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このちっぽけな「自分」を超えるために

たかが数十年の経験だけでは、
どうにもならないなあと思うことがある。

以前は分からなかったことがやっと理解できるようになったと思ったら、
もっと分からないことに出会う。

前よりもちょっとは成長したなと思ったら、
自分ができることはわずかなことだと打ちのめされる。

いろいろな考え方を受け入れられるようになったら、
全てがある意味正しくて、同時に全てが一部にしかすぎなくて、
どうしたらいいか分からなくなる。

「分かっている」
「知っている」
「できている」

から踏み出すことは、

世界の見つめる新たな視点や
自分自身のさらなる可能性と出会わせてくれるけれど、
同時に、これまで自分が立っていた地面が揺らぐような
心もとない感覚をもたらす。

それによって自分の存在さえも揺らぐように感じる。


そんなとき、支えとなるのが、先人たちの積み上げてきたものだ。

それは哲学かもしれないし、美学かもしれない。
科学かもしれない、規範かもしれない。
人間観かもしれないし、死生観かもしれない。

ときに一人の人がその人生をかけて、
ときに何人もの人が先人の探究を引き継いで、深めてきたもの。

人間を取り巻く状況が目まぐるしく変わる中で、
その全てをそのまま適用できるわけではないかもしれないけれど、
少なくとも現代よりずっと、深く、時間をかけて
わたしたち人間という存在について考え抜かれてきたものは、
今の「自分」を超えた物事や人間の捉え方を教えてくれる。

自分の人生では辿り着きえないかもしれないその考えを
一時的な拠り所とすることは、
「自分」をより大きく育ててくれる繭の中に身を置くようなものであり、
宇宙を旅する小舟が時折帰る母船を持つようなものかもしれない。

拠って立つことは、寄りかかることではない。
片足を軸となるものに置きながら、
自分なりの一歩を、さらなる可能性を、模索し続ける。

拠って立つ場所を持ちながら、
さまざまな経験をしているうちに、
自分の中に、確かな感覚とともに、還る場所が生まれていく。

それでもまた一歩踏み出すと確かだと思った感覚が揺らぐのだけれど、
そうなったらまた、仮の拠り所を見つければいい。


なぜ何千年と人間が生き続けているのか。
なぜ今このタイミングで自分は生を受けているのか。

「自分」というものが、大きないのちの流れの一部だと思うと
これまでの体験や価値観の中だけに
「自分」を留めておく必要はないのだということに気づくだろう。

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