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生きるか数えるか④

生きるか数えるか、を別の言葉で対比させてみよう。

それは、
自然に結ばれていくのか、それとも意図してくっつけるのか、
という風景に現れる。

人の直感が正しく働いている時、どれだけ表面的にととのっていても「なんか変だなあ」と違和感を感じることがある。
そういうときに使う的確な言葉に「胡散臭い」があるけれど、この「胡」という漢字がまさに、後者の「意図してくっつけた」世界から漂う臭いに感じる違和感、を的確に象徴している。

昨今は、自分でとにかく目標を設定し、なんとか達成するように努力し、それを叶えることが大事、みたいな風潮が強くあるように感じる。だが本来、人生を含め、なにもかも思い通りになんていかないことがある中、そのご縁の中で、不思議な必然性を感じながら生きるうちに、自分らしさというものが育まれていたのかもしれない。
神話には「なる」という言葉遣いが多いけれど、物事が自然に流れている時、いろいろな物語や想いが絡まって、いつのまにかかたちをつくっていく。そこにかかわっているいろいろな出来事や、様々な人の想いは、はじめから一致して「こういうかたちにしよう」と思っていたわけではなかったかもしれない。

この「胡」な世界では、とにかく後から、本来くっつかないものを無理やりくっつけてひとつの物語にしてしまえと、接着剤を使ったり、プラスチックをあぶってどろどろにし、境界をなくすようにしてくっつけてしまう。そのため、はじめから終わりまでに通底して物語が流れる、ということを不可能にする。

日本は自然が単調ではなく、豊かなバリエーションを持った稀有な土地だからこそ、そのことへの諦念をしっかり持った文化が根っこにある。
ところが、どこまでいっても同じ平坦な風景がえんえんと続くような、自然のバリエーション度が低い他の文化では、人間のエゴでこねくりまわして造形していくことからしか何も始まらないし、そうやって自然と敵対していかないと生き残れない、という環境がベースにあることも多く、そういったところの文化が言うところの「自由」というのは、ある種とてもわがまま放題だなあ、と感じる。
この種の「胡」な自由は、自由をはき違えているんじゃなかろうか?
本来の自由というものは、どんな物語を生きてもかまわないが、その物語を構成しているあらゆる要素への敬意がベースにあるし、光と影の両面を引き受ける、深くあたたかい豊かさに満ちているはずなのだ。

自然あふれる山暮らしを経て、都会に越してきて思う事は、山であれだけ夏が美しかったのは、実は冬が厳しかったからかもしれない、ということだ。

東京は、まるでいつも力なくへらへらと笑っている人のように、もったりとぬるく、一年中なんとなくで過ごせてしまう。

対して、山の冬はほんとうに厳しかった。
そのことが実際に、土地に作用し、害虫が死んだり、あるいは土が熟成したり、いろいろな影響があった上で迎える夏。だからあれほど、誇らしげにキラキラと輝いた風景になるのかもしれない。
東京のように、ぬるく単調な時空間を過ごしていては、あのきらきらした季節感を味わう事はできないとしみじみ思い知る。

生命には揺らぎがあり、それはつまり山ばかりでなく谷がある。
夏だけでなく、何も実らずただただ寒く、死の危険と隣り合わせな厳しい冬があるということ。

このことを引き受けず、「全部平地だったらいいのに」「ずっと春か夏だったりいのに」と、起伏を無理やり追い出したらどうなるのか。
 
この、気に入らない起伏を敵対視し、なるべくその起伏がなくなり、一年中ずっと「平安」であるように、と技術で自然を制圧することが、都会では行われてきた。その象徴が、いろいろな宗教的な伝統行事、儀式にかいまみることができる。

霊界物語において出口王仁三郎は、節句はすべて揺らぎをつかさどる自然の神(艮の金神)を全部締め出す呪術的儀式ではないか、と指摘している。
実際、360度ある方角のうち、太陽の光が届かない、短絡的にとらえたら実りが少ない方角が、「鬼門」として安直に忌み嫌われる、そのことは理解できないわけではない。
また、季節の変わり目は、体調を崩しやすいので気を付ける、という意味合いも込めての節分における邪気払い(鬼退治)も、確かに一理あるだろう。

見えるものがどれだけ増えるか、という唯物論ベースの、実用性や効率性だけを求めるキネシス的世界観は、このゆらぎが極端になる時を全て、非効率だから切り捨てたい、封じ込めたい、という発想で成り立っている。

だが、みえない領域を含めた、物語の全体性からみつめなおしてみると、まさにこの、物理領域でサボっているように見える時間に、内的に物語が熟成され、自然に結びついて設計図がしっかりとかたちづくられていく、大切な時間なのだ。
それを非効率だと言って締め出すことをやりすぎれば当然、最後にその、追い出したはずのエネルギーそのものに飲み込まれてやられてしまうのは想像に難くない。

この「非効率だから起伏をなくす」ということが、質を高めていると思い込むことが、いかに短絡的で愚かなのか、ということ。あなたが今「これはノイズだ」と定義したその揺らぎは、ほんとうにムダで棄てて切り捨てて良いものだろうか?
起伏がなければ電気エネルギーは発生しない。個人の起伏の高まりを鬼とみなして否定し、群れとしての大きな起伏、単一的な物語に一極集中させよう、ということなのだろうが、それは自然の世界からみると、とても脆弱な試みなんだけれど、、

わたしは一時、格安販売のパン工房で働いていた。
薄利多売であるから、スタッフに求められることは想像がつくだろう、時間当たりで大量に同じ質の製品を、まるで機械がつくるかのようにすごい勢いでつくることが求められる。
早朝の枠には、若いころからパンではないが工場のラインで働いてきて、同じことをえんえんと素早くできる才能をもったおばちゃんパートさんがいて、わたしはその人の横でサンドイッチを作ることになった。
20種類くらいを短時間でけっこうな数つくっていくのだが、その時に、はさむ素材に個体差があると、速度が落ちてとてもやりにくい。だから、同じ厚さ大きさになるように、事前に切りそろえてタッパーに保存したものを使ったり、ペースト状になったものを購入して塗り付けるだけだったりするのだが、どうにもならないのがレタスと卵だった。レタスはほんとうに扱いにくかった。大きさがばらばらだし、見栄えをよくしなければいけないし、すぐ傷むし。
普段はレタスも、サンドイッチをつくるのも大好きなわたしも、急かされる仕事の場面では忌々しいとしか感じられなかった。生命の揺らぎがこれほどまでに邪魔で迷惑だと思えてしまった。
そして卵。これも、薄切りにすると必ず両端の白身だけの部分がでてきて、それをどうするか、にいつも苦心した。おばちゃんは、そういうのをうまーくごまかしながらすごいスピードで仕上げるのが上手かった。そういう意味でプロだった。結局その職場では、ゴム手袋のアレルギーで両手がはれ上がり、それ以上働けなくなってやめた。人間機械と化するすさまじさをいろいろと味わい、いい勉強になったのだが、複雑な気持ちだけが今も後味悪く残っている。

最近では、ロングエッグという代物があるらしい。
中心が黄身、周囲が白身で、細長い円柱状の加工食品で、輪切りにすると、いつも「平等」に同じ直径になる。
まるで金太郎飴のようだ。
昔京都銀行のCMで、ながーーーーーーーーーーーーーーーいおつきあい、というシリーズがあった。
よく見慣れたいろいろな物体が、まさに金太郎飴状態に拡張されて驚かされて笑っていると、これくらい長く信頼しておつきあいできるんですよ、というアピールが入ってくるというわけだ。

パン工房の現場で、急き立てられながらサンドイッチをつくるわたしという視点からすると、この金太郎飴に似た何か、はとてもありがたい。無駄がないし、客に「平等」にかたちが美しくととのった美味しいサンドイッチを提供できる。

昨今は、SDGsとやらの影響か、偽物の肉をスーパーでよくみかけるようになった。この偽肉たちは、見た目はミンチだったり、いろいろな肉片にそっくりな形状にわざわざ仕立ててある。
だが、物語の質としては、ロングエッグを含め、すべて、金太郎飴、に象徴されるような、無駄な起伏を排除して、本来の大きさよりも大きく仕立て上げたものと同じ系統、と言えるのではないか。

偽肉は、30年くらい前から自然食品店とかではひっそりと売られてきた。ベジタリアン初心者が一度はおもしろがって手を出すが、そんなに美味しいものではないのですぐ食べなくなる。ベジの食事が合っている人にとっては、普通に麩やお豆腐で十分で、わざわざ肉風味を再現して欲しいとはあまり思わない。そして、普通食の人にとっては、本物の肉の方が美味しいに決まっているし、偽肉も決して安くないので、なぜ偽肉を食わねばならんのか、といったところだろう。
だが、食物連鎖のピラミッドを考えた時に、世界中の人のほとんどが肉食ベースになった現代はバランスが悪すぎる。肉食をする生き物は、本来ピラミッドの上の方で、数が少なくないとバランスが悪いのだ。
この自然が持つバランスに従うのが無理そうだから、細胞肉というものが開発されて、いくらでも安心して肉食を続けられる、という方向に世界が向かっているらしい。

つまり、金太郎飴は、この種のデジタルさが持つメリットデメリットを、的確に象徴している。

Asanagi, CC0, via Wikimedia Commons
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c3/Kintaro-ame_2013-09-12.jpg

金太郎飴は、節句の行事のひとつである七五三で配られる千歳飴と似た形状だ。なぜネーミングが、桃太郎や浦島太郎ではないのか。どこをきっても安定的にいつも「金太郎」がでてくるということは、「常に安定的に、勝ち続けたい」という、生命の揺らぎを度外視したエゴイスティックな欲望の象徴であり、裏を返せば、そういった揺らぎさえ排除すれば、かたちをふやしつづける、というマジックはお手の物さ、ということと言えるのかもしれない。

恵方巻も、ロングエッグも金太郎飴も千歳あめもみんな、輪切りにしたら「平等」な直径になる。

この形状が持つ凄まじさを端的に物語るのは、果物や飴玉ではなく、実は肉を詰めたソーセージだ。
この、もともとは血がしたたる肉でつくられていたものが、植物性の何かにおきかわる、ということは日本文化でたくさんある。

餅や粽も、祭りや儀式についての歴史を紐解けば、もともとは殺した肉、生贄の肉である。

⑤では、この形状についてもう少し考察していきたい。

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