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幻想を手放し世界をそのままに見つめる


外はすっかり明るくなった。突如同居人となった猫のクレオはすっかりリラックスした様子でベッドの脇に丸まっている。ピーターさんはハンモックの中で丸まっている。

窓の外に見える湖は、海のように濃い青をしている。

そう言えば先日、モニカとルークが遊びに来た時に虹の色は何色かと聞いたときに、「六色かな」という答えが返ってきた。

虹が七色であること、藍という色があることはどうやら日本的な感覚のようだ。国によって言語の違いから虹の色の表現に違いがあるということを聞いたことはあったが、実際に不思議そうな顔をして「六色」と言われたときはなかなかの驚きだった。

見えているものに違いがあるわけではない。しかし、言葉と、それに伴う分類に違いがあって、それによって結果として体験する世界にも違いが出てくるのだろう。

多くの哲学者や心理学者は何百年も何千年も前から「わたしたちが体験している世界は幻想だ」と言っているらしい。

何のレンズも通さず見た世界は一体どんな世界なのだろう。

たとえば今日参加した成人発達理論マスターコースについてのコホートダイアローグの取り組みでも、参加者が「成人発達理論」と呼んでいるものはおそらく人によって異なっている。

結局のところわたしたちは自分の中にあるレンズを通してしか、理論も世界も見ることができないのだろう。

そう思うと、わたしが今日という日の中で本当に取り組むべきことは何だろうという問いが湧いてくる。

外に向けた学びには限界がある。

自分の世界を広げてくれるようで、大抵の場合はどこまで行ってもお釈迦様の手のひらの上だ。

自分自身の内的な世界と向き合うことにも限界がある。

これもやはり、「自分」というレンズを通して「自分らしきもの」を見ているにすぎない。

社会としてそこにある世界ではなく、いのちの集まる場所としての世界は何かをわたしたちに伝えようとしている。

現在の自分の意識や認識をも遥かに超越したものを、何か直接的に届けようとしている。そしてわたしたちにはそれを受け取る力がある。

以前のわたしならこんなとき「いる気がする」「いるように思う」「いるに違いない」と、強い断定を避けた言葉を使っていただろう。

今は世界についてある種の確信がある。もちろんそれはこれからもまた変わっていくだろけれど、知識ではなく体験としてまざまざと、疑いようがないほどに思い知らされていることがある。

世界の美しさを受け取る。ただ受け取る。

どこに届けるでもなく、誰に伝えるでもなく、ただただ受け取る。

役割や機能を手放して、自分がただそこにいることを許したとき、わたしという存在は消えて、世界そのものになるのだということはまだ体験を伴ってはいないけれど、その体験がすぐそこまでやってきている気はしている。2022.2.16 Wed 8:20 Nicaragu Laguna de Apoyo

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【こちらは2022年6月よりawai Lagunaの活動へ移行します】 リフレクションジャーナルを綴ることにご関心がある方はawai Lagunaにご参加ください。 https://laguna.awai.space/about

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