日記の練習(2023.05.01)

急に文章や日記を書くことができなくなった。物理的にできないというか、気が進まない。脳のリソースを何かを書くということに割く気持ちになれない。では何をしているのかというと仕事をして、VTuberの配信を追いかけて、生活を回している。その合間に好きな酒場に行って酒を飲んでいる。

日記というのは絶え間なく書き続けることで、自らを言語的思考のフィールドに置き続け、なにかに気づいたりなにかを考えたりする場として僕にとって重要なものだった。ところが、『百日百首』などの企画を「無理」して完走することで、「しばらく日記から離れよう」という気持ちがほとほと強くなって、日記を書くことから遠ざかってしまった。短歌をつくる気力も同様に削がれてしまって、この4ヶ月ほどは、上述したとおりに、ほぼ仕事とYouTubeと酒と生活だけをしていた。虚無的だと思われるだろうし、僕も客観的に見たら虚無的な暮らしなのであろうことは理解しているけれど、それでもこれはこれでたのしくて快適なのだ。

今日は結婚記念日だった。妻と結婚して4年が経った。お互いに仕事が休みなので、海沿いにある大きなゲームセンターに行くことにした。最寄駅から3駅電車に乗って、そこからバスで20分で海沿いに着く。ゲームセンターとパチンコと銭湯と映画館が密集したエリア。アクセスの悪いこのエリアが繁盛してるわけがないだろうと勝手に思い込んでいたけど、施設よりも広い駐車場には多くの自家用車が停まっていた。

数日前から、妻がメダルゲームの動画を僕に見せてくれる。単純なゲーム性とメダルの鳴る音が妙に心地いい。たぶんこれも、狂ったようにVTuberのFPS配信を見ている僕を気遣ってくれてのことだとおもう。はたからみればゲーム配信に狂った男にべつのゲームの動画を見せるのは変に見えるかも知れないのだけれど、僕は確かに何かが少し浄化されたような気持ちになり、彼女の思いやりを近くに感じた。それもあって、寝る前の空き時間にメダルゲームの動画をここ数日は見ていた。メダルの音がきもちいい。ジャックポットがきもちいい。

妻の目当てはbeatmaniaという音ゲーだったのだけど、僕がメダルゲームをやってみたくなったのでふたりでメダルゲームをやった。メダルゲームコーナーの大きな機械の周りを取り囲むように、それぞれの台の前に二人掛け用の椅子があって、そこに腰かけて無心にメダルを筐体に入れていく。前後に動くプッシャーから零れ落ちたメダルがメダルを互いに押し合い、手前側にあるメダルを奈落へ落としたかと思うと、筐体から手元へメダルが吐き出されてくる。恥ずかしながら、僕は今の今までメダルゲームというものをやったことがなかったし、なんなら心の中で「お金にも景品にもならないのにパチンコめいたゲームをやるなんて」と蔑していたかもしれない。けれど、直観的に理解したのは、このメダルゲームという営為はむしろ何にも還元できないからこそ純粋な「遊び」なのだということだ。それは、小学生のときに牛乳瓶の蓋を集めてトレードしたり、めんこにして同級生と闘ったり、フリスビーのように投げたりして遊んでいたのと同じぐらいの純度を持っているように感じた。

その後、beatmaniaをふたりでプレイした。僕は初心者なのでレベル3ぐらいの譜面でつまづいている。妻はやりこんでいるだけあってさすがにうまい。彼女がいつもリビングで流している曲などを一緒にプレイして、ほぼ知らない曲なのに聞いたことがあるという不思議な感覚を得た。音ゲーは楽しい。

そのあとメダルゲームをもう一度した。さっき手に入れたマージンのメダルが全部なくなるまで遊んでいたら、気づけば19時を過ぎていた。ひとはこんなにも無心にあそべるのかとすこしうれしくなった。メダルで汚れた指をお手拭きで拭って、併設する施設でご飯を食べた。

帰りのバスのバス停を勘違いして、反対方向のバス停にならんでいたら目の前でバスが行ってしまった。今から30分どうしよう。すこしふたりの機嫌が悪くなってきたので、思い切ってもう少しゲームをやって帰ることにした。そこから1時間ほどbeatmaniaをやって、バスで帰る。ピリついた空気も和らいで、疲れてバスの中で眠った。

この世にうつくしいものはたくさんあるけど、帰りのバスからすこし見えた夜の海は、ここ最近で見た最も美しい景色だったとおもう。僕たちはこのつまらない街でつまらなく楽しく生きていくのだと思う。

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