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クイーン×ディズニー考察10/12〜女王の戴冠式〜

プリンセスから女王へ。

魔法と御伽(おとぎ)の国の世界へようこそ。

ちょっぴりダークで、メルヘンで、ちょっぴりオリエンタル(東洋趣味)で、ミュージカル。

そんなファンタジーに飛び込みませんか?


前回からのあらすじ

D(ディズニー)サイド:1984年から新ディズニー体制になる。

QUEENサイドでは、1986年に12作目のアルバム「カインド・オブ・マジック」をリリースさせる。

以下に前回記事をリンクします。


ディズニー・サイド

1986年あたりから、リトマ(リトル・マーメイド)と、アラジンの制作をするのではないかと疑った。

1987年くらいに、ジョンマスカーとロン・クレメンツの監督ペア(アラジンのペア)の「オリビアちゃんの冒険」はちょっとヒットして、1988年は提携の、実写コラボののタッチストーン・ピクチャーの「ロジャー・ラビット」もリリースされる。

ロジャー・ラビットでは、Dランドにもある「トゥーン・タウン」(カートゥーンのことか?漫画)を初登場させ、色んなキャラがコラボする。ベティーちゃんやトムとジェリー、バックスバニーなど、MGMやパラマウントなど映画製作会社を超えたコラボだ。スピルバーグと、若手のロバート・ゼメキス監督。


そして、1989年にリトマは公開され、ハワード・アッシュマンの製作指揮と作詞によるミュージカル形式の心情主義が光り、映画は絶賛される。もちろん、アラン・メンケンの作曲の伝説も始まる。

これがディズニー・ルネッサンス(第二黄金期)だ。


クイーン・サイド

前述のロジャー・ラビットの時点で、あるアニメーターがディズニー入りをしていて、それが、ロジャー・チアソンである。

1986年にラッセル・マルケイ監督の映画「ハイランダー」の特殊映像技術を担当した彼は、クイーンにかかわりがある。

同映画のサントラを担当したクイーンが、その曲を使って作ったアルバム「カインド・オブ・マジック」で録ったMV(ミュージック・ビデオ)は監督がとっている。マルケイ監督はもともとロッド・スチュアートやエルトン・ジョンなどフレディの友達や色々なアーティストのMVなどを撮るのが専門だ。

クイーン・メンバーはアルバムのジャケット・スリーブにおいて、チアソンのデザインしたキャラクターと化していて、

青い肌を持つアラジンのランプの精霊「ジーニー」の原型がここで生まれたと推測した(本当かどうかは調べてもわからない)。


ディズニー・サイド2

1989年、リトマが絶賛され、ディズニーは復活した。

翌年の「続・ビアンカの大冒険」も続編ながら異例のヒット。監督ペアは同じ。

その間にハワード・アッシュマンと、アラン・メンケンの作曲ペアで、違う監督で作ったのが「美女と野獣」である。

1991年のその公開時、アッシュマンはあの病でなくなっている。

HIVウイルス感染によるAIDS発症の合併症だ。


旧ディズニーのレジェンド作曲家フランク・チャーチルと同じ41歳という若さで亡くなる。(チャーチルは自死)


つまり、これらの作品(リトマと美女)には魂がこもっているということだ。


死を意識しながら、休暇を取ることなんてせずにアニメ制作の仕事を死ぬまで続けた。

女性たち(プリンセス)が歌う歌、その歌詞、歌わせ方、ビラン(悪役)たちや弱き者たちの歌の中に魂がこもっているのだ。確実に。


ウォルト・ディズニーの理念に重なるかもしれない。


なぜシンデレラにこだわるのか、アリスに、女性たちに。

1986年頃から作成される、宮崎駿(みやざき・はやお)さんのジブリ作品も女性主人公(ナウシカ、ラピュタ、キキ、クラリスに雫など)が多いし、手塚治虫(てづか・おさむ)さんのサファイア姫(リボンの騎士)なども。

池田理代子さんのベルサイユのばら(アントワネットにオスカル)。

セーラームーン、魔法少女もの、おジャ魔女どれみ、プリキュア系にも続く、

女性主人公系に連なっていく。


ビジネス的には、女性に目をつけるのは正解だ。

近年は、女性や口コミにターゲットを絞ることで売れる。


しかし、それだけではないと思う。

ダンボのような、象の赤ちゃんは、性別は特に感じないが、

お母さんと引き離される悲しみや愛情などをしっかり描き、胸が締め付けられる。

スピルバーグにも影響を与える。


このような、弱いものへの視点というか、悲しみや報われない思いなどに視点を当てて作っていることがわかる。


ウォルト自体の生い立ちなども関係すると思う。

アイルランド系のルーツを持ち、父はカナダからアメリカに移り住み、確か貧しく、ウォルトやロイ兄弟に厳しくあたったとか。

アメリカは、イギリスを中心にヨーロッパからの移民がルーツの人ばかりだとは思うが、20世紀初頭だとどうなんだろう。国による偏見もあるそうだ。


きっと根無草のように感じていたのかもしれない。何となく(マジョリティのイギリス移民系から)馬鹿にされていたかもしれない。


弱いものの目線、闘い、鼓舞のようなものを感じる。


ウォルトの理念は受け継がれたようだ。

このように、アッシュマンは、「リトマ」と「美女と野獣」に魂を込めた。


そして、リトマと一緒に作られた、アラジン(1992年公開)にも。


クイーンサイド2

1986年にQueenは、ハイランダーのサントラのアレンジを加えた12作目のアルバム「カインド・オブ・マジック」をリリースしたのち、

同年にマジック・ツアーというライブをヨーロッパのみで行う。

まさかこれがクイーン最後のライブになるとは誰も思わなかったようだ。

前年85年の7/13のライブ・エイドで復活し、翌年の7/12に同じくウェンブリー・スタジアムでライブを開催した。映像化されてる。

その翌月でライブは終わりとなる。


このライブ・ツアー中は、鉄のカーテン時代の東欧地域でもライブを行い話題となる。

また、フレディは、スペインのバルセロナではTVで地元出身のオペラ・ディーバのモンセラート・カバリェ(以下、モンツィ)にラブ・コールを送る。


ツアーが終わると1年のお休みをもらったフレディはソロアルバム2弾を作ろうとする。

しかし、モンツィからまさかの連絡が

彼女はバロセロナ・オリンピックの曲をつくりたいとおもっていた。

アルバムも作ろうと言われ、椅子から転がり落ちそうになるフレディ。


自分のソロ・アルバムを捨て、オペラ・アルバムを作ることに。


彼はまだ40歳だったが、もう老い先は長くないと感じていたころだろう。

ライブ・エイド直前に出会ったジムさんを私的にオフィシャルな伴侶とし、残り少ない人生をひっそり過ごそうとしていたのではないか。


1987年の4月(40歳)にあのウイルスの陽性が判明したと言われる。

かかってしまったら、あとはあの病が発症するのを待つばかり。

画期的な治療法の発見か、病の進行が先かの戦いに入る。


ミュージカル「タイム」で知り合ったマイク・モランと、作詞家のティム・ライス(前述)さんなどと協力してアルバム用に10曲ほど作ることに。


そして1988年にアルバムは完成し、タイトル曲「バルセロナ」は特にスペインでヒット。


アルバム自体は当時かなり話題となる。何のバック・グラウンドも持たない者が、オペラやクラシックに挑戦したのだから。


そしてその後はスタジオに戻り、クイーンのメンバーと13作目のアルバム「ザ・ミラクル」の作成に入る。


この時点で、最後のアルバムになることを意識していたはず。

13は縁起も悪い。(逆に美味しいかも、イギリス人は魔女が大好き)

この時、メンバーにも何となく感染か発症を伝えたという。

メンバーはとっくに異変に気づいていたし、あれだろうとわかっていたが、本人が言葉に出したのは初めてだったという。(映画「ボラプ」の嘘として有名。しかし脚本として評価されている)


1991年まで、生きるための戦いだった。


これは、新ディズニーのハワード・アッシュマンと同じ状況だ。


死後

1991年に、DサイドとQサイドにおいて、2人のレジェンドは亡くなる。

3月14日と11月24日。


同じく、同じ頃、数多くのアーティスト(画家とか俳優とか)達も次々と若くして亡くなる。

キース・へリングや、ボウイの庇護を受けたロック・オペラの成立者クラウス・ノミはとっくに。バスケのレジェンドの一人、マジックやバレエのルドルフ・ヌレエフなど。

エイズ(因みに同性愛者とは限らない、日本のように血液製剤の被害者や輸血によるので子供なども被害にあった)でなくとも、この1990年代前後に亡くなるアーティストは多く、

アンディ・ウォーホルやバスキア、サルバドール・ダリなどの巨人たち。

21世紀を待たずして、多くの巨匠たちが若くして、または21世紀を代表して亡くなっていった。


そして、イギリスにおいて、ある発表がなされる。


ギネスによる、「21世紀にイギリスにてヒットしたシングル」の発表だ。

この100年を代表する曲を、音楽の国、イギリス国内で選んだ。


2002年に発表され、

第一位に輝いたのは、


元ビートルズのジョン・レノン(1940-1980)の

「イマジン」(1971年、小野洋子さんと共作)という

反戦歌を押さえて、


ボヘミアン・ラプソディ(フレディ・マーキュリー作詞作曲名義、1975年)

だった。









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