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生きるか数えるか②

生きるか?それとも数えるか?
このテーマを追うためには、そもそも数える世界=力の世界、についてもう少し解像度をあげていく必要がある。

力っていったいなんなんだ?
力を知ることは、究極的には熱力学と、その限界(そして量子力学へつながる)って話になってくる。

力は、目にはみえない。
けれど、目に見えるものがどのように動き、どのように動かなかったりするか、をみつめていると、そこにはなにか法則のようなものが透けて見えてくる。

陰陽論、陰陽道でおなじみの、タオのマークがある。
あのマークは本来、静的にかたまった状態ではなく、渦がくるくると回転し、そこに動的エネルギーに満ちた状態を示している。

Photo by Alexander Schimmeck on Unsplash
https://unsplash.com/@alschim


生きているということは、循環していること。
ずっと揺れ動いていることである。

あのマークがなぜ、黒と白が半分ずつ描かれているか?

それは、電気エネルギーは、プラスとマイナスの両極に、常にエネルギーが揺れ動いているから存在している、その象徴ともいえるからだ。

黒はなんかイメージ悪いからいらない、わたし白だけでいいわ!
なんて黒を切り捨てようものなら、
もう、電気は流れることができなくなる。

それはつまり、生命の存立基盤を失うこと、そのものになってしまうわけだ。

数えるとはどういうことか?の話に戻ろう。
数えるとは、「折る」ことだ。

余談だが、占星術も、計算して、角度を重視するわけだ。
この「折れ目」の数や、その角度、そしてそれがいつでき、いつゆるむか、という力の法則を読み解く技、ということともいえる。
(このことを理解すれば、占いが当たる、当たらない、のある種科学的な妥当性が透けて見えてくる。そのチャートの持ち主が、熱力学の範疇に沿っている範囲で、力の物語を生きている範囲で当たるが、その外へ出てしまうと当たらなくなる、、この話はまた長くなっちゃうのでここでは書かない)


折る、という行為の解像度をもっと高くしていこう。

遺伝子とか、生命科学関連の本をみていると、しょっちゅう「フォールディング」という言葉がでてくる。
折り紙で鶴を折るように、たんぱく質の機能をただしく働かせるために、鶴の折り方(遺伝情報に描かれているアミノ酸配列の青写真)通りに、アミノ酸配列の「ひも」を正しく折り畳む(フォールディング)、ということさえちゃんとやれば、生命は正しく整備された機械のようにちゃんとなおる!折り方が間違っているときは外からなおしてやればいい、と信じているひとたちが、mRNAを弄り倒すことに夢中になっているわけだ。

Photo by Shinta Kikuchi on Unsplash
https://unsplash.com/@shintak

折る、という行為を、もう少し自然に近い風景で視覚的に理解してみたい。
その典型例は、水路だ。

Photo by Andrés Lyu on Unsplash
https://unsplash.com/@andreslyu

これは京都の鴨川の写真だけれど、鴨川って、まーーっすぐ流れているが、あれは治水が行われたことでああなったわけで、もとからまっすぐだったわけではない。

川の流れはよく蛇に例えられるけれども、本来、水というものは蛇行したがるもの。その蛇行をやめさせ、まっすぐ流れるよう水路のかたちを変えて誘導する様子が、まさに「力が加わる」その瞬間の象徴だったりする。

ほんとうは、うねうねしながら進みたい!と思っている生命エネルギーの流れ。なのに「左には曲がってはいけません!右にだけ進んで良いです」という風に、矯正されること。それは、そのエネルギーの片側の揺らぎを、陰陽エネルギーの、陰か陽どちらかのエネルギーを堰き止めて殺させられている、ともいえるわけだ。

力による世界、数える世界は、この双方向に流れているエネルギーのうち、必ず片側を、力を加えて否定する。殺す。実際、「折」という漢字の成り立ちも、この力が加わって死んだという形状から来ている。

力は必ず、デュアリティとして、片側から片側へ一方的に向かう。片側を必ず否定する。相手がこちらに、逆のエネルギーを流してくることを止めねばならないし、自分が相手に力をかざすためにエネルギーを送らねばならない、そういうわけでとてもエネルギー消費が高い。何より、そうやって片側のエネルギーを欠けさせ、壁をつくって断絶することで、自分の中のもう半分を殺すことになるのだ。


ハレの日に用いられる菓子折りや折箱も、「折る」という言葉が入っている。片側のエネルギーを殺し、もう片側だけを肯定するという意味合いがここには含まれている。

Photo by Julia Kicova on Unsplash
https://unsplash.com/@justjullietta

堰き止めることには、良い面も悪い面もある。
良い面は、器をつくって、そこに貯めこむことができるところ。
しかし、問題は、自分が望もうが望むまいが、エネルギーの陰陽両面が溜まっていくことになり、それが今度は、循環の悪さ、腐敗を招くことにつながっていく。

一般的な意味でのラッキー、吉、とされることは、基本的に「たくさん貯めこむ」「数えられるなにか、の数をどんどん増やす」というニュアンスが強い。

しかし、この裏面は、澱みや腐敗の原因を自ら呼び寄せているということでもある。

人は、物語のいいとこどりをしたい。
美味しく熟れた果実を、たくさん食べたいわけだ。
しかし、熟れ切った果実は、ちょっと目を離したすきに腐り始める。
バナナをひと房買って部屋に置いておくと、真っ黒くなって食べられなくなることがあるが、その「美味しい」と、熟れすぎて腐り始める境目、というものを、思うようにコントロールするというのは、なかなか面倒だし、労力が大きい。

この、貯めこみたいけど、腐るのはイヤ

というわがままさに、全力で答えてあげるポーズがうまいのが、西洋医学であり科学なんだよな、としみじみ思う。

腐りやすいものを好むのに、防腐剤に頼りたくない!なんてうまい話はないのである。

西洋医学や科学を否定するのはいいけど、そもそも、澱むことを無自覚に望んでいる自分のことを、いったいどうするんだ?そこにあやからないと無理ゲー、な物語を望んではいないだろうか?

という話を無視するわけにはいかないのだ。

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