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罪と罰 ②

今日もお立ち寄りくださりありがとうございます。

実家の墓が荒らされたことで感じたことごとのお話。
前回からの続きです。

お時間よろしければお付き合いくださいませ。

時代

さて、父が口にした「ツミツクリ」(罪作り)という言葉。

その言葉から、子供の時分に見聞きした、
当時の年寄衆の考え方を突然思い出しました。


(あぁ、これ昔の人の考え方だ…)

(そういえばよく年寄がそんな話してたわ…)


ときは昭和40〜50年代。

バブル景気よりも前の話。
地方の田舎では今より生活の苦しい人が多かった頃。

あちらこちらに、
そしてなにより人の心の中に
今よりも戦争の爪痕がまだ残っていた、時代。

小さな町の片隅で様々な背景を背負って
孤独に生きる若い人や
シビアな環境から出られない子供達がいた、
そんな時代。

感覚的なものなので、実際のところ今と比べてどうなのかはわかりません。

ごく狭い、幼かった私の記憶と経験の中だけでの印象です。

当時はそんな方々を陰でそっと見守り、
なにか困っていそうだな…、となったら
本人には分からないようにこっそり手を差しのべる、
そんな、ちょっとサンタクロースみたいな粋な大人たちがいました。

どこそこの誰それはこの頃見かけんけど、どうしてるんかいなぁ…

あの飲んだくれはちっとは働くようになったんかいな?

〇〇は呑んでまた手ぇ上げたりしとらんか?

どこそこの若い衆はまま食べれとるかいのぉ…

よく、こうした類の会話が交わされていました。

どこの誰か、なにをしている人か。
誰もがお互いの身上を知る田舎ならでは。

困窮ぶりの極まった人。
とりわけそんな中でも孤立無援だったり、
身近な大人からは分別を教わる機会のなかった若い人。

手に職をつけ、食べていけるように。

犯さなくていい罪を犯さないように。

そんな考え方が、人の心にごく自然にあった時代なのだろうと思います。

賽銭泥棒

ところで、昨年から今年にかけてのこと。

賽銭泥棒に関するニュースを続けざまに見聞きして、
いつもスッキリしないことが私にはありました。

ニュースはたとえばこんなこと。


お賽銭を盗んだ容疑で逮捕しました!とか。

賽銭箱からお賽銭が盗まれるので防犯カメラを設置しました!とか。

お賽銭が盗まれたので被害届を出しました!とか。


小銭がほとんどのお賽銭。

小さなお社や道端のお地蔵さんなどにあるのは
賽銭箱といっても簡素なつくりで、
手を伸ばせば中の小銭が取れてしまうようなもの。

とられてもやむなしというか、以前は
賽銭箱さえ無いようなところも多かったのです。

なんらかの事情で食べるに事欠くような方や
行き倒れてしまいそうな歩き遍路さんが
通りすがりにもし取ったとしても誰も咎めない、
言わばお接待感覚のお賽銭やお供え物。

取った・取られた、というのはそぐわない感じ。

狛犬さんが盗まれたりもするこの頃ですし
防犯カメラを付けるのはしょうがないのかもしれません。

でも、神社仏閣など、人の心のよりどころで
「お金」が原因で結果的にはツミツクリになっちゃって…

なんだかうーん…と、つい思ってしまうのでした。

法と律

2010年代後半からの数年間。

次から次へと身近なところで降って湧いた、いくつかの訴訟問題。
原告側の事務的なお手伝いとして関わらせていただきました。

裁判の傍聴という経験もこのときが初めてだったほど、
法律的な知識も経験もほぼない中での、まさかの坂でした。

この一連の訴訟に関する経験を通して、私には
骨身に染みてわかったことが一つあります。


それは、

法は決して我が身を守ってはくれないのだ

ということ。


このときほど痛切に感じたことはありませんでした。


被害に遭ってもなんら補償がされるわけでなく。

相手方から提示されるのは僅かばかりの金銭。

それさえも裁判員の心象を良くするための方便であったり
ひいては、刑事罰を軽くするための工作であったり。

裁判の傍聴後、加害者側の弁護士や支援者と
うっかり同じエレベーターに乗り合わせてしまい、
そこで思いがけず耳にした、黒い本音。

下された判決や提案された調停案というものはどれも、
一般的な常識からは到底納得しかねるようなものでした。

被害を受けた側がさらにこうして司法の場で感じるストレス。


裁判って、いったいなんなんだろう…

誰のための、なんのための裁きなのか…

法律は、いったいなんのためにあるのだろう…

誰のための法?

なんのための律(罰)?

こちらにはなんの落ち度もないのに、なぜ?

与えられる罰の基準って、なに…

罰の意味って、なに?


当事者でなくとも、このときの疲労感、徒労感は実に半端なかったです。


墓荒らしが発覚してからというもの、
かつての訴訟時に感じたことが思い出されていました。

被害届は出したけれど、犯人は捕まらないでしょう。
もう、そこに期待はしていません。

壊した本人がその罪を自覚していなくとも、
やった本人の心の深いところには、
自身のしたことがすべて刻み込まれているはずです。

誰かが罰を下さなくとも、したことはいつか当の本人に返ってくる。

そう思わないといられない、気味の悪さ。

そう思ってもやりきれない、やるせなさ。


仮定の話で恐縮ですが。

もし犯人が捕まったとしても、
無人の墓地の灯籠を壊したくらいでは、
訴訟にかかる費用や労力、ストレスには
到底見合わない罰になるでしょう。

執行猶予がつくかもしれないし、
罰金刑としてもお金のない人だったらどうしようもありません。

刑務所に入ったところで、3食栄養バランスの取れた食事が提供され
その人のための「更生」プログラムが組まれる。

結局は、昔と同じ。

手に職をつけ、食べていけるように。

犯さなくていい罪を犯さないように。

ここへ向かうのだと思いました。

天使祝詞

カトリック校だった高校では、
5月の聖母月に決まって捧げる祈りがありました。

今は現代口語訳に変わっていて

「アヴェ・マリアの祈り」

になっていますが、当時は文語調の

「天使祝詞」

と言いました。

その中で、ずーっと心に引っかかっていた一文があります。

天主の御母、聖マリア

罪人ツミビトなる我ら
のために

今も臨終のときも祈り給え

(え、なんでツミビトなん?)

(なんも悪いことしてないケド…)


高校生といえどワタクシ大変幼稚であったので、
考えていたのはたぶんそんなところだろうと思います。

キリスト教圏の国々では、この

「罪の意識」

というのはよく取り上げられるようで、
フラワーエッセンスにも対応しているものがあります。

あまりなじみがない考え方なので、
私にはピンとこないものでした。

西欧諸国の方々に
日本的な「恥」の概念がわかりにくいのと
ちょっと似ているのかもしれません。


ちょうど『満月の癒し』記事を作っていた頃。

コダヌキたちに教えられ、ようやく、自分もこの

「ツミビトなる我ら」

に違いない、ということが腑に落ちたのでした。

わかるまで、苦節(してないけど)30年。

相変わらず、鈍い(笑)

罪と罰

夜、山道を車で走れば、
フロントガラスには多くの虫が叩きつけられます。

お腹が空けば、
動物・植物・海の仲間にキノコまで
ありとあらゆる別の生命の恵みをいただきます。

イラッとすれば、
口から黒い言葉が飛び出すことだってある。

草むらを散歩すれば、
私が踏み出す一歩に潰された生命があったかもしれない。


生きている限り、私たちは誰もがこうして
毎日毎日、罪を重ねている。


(罪に大小などあるのだろうか)


食べるに事欠いてお賽銭を盗んだ人と、
お賽銭は盗まなかったけれど石灯籠を破壊した人。

罪をおかしても平気な人と、
自分は罪をおかしていないのに、身内の罪を気に病む人。

白い粉で即、死刑宣告される国と、同じ粉でも執行猶予がつく国と。

緑の葉っぱが罪に問われる国と、医薬品として歓迎される国。


(そもそも、罪って、なに?)


法があるから罪が生じるんじゃ?

法がなければ、罪も、無い??

法が先か、罪が先か?

法に「虫をコロシテハイケマセン」って書いてないけど…

書いてないからコロシテモ、それは罪にはならない?

「人をコロシテハイケマセン」

…虫ならいいの?罪じゃないの?


(罰はなんのため?)


何度怒られてもなんとも思っていない人と、
怒っても怒っても改善が見られなくて落胆する人。

罰を与えられてもヘラヘラ笑っている人と、
罰を与えても溜飲が下がらない人。

3食屋根付き布団付きで、
罰が罰になっていない人。


(そもそも、罰って、なに?)


罰が設定されていても、
法を守らない人は守らない。

たとえ罰を受けたとしても、平気の平左。

罰が設定されていなくても、
法を守る人は、守る。

真面目に法を守ったからといって、
法が自分を守ってはくれない。


(あぁ、考えれば考えるほどワケワカランヨ…)


同じことをしても国によって罰があったりなかったり。

同じことをしてもその背景や、時代によっては赦されたり。

同じ罰を受けても喜ぶ人がいて罰になってないような?

ルールが変われば罪も罪じゃなくなって…

規範ってなに?

基準は、どこ?

こんなマボロシみたいな世の中で、
真面目に罪をおかさないようにと暮らす私たち。

あなたや私が考えている「罪」は、
ほんとうに「罪」なのでしょうか。

愛と平和

最近、私の周りでは、あっちこっちで
「愛と平和」という言葉が踊りました。

その言葉を発した人たちは
現実の友人だったり、noteの人だったり。


当然、それぞれお互いのことは知りません。

なのに揃いも揃って集中的に
「愛と平和」って…と不思議でした。


で、あぁ、もしかしたら…と思いました。

「罪と罰」と「愛と平和」って
裏と表、闇と光なのかもしれない、と。

「罪と罰」の世界に「愛と平和」はなく、
「愛と平和」の世界に「罪と罰」は入り込めない。


人生の歩き方に、正解はありません。

『地球の歩き方』っていう
海外旅行のガイド本がありますが、それと同じ。

人生という旅において、私たちは
なにを見たいか、なにを経験したいか。

なにをしたって自由!

どこをほっつき歩いても自由!

好きに選べるのだと思います。



「罪と罰」の世界が見たいのか、

それとも

「愛と平和」の世界が見たいのか。



今回、実家の墓が荒らされなければ気がつかなかったことでした。

人んちの墓に入りこんで灯籠を壊し、それで
その人がスッキリしたかどうかはわかりません。

もしかしたら私になにか気づかせるため
壊しにきたのかもしれない。(ソンナワケナイトオモウケド)

当事者ではないから
こんなノホホンとしているけれど、
実は当事者の両親も、
当初はストレスになっていたものの
直さないと決めてからは

「これでよかった」

「壊れたもんはしょうがない」

と、今ではすっかり忘れています。

調べてもわからない、
そんなことに気を取られるよりも
残された短い人生の旅路を楽しむ時間の方が、
ずっと、大事。

人生に起こるできごと、特にまさかの坂には
ありがたくないものも多いのですが、
こうしてなにごとにも学びや気づきの種があるものだなと
あらためておもしろく感じました。

おしまいに

法は守ってはくれない、と申しました。

ならば犯罪などの被害には遭わないのが一番です。


見たい世界を選べるって言われても…

もし実際に犯罪に巻き込まれたらこわい…

と、不安に思われる方もあるかと思います。

生身の人間ですから、当然です。


でも、未来のことはわかりません。

だからわからないことは心配しなくていいんです。

そして、一つ、怖いめに遭わないコツがあります。

「自分はこの平和で安全な世界で暮らしている」

当然のように、疑いもなく思っていること。


そんな想像力ないわ…という方は、
声に出して唱えればいいと思います。

脳や魂がちゃんとそれを聴いて、
あぁ、そうか、よっしゃ!任せとけ!と
その世界を創ってくれますから大丈夫です。


たとえば。

鏡を見て「痩せたいなぁ」と思うとき。

そこに厳然として在るのは

「痩せていない自分」です。

だから、その逆をつけばよいのです。


私たちは、気がついていないだけで、
実はいつも安全安心な
愛と平和の世界の中で既に暮らしている。

それは目には見えないけれど、
ほんとうのことは、いつも目には見えないもの。

この世はマボロシ、自由自在。

だから、どうか。

今日も明日もゴキゲンさんで、と祈ります。

最後までのお付き合い、ありがとうございました。

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#かげひなた #裁判沙汰 #泣き寝いり #墓荒らし

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