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文章を書く

イヤホンの充電を忘れていたことをきっかけに、少々長旅だった今日の帰路において私は残りわずかな充電をこんな雑記に捧げることにした。

なんだか文章を書くということを怠っていたのを存分に感じる書き出しであるけれど、目を背けてひたすら書く。

年が明ける前、まだこの世が2021年だった頃、後輩たちと飲み会をすることがあった。

後輩たちといっても、もう相当疎遠になってしまったサークルの後輩たちで、要するにその子らにしてみれば「大して関わる必要のない先輩」であるはずだった。

それでも、後輩の一人の子からその飲み会に誘ってもらえて、とっても楽しくて、素敵な写真も撮れて、たくさん笑った。本当に嬉しかった。

私はいわゆる「いい先輩」という像がよく分からないので、とりあえず「いい友達」を目指そうとして頑張っていたのだが、その甲斐あってか皆私のことを敬語を使う同級生ぐらいに思ってくれていると思う。

大人になると、お互いの腹の底がしれなくなるし、お互いの持つ影響力の大きさをはかり知ることが難しくなってしまう。

もし、自分の持つ影響力が知られてしまえば、舐められてしまうかもしれない、悪辣に扱われてしまうかもしれない、そんな恐れからくる、人間の自然な防衛機能がだんだん成長してくるからではないかと私は考えている。

特に、後輩から見た先輩などというのは、その人の過去につくりあげてきた人間関係など知る由もないし、怒った時は?泣いた時は?どんなことを言い出すのか、それがコミュニティでどんな影響を発揮するのか、計り知れないだけでなく、恐れるべきものになってしまうのもわかる。

端的に言えば、私は本当に大した人間ではない。

後輩には「もはや舐めてくれ」と伝えているのだが、そのくらい私というのはそこが浅く、単純論理をひっさげて生きているはずである。

「いい先輩」という像はまだまだ見えてこないけれど、「楽しい同級生の友達」になるノウハウはそこそこ積んできたような気がするので後輩だろうと先輩だろうと、このノウハウが活かせたらと、思うのでした。

なんだかわからん正月がすぎて、成人式なるものがやって来ました。中学校3年生ぐらいからずっと戦ってきた、「大人になること」の代表的イベントです。

その場で中学校3年生の自分からの手紙が届きました。これがもう、傑作でした。

20歳になった現在でも中学3年生の時期は自分が大きく歪むターニングポイントだったと思うくらい、中学3年生では色んな経験をしたと思っていまして、

でもそれを、「お前は歪んだ、汚いものを見すぎた。」なんて直球で書いてあるものだから、流石に少しダメージがあったし、「直截的に文章を書く能力」においても、「現実を逃げずに直視する能力」においても、自分が中学3年生の自分に大きく劣っていることを知らしめられて、すごく悲しい気持ちになりました。

「あぁ、散々戦っていたつもりだったけど、少しずつ『大人になること』にはジリジリ敗走を続けて、気づいたらこんなにも後ずさりしていたんだなぁ」とか思わされました。

成人式の後、中学の友達と飲み会をしました。すっかり皆お酒を飲むことにハマっていて、あまりお酒を沢山飲むことが得意ではない僕は頭の中でandymoriの「ハッピーエンド」を流しながら、話の内容を聞き流したりしていました。

はしゃぎ回った
友達が笑わなくなったのは
誰のせい?
わからないが
それでハッピーエンドなんだ
ハッピーエンドなのさ
ハッピーエンド/andymori

andymoriはいつも皮肉っぽく、「大人になること」に向き合っていて、この歌もサッカーで遊んでいた、身を削らずともお互いの話を笑いあえてた、そんな価値観が、無理にお酒を飲むことや、自分の倫理観に欠ける行為を大きな声で話すことを良しとする価値観に変わってしまう、そんなことを悲しまずに受け入れる応援歌のように感じられるのでした。

総じて、最近は「大人になること」というのは、「大切な人を守るために身を削ること」というように感じることもあって、でも同時に、弊害として「身近な人を愛せなくなる」という側面もあると思うので、これはどうもにっちもさっちもいかないみたいで。

よく考えれば、自分の人生がにっちもさっちもいってる時なんてないようにも思うけれど、この矛盾する「大人」とかいうものと向き合う時間はまだまだ必要だな、考える頭を休めたらいけないなと思うのでした。

と、ここまで書いて、この文章が5年後の自分にとってダメージにならない、鮮度の高い気持ちとして保存できていることを祈って書き終えることとします。

雑な日記でした。推敲せず。

うおー。ほどほどにがんばるぞー。

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