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LとRと、スローな暮らし


こんばんは。
言葉の源流を知ることは、自然の謎を解き明かすことそのもの。
なので、今日もちょこっとこの話を。

数年前に、語源オタクとしてはかなり衝撃的なものが放送されていた。
その内容は、いとうあさこさんがスーパーの店員のようないでたちで、キレッキレのダンスを踊りながらハム製品をアピールし、そのBGMが、松田聖子さんの「フレッシュ・フレッシュ・フレーーーーシュ!!」というサビの夏の扉、というもの。

フレッシュって、実は綴りが2つあり、
freshの方はできたてつくりたてで新鮮とか新しい、といった意味があり、
fleshの方はなんと、食肉やら情欲って意味がある。
スーパーでよく「フレッシュコーナー」と書かれているけど、言葉の響きだけでなんとなく、果汁がほとばしるような爽やかなコーナーかな、と勝手にイメージしていたら、それは食肉コーナーだったという。。。
この、カタカナで綴ると同じ「フレッシュ」だけど、Rの方は生命が満ち溢れるイメージ、Lの方は血がしたたる死体のイメージと、まさに対極になっているのがよくわかる。
(まあ、食肉も、新鮮でないとNGですけどね)

この、生と死という対極の世界が、LとRという使い分けで、見事に切り分けられる、というのが、英語圏の単語をみているといつもとってもわかりやすくあらわれていて驚く。

病がぶりかえす、再発する、というのを英語ではrelapse。

reというのは「再度」という意味があるため、再度lapseする、ということになるのですが、このlapse という単語は一体どういう意味なのでしょう?

辞書によると、
lapseは、神の恩寵を失う と書かれている。
そして、LをRに変えてrapse で調べてみたところ、なんとこちらは、動き回るとか音をさせながら動くという意味に加え、スラングでは牛や家畜を盗む という意味で用いられている。

ここにも、LRの対比。
失われるものが、神の恩寵なのか、それとも、価値のある牛や家畜なのか・・・?
牛を盗んでも、神様に嫌われそうやん、とツッコミが入りそうですが。まあこのあたりは遡れば遡るほど混線してきて、どちらも同じようなニュアンス、ということになるのだと思う。

youtubeの動画なんかでよく、タイムラプス動画というのがありますよね。
普通に味わったら何時間も、下手したら何年もかかってしまうようなものを、早回しすることで、数分から数十分で、その物語を早回しでざざっとみることができてしまう。
ラプスの技術を使うと、効率が高まって、お金が儲かりますね。。神の恩寵は失うかもしれませんが、物質的な豊かさを得られる。

ミヒャエル・エンデのモモの世界ではないですけど、わたしたちは社会生活を送る上で、常にこの「ラプス」に加担するよう強いられているように思います。そしてそのたびに、少しずつ神の恩寵を失っている、、

また、このラプスという音は、濁音半濁音を無視してさらに源へ戻っていくと「ラウス(羅臼)」に辿り着く。羅臼といえば羅臼昆布が有名な北海道の地。
昆布といえば、ヨウ素が豊富ですが、ジャン・ショートンというホメオパスによると、ヨウ素のキャラクターは、自分の国や領土を持たない(持てない)流浪の民の象徴、ユダヤ民そのものだ、とおっしゃっている。ユダヤといえばいろいろ悪名高い側面についてよく耳にしますが、彼らの性質というものはまさに、彼ら自身が、自らの物語がラプスされてきた故に、取り戻したい、という負の連鎖の延長にあるのでは、なんて思ってしまう。
蛇足ついでに、羅臼地方では、ひかりごけ事件という人肉食の事件があったそうで、卵が先か鶏が先か、欠乏感に突き動かされると、人は極端になってしまうのかもしれない、その象徴的な音が「ラプス(ラウス)」なんだなと語源オタク的に深く考え込んでい。

以前地方移住を少ししていたとき、庭でソーラークッカーを使って野菜を蒸したりご飯を焚いたり、パウンドケーキを焼いたりしていた。結構時間がかかるが、ほんとうに太陽の光だけで調理することができて、しかも、いつもの調理と違ってとても美味しかったです。まさに、ラプス、の反対の世界でした。

自然農が今とても注目されているのは、化学物質などを使わない、自然にやさしい農法、というのはもちろんそうだが、わたしはこの、植物が本来のあり方で育っていく様子を、はしょらずにおつきあいして最後まで責任を持つ、というところに、ラプスと反対の、とても豊かな世界が広がっていると思う。

いろいろな農法や技術があるけれど、私が好きなのは、ロシアのアナスタシアという物語でも触れられているような、営利ではなく、自分たちでつくって自分たちで消費するという、プライベートな農。日本でも昔は、米のとぎ汁や、調理したときの残渣なんかをそのまま植物に与えて肥料にしたりしていた。アナスタシアは、種を口に含んで情報を与えて植えたり、足や手や顔を洗った水で水やりすると、植物は育て主の情報を感知して育ち、その人のための薬のような植物になる、という話がでてくるけれども、そういった、物語が循環していく世界、というものが今一番、お金で買えない尊い世界なのだよな、としみじみ思う。

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