クイーン×ディズニー考察11/12〜QとDの邂逅(かいこう)〜

二つのインフルエンサーは共鳴しあった。

ルネサンスを超え、何度も蘇る両者の運命はついにここで絡み合う。


続き

ボヘミアン・ラプソディ(以下ボラプ)が2002年にギネスにより20世紀を代表する曲に選ばれたが、

授賞式に作曲者クレジットの彼の姿は10年前からすでになかった。

クイーンに在籍中のブライアンとロジャーがトロフィーをもらう。


その後は、2004年に日本で第二次クイーン・ブームが起こったり、新ボーントゥ・ラブ・ユーのビデオができたり、ペプシでウィーウィル・ロック・ユーのアメリカの歌姫達ビヨンセ・ブリトニーS・ピンク歌唱・出演のバージョンで流れたり(ブライアン・ロジャーも出演)、

2005年にはクイーン+(プラス)という形でバッド・カンパニーのポール・ロジャースをボーカルにツアーを開始。

映画化の話も持ち上がり、

未発表曲収録のアルバムを2011年に出したり、ドキュメンタリー・輝ける日々を作ったり、

アメリカの若きアダム・ランバートを新ボーカルに迎えたり(映画ボラプにもヒゲもじゃ姿で出演)、ガガやいろんな人ともコラボした。

復活(映画ボラプ)に向けて動き出していた。


ちなみに前述のミレニアム企画でボラプは一位だが、

100位までにクイーンの他の楽曲は一切含まれない。

2位のジョン・レノンにおいては、元在籍バンドのビートルズのシングルは複数現れる。10位以内に4つと、他にも複数。

ボラプだけちょっと異質な位置である。


話を1990年付近に戻す。

クイーンサイド3

1986年カインド・オブ・マジックでチアソンのまだ存在しないはずのジーニー🧞‍♂️みたいなキャラが現れて、

その後チアソンはディズニー入りする。

同年クイーンはラスト・ライブを行い、

1988年にフレディがオペラ・アルバムのバルセロナ(1992年の予定のオリンピックのテーマ曲)を完成させて、ディーバのモンセラートとはその年にもスペインで曲を歌う。

この時も声が出ないトラブルがあったようだが、フレディがその後、公に歌うことはほとんどなかった(ミュージカル・タイム出演が最後らしい)。

アルバム13作目、ザ・ミラクルを作ることになり、

スタジオ・レコーディングのみだが、1989年のリリースでファンは大喜び。

熱狂のライブ・エイドからまだ4年くらいしか経ってない。

ビデオではミラクルという曲でライブを再現した。


ここで、一度、風が吹く。


音楽業界の主流は、レコード・ディスクから、コンパクト・ディスク(CD)に変わっていく。


そのおかげで、クイーンの曲は全てフリーになり、

長年、アメリカはエレクトラ(キャピトル?)というレコード会社からクイーンのアルバムを発売してたが、

弁護士のジム・ビーチ氏(映画ボラプにも出演)は、エレクトラとの契約を破棄した。


ディズニー参加のハリウッド・レコードの弁護士、マイケル・パテルノ氏はクイーンのファンで、

この話をジムから聞き、動き出した。


アメリカでは1982年以降、ツアーをしてないせいか、人気が落ち、この10年くらいオワコンだった。ライブ・エイドもアメリカバージョンのみが話題だったのかも。マイケル・ジャクソンとか。

カインド・オブ・マジックなどの優れたアルバムをいまだに出し続けるクイーンにパテルノは賭けた。


契約しようとすると、

親会社ディズニーのCEO、マイケル・アイズナー(前述の強烈キャラ)につかまる。

アイズナーはフレディが死にかけてるという噂を聞き、不安になったという。

ジムに聞いてもとぼける。


パテルノは、こんな衝撃的なことを言い、説得した。


彼が死んだとしても、売り上げは上がる。


こんなうすら暗い取引の末、

ハリウッド・レコードは10億円でクイーンと契約した。

ビジネスの世界は利益優先が大原則。大人の事情で、確かにその通りになった。フレディもきっと徹底的に客観視出来た人だと思う。


パテルノは大仕事のご褒美で、スイスのモントルーのフレディに半日だけ会わせてもらった。

痩せていたが、感じがよく、色々とスタジオなど見せてもらったという。


ハリウッド・レコード(以下ハリレコ)にジム氏がしたのは理由があったかもしれない。

ハリレコにしてから、今までのアルバムのCD化したものの他に、新しい(そして最後の)アルバム14作目イニュエンドはここから出される。


その収録シングルのMVでは痩せたフレディに代わり、

アニメ化したメンバーが現れる。

タイトル曲イニュエンドだ。


曲はオープニング・トラックでもあり、非常にダークでヘビーな感じの曲だ。

アートスクール時代のフレディの学友のジェリー・ヒバート氏がアニメ化に関わるが、彼はフレディの変貌に驚くが、関係者はシラを切る。

多忙になったラインハルト(レーノルド)マックに代わり、新アルバムをプロデュースしたデイブ・リチャーズ氏もフレディが元気いっぱいなので病気に気づかなかったという。


このアニメ化のため、ディズニー傘下のハリレコにレコード会社を変えたのかもしれなかった。


ここで、アイズナー(ディズニーサイド)とクイーンは繋がった。


ディズニーサイド3

1990年にクイーンがスイスなどでイニュエンドを作ってる間、

米ハリウッドでは、ハワード・アッシュマンがリトマ(リトル・マーメイド)の自作、「美女と野獣」の製作を進めていた。アラジンも合間にやってたかもしれない。


アッシュマンは死期が近づき、体調が悪くなってくると、ニューヨーク(ハリウッドの反対側)の自宅近くでリモートで仕事をした。

エイズを隠していたので(偏見を恐れた)、関係者はワガママだと怒った。

リトマのアカデミー賞授賞式のあとでビジネスパートナーのアラン・メンケン氏にだけ打ち明けたが、

1991年の美女と野獣の映画公開時はもう姿がなかった。

最後の仕事は、「愛の芽生え(something there)」と言われる。ベッドの中で仕事してたらしい。

リモートなんて当時はWindows95も出てないし、メンケンが一役買ったのか?


クイーンサイド4

同じ頃、1991年初のリリース以降、新しいアルバム・イニュエンドからのMVビデオを次々と発表するクイーンだが、

アニメ化ビデオの他、

モノトーンに、シザーハンズのティム・バートン監督のジョニー・デップにインスパイアされたという(諸説あり)カツラに厚化粧のフレディや、

楽曲「輝ける日々」の痩せたフレディ(最後のビデオ出演)に

世間はエイズや病気の噂をもう疑いようもなくなってくる(前作ミラクルくらいから)。

ハイエナのようなら記者たちからは死ぬまで追われ続けられる。


そして、グレーテスト・ヒッツ2や、初期作品をリリースしたり、

極め付けの「ショー、マスト・ゴー、オン」のビデオが今までのビデオの総集編だったことなどから、

いよいよ怪しくなる。


11/23、フレディはジム・ビーチ氏と取り決め、

エイズ感染を公表。


世界は驚き、

フレディは悲しみ、

翌日息を引き取る。

ジム・ハットン氏や友人達にtake care ofされながら。


それはある種幸せかもしれない。

とても晴れやかな表情だったという。子供のような。


最後までメアリーさんも会い続け、友達でい続けた。

バンド・メンバーやスタッフは彼を守り通した。

全てを明かされなかったが、家族は最後まで高潔で、彼の味方だった。


死後すぐに、取り決めがあったのか、シングル・ボラプがロンドンのみで再発され、

世界で初めて二度シングル1位を取るという快挙を達成。


死後の世界2:ティム・ライス氏

アメリカでは、

1992年、映画ウェインズ・ワールドのボラプ・シーンで、

パテルノ氏の予言が的中し、

三週間で元を取るほど、クイーンが再注目された。

監督?兼主演のマイク・マイヤーズは映画オースティン・パワーズのシリーズでも知られ、

映画ボラプにもボラプのシングル・リリースを反対するEMI社長役で登場した。架空の人物で、ビラン(悪役)に相当する。歴史を知ってると爆笑ポイント。


そして、

ディズニーサイドでは、「アラジン」の製作が本格的にスタートしたのか、

作詞家はティム・ライス氏に引き継がれる。

主題歌「ホール・ニュー・ワールド」などがティム氏だが、アッシュマンも関わっていたらしい。

ティム氏は前述したが、

フレディのオペラ・アルバム(1988)で二曲作詞している。

ミュージカル界の巨匠だ。

ここからディズニー入りするのか、のちにディズニー・レジェンドの一人ともなる。


追記、次回はこちら









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