自己表現に関しての殴り描き

何かを作りたいのだという欲求がほとんどなくなってしまって、いかに生きるかばかりを考えていた。

私はサイト制作が好きだった。サイト制作、htmlやcssを使って、時には画像編集ソフトも使って、私が好きなものをずっとずっとパソコンの上に映し出していた中学生のころ。

美しいものを作るんだと言って、絵を描くことが好きになったあの時。その事実は今でも覚えている。

私は高校〜大学入学まで少しロスがあって、その時にちょっと軽くは話せないような体験をした、思考力が低下して、物事の判断が落ちて、食べ物をろくにたべれなくなったのは些細な一部、まあわかるよね。病院に入ってなくて診断も受けてないから本当のところどうかわからないけれども、うつ病に近いものだったんだろうなとは思う。

周りの人は優秀だった、なのに、私はこんなにも時間をロスしてしまった。そして、受験の時落ちるか受かるかでも私は自分で生きていかないといけないのだということを悟った。判断力も基準もない、知識もない、そもそもどうやって生きていけばいいのかもわからない中で生きていく世界は地獄だと思った。だから、大学ではどうにか生きていく力を、考え方を身につけようと考えて生活してきた。好きだったのは工学とか情報の分野だった。だけども大学の専攻は文学方面を選んだ。技術だけあっても生きていくことができないからだ、同じような状況に陥った際、私はまた同じ失敗をする。リベラルアーツが必要だ。多分、この選択は正しかった。いや、選択をしたら、選んだ選択に即してどう振る舞うかは変えるから、どんな選択をしても正解にしただろう自負はある。だから、どのように解決するかばかりを考えすぎていた。

自分が何を表現したいのかという衝動が浮かんでこない、うまく生きること、問題を解決することばかりに思考がフォーカスしていた。私はしっかり生きれられる人になりたかった。良い人になりたかった。真善美を信念において生きてこうとしていた。けれども、その一方で昔に大切にしていた思いを無くしてしまっていることに気づいた。自分は何かを表現することが苦手である、というよりは表現したいものがない。多分これは弊害だ、技術だけあっても作りたいものがなかったら表へは出ていかない、自己の表現にはならない。

おそらく前述した経験の反動で、選択したものを正しいものにしていく、いかねばならないという思想がある。0か1。だから、努力のしないものは私を貶めているように思えるし、例えばゲームは私にとって有益か、良いものをもたらすか、という問いにどうにか答えを見つけてやっとできるという思考が恨めしい。確かに、辛い経験や挫折経験は人を成長させるだろう、私が大学ですごいねと言われるのも、絶え間ない勉強ができるのも挫折経験があるから。やらないといけない強迫観念とか焦りとかが奮い立たせるから。だけど、これは一種の呪いだ。もっと理由なく好きなものを行なって、損益ない行為を行いたい。例えば私は刺繍とかレジンとかいろんなものに手を出すようにしているが、その理由としては私の適正分野がわかるから、とこの刺繍やレジンといった技術がどこかへ適用できるかもしれないという期待を抱くことができるからである。

私は自己表現が苦手なのか考えていたのだけど、twitter等では自分の思考を普通に晒している。議論は好きだ、だけども、「見て欲しい」という感情はない、そんな感情よりかは美しいものを作りたいという気持ちが第一にある。強いていうなら見られることが苦手である。

だけども、表現しないわけにはいかないのだ。自分の持っている技術を私の中のみで完結させるのはまた違う。自分の生産性を現実世界に適用してこその1人の自分になるのだ。(この考え方はエーリックフロムの「愛するということ」に準拠しているところどころ過程の思考は省いている)

だから、表現せざるを得ない理由が欲しい。そのため、最近はnoteとかを片っ端からネットサーフィンなりして、理由を探していた。その中で理由になりそうだったものがある、quoraで見つけた一文。このサイトはとても知的好奇心をくすぐられるため、定期的にのぞいてしまう

”自分の回答に高評価が集中したような状況にはそれらを通じて自己の知見が本質を理解し、影響を与えているレベルに到達していると客観的に感じられるようになってきます。”(https://qr.ae/pNyawW より引用)

これが理由だ。私の考えや表現を客観的に理解するため。そして、私の押し殺してしまった、忘れてしまった感情を取り戻すため。

何かを作りたい、良い人になりたい、という二つが私が挫折経験の中で見つけれたものだった。生きていく上で、私ができることなんてこの二つなんじゃないかって考えたから。自己表現が苦手な理由はまだはっきりとしないけれど、したい理由とする理由は見つかった。この問題は多分、受け手に関して考えられる、ある種の問題があると思う。これは、pib等には作品流したい意欲があるためである。

大学において、生きていくための覚悟と基準は手に入れられたと思う。基準というものは存在しないということがわかった、ずっと探していかないといけないのもであるのだとわかったから。

ちゃんと生きていきたい、何かを作って自己を表現したい、それだけが私がこの人生で成し得れるものである。(というのが今の認識)

 ”じゃあ「真剣に生きる」にはどうすればいいか。 それはたとえば、目の前の仕事に手をつけるってことなのでしょう。わたしで言えば、書くべき文章を書いて、見せるべき人に見せる。1文字書くごとに、「自分は本気を出せば、すばらしい文章を書ける、という可能性」が減ってゆきます。書かないままでいれば浸れていた甘い幻想に抗って、少しずつ自分の可能性を減らして、代わりに「いまの自分」をひとかけらずつ引き受けてゆく。”(https://comici.jp/articles/?id=10472 から引用)

このたらればさんの文章は言い得て妙だと思う。今の自分を引き受けていって、ちゃんと生きる。あの時◯◯しておけば、なんていう言葉は許さない。そしていつか、焦りや感情から行う行動ではなく、能動的に活動をしていきたい。(徳と力は同じ一つのものである)

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