備は不要ですが、家族で出かける場合は出かける前の声かけが重要となります。

私は今まで、遊びに行った先で発作が出るのが怖くて、極力目の前の出来事に集中しようとしていました。【目の前の出来事に集中する】と言うのは、現地でテンションを上げると言うことです。

テンションを上げて盛り上げて、目いっぱいその場所を楽しもうとしていました。でも、それが家族からすると【お母さん、ものすごく楽しそう】と、単純に私が楽しんでいるように見えたのです。

でも、それは違うのよ。私は自分が楽になるために、あえてテンションを上げているの。でも、それが独り相撲に終わることも多く、帰ってきたらぐったりするのはもちろんのこと「なんで喜ばないのだ」と、現地にいる時からイライラしてしまい、結果的に発作が起こることも多々ありました。

そのため、【お母さんがテンションを上げるのには理由がある】ことを伝え、【一緒にテンション上げてくれると、今後のお出かけが行きやすくなる】を繰り返します。そのことにより、家族とのお出かけも発作関係なく、楽しく行けるようになりました。

〈32.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

気づいて話し合って実践する。これを繰り返して私は楽になりました。話し合うのはパワーが必要です。しかも、皆が皆、思い通りには動いてくれません。それでも話し合えるのが家族だと思います。私は一人で出かけるのが怖かったので、家族の協力必須でしたので、自分のために頑張りました。でも、そうすることで家族関係全体が良い方向へと進んでいきます

 

33.私の根底にあるもの【死への恐怖を乗り越える】

※この項目は【死生観】に関する記述です。
苦手な方は読み飛ばしてくださいね

頭がフワフワする【離人症】のように、私には子どものころから体験している症状があります。その中で一番私を苦しめているのが【死ぬことへの恐怖】でした。

私が【死】を意識したのは、恐らく幼稚園児のころです。祖母の家に遊びに行き、祖母と二人で散歩へ出かけました。でも、それは散歩ではなく、お葬式会場だったのです。

今となっては考えられないのですが、私は祖母と一緒に、お骨拾いまでしたのです。恐らく祖母は、私が小さいので意味などわかっていないと思い、連れて行ったのだと思うのです。

でも、私は言葉ではなく【さっきまで寝ていた人が焼かれて骨になる。それが死】を、体験として理解したのです。

そこからは漫画やテレビで【死】を取り扱っていると、それだけで怖くて耐えられませんでした。でも、そんなことは誰にも相談できませんでした。

小学生や中学生の時に勇気を出して、母や友達に【死ぬのが怖い】と話しても私の恐怖心は理解されず適当に流されるだけでした。これもまた私は、【みんなは死の恐怖を感じていても、乗り越えられている。私がダメなのだ】と、思っていました。 

【ノストラダムスの大予言】も私にとっては恐怖の対象でした。その話題が出るたび【死への恐怖】が湧き出て、叫びだしたくなるのです。でも、周りは平常心なので、平気なふりをして押さえつけていました。

その恐怖が爆発するのが夜です。夜中に恐怖で目覚めることは子どものころからありました。その時に安心感を得られていればよかったのですが、残念ながらそのような環境ではありませんでした。

ただ、体に爪を立て、太ももや頬をたたき、痛みで恐怖をごまかしながら眠るだけでした。 

【死】への恐怖心発生で一番多いのが【寝入りばな】です。眠たいのに頭がさえて眠れない。そんな時に眠ろうとすると、急激に【死んだら私はどうなる】との、恐怖心が襲ってきます。

爪を立てて太ももをたたいて、それしか恐怖心を振り払う方法を知りませんでした。でも、カウンセリングで【その恐怖心も、発作の一種なのですよ】と先生に言われ、ものすごくビックリしたと共に、【じゃあ、これも気にならなくなる日がくるのか】と希望が芽生えたのを覚えています。 

パニック障害について調べるとパニック発作を誘発するように、【死】について考えることが私にはできませんでした。以前ならば、前述の文章を書こうとするだけで【死への恐怖】が私を襲うので、書くことも考えることもできなかったのです。

それが【死への恐怖も発作の一種】とわかっただけで、【死】について向き合う勇気が出たのです。そこで、私なりに【死】と向き合って感じたのは【死ぬことが怖くても大丈夫。死ぬことが怖いから、私は生きていられる】と言うことでした。

当たり前なのですが、そうなのです。死ぬのが怖くなければ、嫌なことやツライことがあったら死んでいたかもしれない。自分の人生に、自分から死を選ばないために【死への恐怖】はあってもよいのだ、と思えたのです。

そうやって納得はしたものの、やはり寝入りばなの【死への恐怖】は起こります。ものすごく嫌ですし、ものすごく怖い経験ですが、以前より少しだけ冷静に考えられるようになりました。

まず、【怖いけれどこれも発作の一種だから、眠れば治まる】と、恐怖心より眠気に集中するパターンです。

眠気が完全に冷めている時は、とりあえず恐怖心に身をゆだね。発作が去ってから【今、私はストレスをためているな】【疲れているな】と、症状が出たことを自分の健康のバロメーターにするのです。

そのことによって【また、出るかもしれない】と無駄に落ち込まず、恐怖心も引きずらないようになります。

一時期、非常に【自殺】に敏感になっていたことがありました。芸能人の自殺や友人の身近な人の自殺を聞くにつれ、【自分も突発的に自殺を選んでしまうのではないか】と怖くなってしまったのです。

死ぬのが怖いので【自殺したい】との願望はまったくありません。でも、自殺をした人のニュースで【理由はわからない。自殺する兆候はなかった】と報道されます。それを見聞きし一人になると【急に飛び降りたくなったらどうしよう】など、不安でたまりませんでした。

でもカウンセリングで先生に「白川さんが自殺することはありません。白川さんは自分が自殺しそうで怖いのではなく、【自殺恐怖症】で【自殺】そのものが怖いだけです」と言われたのです。

【自殺が怖い】と言われても、ピンとこないかもしれません。でも、私の心情にはピタリと当てはまりました。

ただ、自分で【自殺と言う行為そのものが怖い】との自覚がなかったので、【自殺のニュースを見るとゾワゾワする。発作も出そうになる。怖い】を【私には自殺願望がある】に変換していただけでした。

そして「その恐怖症も症状の一つなのですよ」と言われて、またもやものすごく納得をしました。

【急に自殺したくなったらどうしよう】と思う恐怖が単純に【死ぬのが怖い】恐怖と同じならば、やり過ごせばよいだけだからです。時間が経てば、心が元気になれば治まるのを体験で知っているから安心できるのです。

このように、元から【死への深い恐怖】を持っている私は、なるべくしてパニック障害になったのだと思います。

パニック発作を経験して「自分は死んでしまうかもしれない」と強く思うことにより【死への恐怖】を増大させ、行動範囲を狭めていったのです。

そんな私ですから、完全に発作が出ないとはいい切れません。でも、今まではただただ恐怖だったことに、自分なりの解釈が加わって【恐怖を感じている自分】を受け入れられるようになったのです。

このことにより、パニック障害を自覚する前から起きていた【死への恐怖】も、受け流せるようになったのです。

恐怖はありますが、その一瞬で終わりです。出た後に引きずることもなく、むしろ【少しストレスがたまっているのかな。労わろう】と、健康のバロメーターにしています。

そのことにより私は、パニック障害を経験する前よりも、楽に生きられています。

 

〈33.当時を振り返って2021年の気持ち・補足〉

パニック障害のカウンセリングを受けて、死への恐怖が激減するとは思いませんでした。でも、根底にこの恐怖があったことで、私はパニック障害を発症し、長引いたのだと思っています。カウンセリング当初は、この項目のことを相談すらできませんでした。だって、口にすると恐怖が襲ってくるから。でも、カウンセリングを重ねていくうちに、フト話すことができました。そこから自分で死について考えました。今でも稀に寝入りばなの恐怖心が出ますが、頻度は格段に減りました。そして、出た際は絶望するのではなく「あー、あれがストレスね。ちょっと力抜こう」や「これも発作の一種。受け流せば大丈夫」と健康の指標にしつつ、上手に付き合っていけています

 

34.体験を書き終えて【私の思いと願い】

パニック障害を克服した私が言えるのは、パニック障害を改善するには、【パニック障害と向き合う】こと、【パニック障害を知ったうえで、実践をおこなう】ことが最善の道だということです。

それは、簡単にはいかないかもしれません。でも、自分で調べて、自分に合った道を探してください。

体験記を書いていて切実に思いました。

【最初の発作のタイミングで横井式3ステップ認知行動療法に出会えていたら】、【心療内科を受診する時に】、【ヒプノセラピーを体験したタイミングで】、少しでも早く、発作の記憶が少ないタイミングで横井式3ステップ認知行動療法に出会えていたら、苦しみは遥かに少なかったのではないか。

そんなことを思いながら、体験記を書き進めておりました。

パニック発作以外でも、自分では当たり前に思っている苦しみに理由があることを知れます。そして、パニック発作が改善するのと同時に、その苦しみからも解放されます。楽に生きられるようになります。

私は今でも浮き沈みはあります。常に穏やかな完全無欠モードには程遠いです。でも、楽です。シンドイ時もそれに付き合える自分がいるので、20代や30代のころよりも、生きるのがとても楽です。

「完治を目指さない人の方が完治する」

私がお世話になっている、師匠カウンセラー横井先生の言葉です。

パニック発作が出なくなっても、人間関係・気分の浮き沈みが辛ければ、楽に生きられません。

でも、苦手分野に挑戦する際に発作が出るけれど、それ以外は楽に平和に暮らしていける。

どちらの生活を望みますか?

パニック障害に苦しむ方、パニック障害の辛さがわかってもらえず孤独な方、パニック障害で苦しむ大切な人を支える方、すべての人が少しでも楽に生きられるのが私の願いです。

 

35.改善方法は千差万別【経験とデータは裏切らない】

体験記、最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

パニック障害の症状は千差万別です。同じパニック障害でも、できること、できないことは人によって違います。

私が受けた横井式3ステップ認知行動療法は、ベースは共通です。でも、具体的には症状・性格などその人に合った改善策を提案してもらえます。なぜなら、私が受けた時点で、すでに400人の改善実績があったからです。

試行錯誤のデータが先生にはありました。だからこそ、色々なことに気づけ、色々な認知行動療法が試せたのです。

 

36.改善した人間のカウンセリングとは

まだ、外出に大きな不安があるころ、それでも習いたいものができました。そんな時「パニック障害を改善したインストラクターの教室」が目に留まり、家からも近く「ここなら通えそう」と思ったのですが勇気が出ませんでした。

なぜなら、あまりにもそのインストラクターがキラキラしていて、シンドイ状況をわかってもらえない気がしたからです。

「完全に元気になりました!」と言われると、うらやましい反面「それを押し付けられるんじゃないか」と思ったのです。

カウンセリングではなかったのですが「私はこれで治ったから、あなたも大丈夫」、そんな風に言われるのではないかと不安になり、見学も申込みもせずに断念しました。

もしかしたら、私のカウンセリングにも
そんな不安を抱く人がいるかもしれません。

そこは分けて考えて欲しいです。

●私が改善した【横井式3ステップ認知行動療法】をベースに
●経験者が話を聞いて寄り添い、楽になるまでサポートする
と言うのがモットーです

私が個人でカウンセリングルームを立ち上げている訳ではないというところに、注目して欲しいです

横井先生のカウンセリングルームでカウンセラーとして活動するということは、年間100名以上を完治、もしくは完全寛解に導いている横井先生のノウハウ、データをバックボーンにカウンセリングが行えます

まだまだ新米ですが「楽に生きられるようになって欲しい」との思いから、私の経験を書かせて頂きました。 

最後までお付き合い、ありがとうございました。自分を信じて生きましょう

 

 

 

 

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