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アンスクーリング・ホームスクーリング関係

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息子をアンスクーリングで育ててきています。子育ては自分育ての過程でもありました。私は外勤をしている時期も結構あるので、あまり親子で何かした、みたいな話は少ないです。どちらかという…
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2019年7月の記事一覧

2019年、現在地メモ。

最後にここに書いてから、もう3年もたっている。 長いような短いような、そしてそのあいだに めまぐるしく環境がかわり、それはまだ続いている。 アンスクーリング・ホームスクーリングというと、 時間的制約から主婦層が中心になっていると思う。 だがわたしはそういった、 外側の物理的容易さによってやりやすいかどうか、 ということだけでアンスクーラーかどうかは決まらない、 本質的な意味でのアンスクーラーらしさ、 を見据えていたいと思い、 この3年間過ごしてきた。 今

スクーラー=外的規範に沿う人々

アンスクーリングという概念は、 禅問答のようなもので、 それそのものを、 言葉で指し示すことはできない。 だから、 スクーラー=外的規範に沿う人々 というものを打ち消した言葉でまわりくどく表現することになる。 だから、 アンスクーリングの本質は 学校が、それそのものの延長である企業が、 どのようにわたしたちにとって恩恵をもたらすとともに、 何をスポイルさせ、わたしたちをダメにしているのか について丁寧に向き合う過程そのものである。 そういうことだから、 その中にいるこ

アンスクーリングと、愛

一般的な教育で学んでいるのは、規範である。 じゃ、アンスクーリングで学んでいるのは何? という答えを、 一言であらわすならやっぱり 「愛」 ということになるとわたしは思う。 スクーリングの世界に生きている人が 脳裏に描いている 「愛」と、 本来の意味での「愛」は、 いろいろと異なる。 ほとんど真逆であることも多いだろう。 アンスクーリングについて書くことは、 ほとんど全部この、 「愛」についてのストーリーだと思う。 ・・・勘の良い人はもうおわかり

アンスクーリングと、愛(2)

巷における愛の概念は、 規範という蟹の甲羅にすっぽりと守られた中で生きている人が、 その中で「快い感情」を手にすることができる瞬間、 を指しているようにわたしは感じている。 群れは「みんなでひとつの大きな身体」だ。 群れの規範に沿って生きていると、 そこには個々のストーリーがなく、 ひとつの、誰のものでもないストーリーが、 死んだ状態で流れている。 ただ、その中にあるのは山と谷、起伏であって、 人は当然、この「山」=「吉」の要素が欲しい、と 「山」の要素