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青の歴史ー多くの民族によって創られた青色の文化

世界各地にさまざまな青色を染める植物があって、遥か遠い昔から人類に利用されてきました。
地球上のそれぞれの地域で、青の歴史は創られてきました。
染料の化学、染織技術、交易活動、イデオロギーの表現、美学的追求など2000年以上にも渡って多くの民族が独自の文化を創り出しました。
15世紀後期インド洋航路が発見されてから、ヨーロッパの列強国によってそれまでの多文化が大きく壊滅されていきます。

ヨーロッパにおける藍をめぐる各国の係争を知ったとき、日本ではなぜ阿波(徳島県)だけが長い間独占し続けられたのか、とても疑問に思いました。「青い金」といわれた藍の産出国ドイツ、フランスはインド藍が大量に輸入されるまで莫大な富を築いています。文献資料「兵庫北関入舩納帳」によって、文安2年(1445)正月から文安3年正月までの関銭徴収台帳のなかに、阿波から最大消費地京都へ藍を輸出していた記載が残されています。多くの人は阿波一国が、藍栽培と青色染料貿易を明治時代までおよそ500年独占してきたことを知りません。

ヨーロッパでははやくも中世末期、13~16世紀にはイタリアの商人たちによって、タイセイ(ウォード:大青)より10倍も強力で価格も3、40倍高いインド藍を輸入します。藍生産地の王国や都市当局は長い間抵抗しますが、容易なことではなく17世紀中葉にはタイセイは衰退し、消滅します。

⚫︎日本の藍と明治 −インド藍
幕末から明治にかけてインド藍が横浜港に輸入され始め、やがて日本国内の藍の産地は低迷し始めます。

日本の藍は江戸時代の鎖国により守られたとも考えられますが、阿波藍の品質の良さと着物を美術品と同じように捉える美意識の高かさにも守られました。それも貴族や皇族など支配層によってだけではなく、庶民の思いがそうさせたのです。全国展開していた阿波藍は西日本の着物産地にシフトすることで大正時代までは残ります。その後のインド藍よりも強力な合成藍、硫化染料の出現は、多くの紺屋で安価で利便性もよく、生産性が高いことで使用されほぼ衰退することになります。

5外藍成分

(注)印度マドラス(現:チェンナイ)
   印度ジャバ(インドネシア・ジャバ)

鎖国を解いた日本は西洋の技術力に圧倒されます。日本中を掌握していた阿波藍も世界を制覇しているインド藍との競争に危機感はありました。藍寝床で葉藍を醗酵させ蒅に加工する製法ではなく、短縮化された生産工程を持つコストの安いインド精藍法(沈殿法)を精力的に学び取ろうとしました。

明治9年五代友厚は国産の藍がインド藍に圧されるのを危惧し、且つ藍を世界の商品作物にするため政府から50万円の借入を受け、大阪北区堂島浜通りに朝陽館を創設します。蒸気機関を動力とする最新設備を導入し従業員300人で創業を始め、徳島に粗製工場を設けるなどして精藍事業を開始しました。渋沢栄一は明治21年に蜂須賀家、関東買阿波藍商達と小笠原製藍会社を設立します。徳島でも明治20年代には藍商取締会所で小規模な精製研究・実験が始まり、明治33年には徳島県出身の長井長義博士の精藍法を導入し、製藍伝習所が開設されました。しかし近代日本を飛躍させた実業家、五代と渋沢の取組みも実績が上がらず短期間で解散することになります。当時の関係者は蒅の製法とインド藍の製法は根本的に違うこと、その染色技術も全く違うことに対処せず有効な方策が見つけられなかったように思われます。

鎖国によって他国との商品の競合も少なかった日本に、イギリスから紡績糸と綿織物が輸入されました。慶応元年(1865)の輸入品の79.6%が毛・綿織物と綿糸であり、輸出品の84.3%が生糸、蚕卵紙であるように国産より安価な大量の綿が全国に広まります。

安価な綿紡績糸と綿織物の利用が増え、全国の棉栽培地では輸入綿を染めるために需要が高まった藍栽培への転換が始ります。明治31年農商務省吉川祐輝技官によって『阿波国藍作法』の報告が出ることで、藍の栽培法や肥料などの技術面,江戸時代から秘伝とされていた染料(蒅)の加工技術が科学的な成分変化の精細な数字とグラフとで、醗酵に要する日数と発色の変化が明らかにされました。維新になって大分、愛知、福井、山梨、北海道などの要請により個別には藍の技術指導は行われていましたが、これを機に多くの書物で藍作りの技術が紹介されることになります。

文明開化といわれる状況下での藍の価格の比較です。

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(注)他国藍=地藍=徳島県以外の県で作られた藍

明治10年代の出版物は西洋の染色技術と従来の染色技術がごちゃごちゃに紹介されています。驚くほど危険な物質も急速に使われ始め、その中にインド藍=靛藍(てんらん)としての染色法は、従来の醗酵による還元法とは違い硫酸で溶かす方法が紹介されています。新しい化学染料、紺粉(ソルブルブルー)や大量の布の染色に多くの紺屋が技術の転換を余儀無くされ、驚くほどの早さで適応していきます。

国内の紡績業や綿織物の発展により布帛の需要はますます拡大し、染料は足りない状況でしたので阿波藍もインド藍との競合のうちに、明治33年に合成藍が輸入され始めます。その後大きな近代化・工業化の流れのなか、世界のシステムは有機化学工業が主流となり、インド藍とともに日本の藍も消えていきました。

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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/
2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。

阿波藍のはなし購入方法


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