徒然なるままに物書いて暮らしていけたら

最近思うこと集

気遣いの変化

気遣いとは本来献身性のあるべきもので、言い方を変えれば、そこに契約性が生じてはならないはずである。そこをはき違えてしまう私やほかの輩、また献身性がゆえにその気遣いに気づくことのできない輩や私、その誰もが気遣いという行為を契約的に変化させてしまっているのではないだろうか。

ただより高いものはない。この言葉はタダという言葉に含まれる有償性に注意しろという言葉であって、確かに無料登録すればたいてい迷惑メールが届くようになるし、現代を生き抜くライフハックとしては確かに正しいかもしれないが、タダという言葉が有償性の隠れ蓑になってしまっていることに悲しみを覚える。

恐らく、気遣いも同じなのであろう。気遣いにいまや献身性は失われ、「あの時手伝ったのに」という言葉が横行してしまうのだろう。心を動力に掲げる「この人のために」というスローガンとは袂を分かち、さも当然のように未来への布石としての気遣いがこの世には横行しているのだろう。

私は自分が献身性を持つことで大きく傷ついた経験を言い訳にして、まっすぐな献身性を持てないことがある。それは人として社会を生き抜くためには必要なスキルなのかもしれないが、純粋にだれかのためを思いやってきた自分を誇りに思っていた私はどこか自分の変化に悲しみを覚えてやまない。

もっとも、一番悲しいときは、こんなことを悲しんでいる人間がこの世でどれだけいるだろうかと慮ったときであるが。

この世で一番かっこ悪いこと

伊坂幸太郎「逆ソクラテス」を読んだ。社会の構造をできる限り単純にしたともいえる小学校のクラスに起きる問題を取り上げた短編集なのだが、その中に「この世で一番かっこ悪いこと」というものについて学校の先生が触れるシーンがあった。それに感心してしまったのでここで紹介したい。

ズバリ、小説の中では「人によって態度を変えること」といっていた。

かっこ悪い姿というのを何故かっこ悪いと思うの?と原因究明してみると様々な罵倒が浮かんでくる。ダサいだの姑息だのと浮かんでくる言葉の多くが「人によって態度を変えること」には当てはまることに私ははっとした。もちろんバカとか当てはまらない言葉もあるだろうが、それを差し引いてもこれほど具体的でかつかっこ悪いという要素を詰め込んだ行為があるだろうか。

かっこよくなる方法は知らないができる限りかっこ悪くならないためには、こんなところから始めてみるのも悪くないのかもしれない。

逆ソクラテス、めちゃくちゃ面白かったので是非読んで欲しい。人間社会のあれこれを小学校を舞台にすることでプラトニックに伝えてくるようないや〜な小説だった。最高。

友人達へ

みんな大好きだ。己の信じた道に間違いがあったとしてもそれぞれが大団円に持ち込むだけのパワーを持っていると私は信じて疑わない。何とかなる。信じて突き進んじゃえ。時には休んじゃえ。そんでもって飯食いに行こう。思い出話に花を咲かせよう。

よく読んでくれている方へ

ここまで読んでいるのだからいつも読んでる友人だったりするかなという気持ちで今私はこれを書いています。まず、更新を軽くサボっていたことに対して謝りたいです。私は謎に自分がいろんな人に伝えたいものがたくさんあるという自負があったのですが、どうも私がどこまでも阿呆であるせいで、私という人間を構成している論理は単純明快になっており、今まで書いてきたような内容を抑えていれば私のような人間になりそうです。

とはいえ、一定数感想を寄せてくれている友人がいて、とっても楽しくやらせてもらっています。

さて、私は普段「飾らないこと」をかっこよさの基準に取り上げていますが、どうにも私は今、背伸びをしないと人の心やあり方についての考えが浮かばないようです。これからも何か思いついた時には書こうとは思いますが無理して背伸びはせず時機を見て投稿させていただけたらなと思います。

本当にありがとうございました。またどこかで。

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