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ダンゴムシ

庭になったブドウがすでにほとんどアライグマに食べられてしまいました。ブドウだけなら許せるのですが、ヤツらはおじいちゃんが大事に育てているメダカも食い尽くしていきやがりました。今朝、ベランダにカピカピになったヤツらのフンが落ちていたのを見て、動物に対して初めて憎しみの感情を覚えてしまいました。絶対に許さん。

さて、横浜の片田舎にある我が家の庭には、日々さまざまな生き物が生息、あるいは遊びにきたりしています。腰を丸めてピョコピョコと現れる憎きアライグマファミリーをはじめ、たぬき、ハクビシンなど…。ちいさな生き物たちにも目を向ければ、カマキリがタマゴを産んだり、メダカの暮らす火鉢にはこっそりヤゴが潜んでいたり、その水面ではアシナガバチがひと休みしていたりと、我が家の玄関を出た先はちいさなジャングルと言っても過言ではありません。

私は、日中はたいてい出かけていて、自宅に帰ってくるのはほとんど深夜になってしまいます。

夜の庭はとても静かで、生き物たちの姿はどこにもありません。どこにも…あっ、いました、いました。ダンゴムシ。

ダンゴムシたちはこんな時間でもなにかを探すように動き回っていました。ダンゴムシグループが現れる場所は日によって微妙に違っていて、門のすぐ下にいることもあれば、ドアの前にいることもあります。帰ってきて車から降りた私は、まずiPhoneに付いている懐中電灯で足元を照らし、深夜活動をしているダンゴムシたちをうっかり踏んづけてしまわないように、よくよく注意しながら家に入るのです。玄関先でカタツムリを踏んでしまってからはとくに注意して歩いています。

ダンゴムシを見ていつも思い出すのは、幼少期に出会ったダンゴムシの「ダン太」のことです。庭先にいるたくさんのダンゴムシたちの中から1匹を摘み上げ、私はダン太と名付けました。

さながら王蟲と戯れる幼き日のナウシカのごとく、ダン太を手に乗せて家の近所を探検する毎日。ダン太をおうちに入れることはさすがにできないので、遊びおわったら、また遊ぼうと声をかけて庭先でお別れします。そしてまた翌日ダン太を探しにいく。当然ながら、私にダンゴムシの個体差を見分ける能力はなかったので、その日目についたダンゴムシをテキトーに拾い上げてダン太と呼んでいました。でも、今日のダン太はお前だ!とか思っていたわけでもなくて、そのときはただ純粋に、自分と仲良しのダンゴムシが1匹いるのだと信じていたのだと思います。ダン太を連れて藪の中を歩いてみたり、綺麗な景色を見せたり、他のダンゴムシグループと交流させたりして遊びました。

ダン太も楽しんでくれていると信じていました。ダン太は指でつつくと小さなボールのように丸まって、私はそれをつまんでは鼻くそのようにいつまでもこねていました。

ある日、いつものようにダン太を拾って遊びに行きました。空き地にある桑の木に一緒に登って、紫色に熟した桑の実をたくさん食べました。ダン太にも食べさせようとしてみましたが、ダン太は桑の実には興味がないようで、私の手のひらの上を走り回るだけでした。体を伝って服の中に入ろうとするので、私はダン太を落ち着かせようと、いつものように指で丸めようとしました。  

でも今日のダン太はうまく丸まってくれません。しつこく指でこねているとようやく小さく丸くなりました。でも、いつもみたいな綺麗な丸ではありません。

ダン太は変な汁を出して死んでいました。その日のダン太は、ワラジムシだったのです。

死んでる……。

怖くなってとっさに手から払い落としました。親友を殺めてしまったショックは大きく、ワラジムシという別種の存在も知らなかった当時の私は、その死の理由もわからないまま立ち尽くしました。わけがわからない。確実にわかっているのは、自分のせいであること。

私は、ダン太を傲慢に群れから引きはがし、あげく自らとダン太の力の差を見誤って死なせてしまったこと、反省してもダン太は生き返らないことをいっぺんに後悔して、無惨に折れ曲がったダン太を見つめながらごめんなさい。と呟きました。

ダン太の体を拾って家に帰り、駐車場にあるマンホールの溝に埋葬しました。水をかけて手を合わせ、それ以来、ダン太たちと遊ぶことはありませんでした。

今日も我が家の庭には命が息づいています。今日はドアを開けると大きなクマバチが轟音を響かせながら近づいてきたので、私は悲鳴を上げながらブレイクダンスを踊ってしまいました。滅多に人は襲わないらしいけどやっぱり怖い。クマバチも私のことが怖いのでしょう。しばらく庭を飛んで、隣の庭のほうへ消えていきました。

足元にはダンゴムシたち。ワラジムシも混じっています。踏まないように足をよけてかがみ込んで、触れずに、ただ眺める。

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