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遠く離れて(4)

こんにちは。
ご訪問ありがとうございます。

これは私自身を癒すためのアウトプットです。
ただ、昨日の夜になって、急にフッと
心身が軽くなっていることに気がつきました。

よろしければどうぞご覧くださいませ。

ひとつ前の記事はこちらです。

|温もり

夜間に急遽、診てくださった動物病院で
死亡をきちんと確認していただいたことで、
もう完全に無理だと諦めがついたことから
ホッとした面もありました。

その身が温かいまま、柔らかいまま
一刻も早く帰りたいと焦っていた私。
スタッフさんがしてくださろうとしていた
死後の処置も、不要ですとお断りをしました。

最近の動物病院では人間の臨終のときと同じく
そうしたことまでしてくださるのだなと
驚くとともに、このことはとても印象的でした。

動物と人間は「飼う/飼われる」関係から
「共に暮らす」間柄へと、いつのまにか
関係性が変化していたのだなと思ったからです。


ようやくこの手に猫を再び抱かせてもらうと、
まだ温かくて安堵しました。こんなに温かい、
生きて寝ているときとなにも変わらないのに…と
ずいぶん急なことで悲しくもありました。

同時に、自然な状態とは異質な
消毒用アルコールのツンとくる匂いがした途端、
動物病院に行く選択が結果的にどうだったのか?
動物病院にとっても、猫にとっても、
実はしてはならない選択だったのではないかとも
感じました。

それでも子供の心情や今後のことを思うと
この選択しか取り得なかった。
たとえ自己満足と言われようと私の責任において
病院へ運ぶ選択をしたことは最善であった、
そうも思いました。

そう思い込みたかったのかもしれません。

結局は、なにをするにしても
「結果に対しては自らが責任を負う」
つまり自分の世界は自分が創っていると知り、
受け容れることでしか人は救われないのかも、
自分の気持ちとよくよく向き合って
折り合いをつけていくしかないのかも…
と、考えるともなく考えたりしていました。


動物病院を出るときでさえ
先生やスタッフ皆様が気遣って
見送ってくださいました。

夜間の診療時間外にも関わらず
こんなにもよくしてくださったという感謝から
自然と深く頭が下がります。
温かい気持ちのまま、静かに帰途につきました。

家を出て動物病院探しから診察終了まで
ものすごく長時間を外で過ごしていたと
感じていたけれど実際はそんなでもなく、
まだ夜の10時にもなっていなかった気がします。

|落涙

帰宅して、まだなお温かい猫のなきがらを
すぐに子供の腕に預けて、私は棺になりそうな
箱を探しました。

帰ってこないでとメッセージが来ていたので
もっと責められるかと覚悟しての帰宅でしたが、
猫の姿を見るや静かに受け入れたようでした。

この両者の絆を思うとなんともつらくて、
どうにも子供の顔を見ていられませんでした。

子供の方がつらいのに、直視できないなんて
相変わらず母親失格よな…、とか
人様に言うのは簡単なんやけどな…とか
そんなことがとりとめもなく浮かんできます。

ついさっきまではこんなことになるなんて
想像すらできなかったのに。

いつもと同じようにご飯を食べ、鳴き、
遊び、のんびり寛いでいたのに。

もう少ししたらオカーチャンの腕枕で寝て、
朝が来て、おやつを食べて、遊んで…と、
いつもと変わらぬ一日を過ごすのだとばかり、
いや、そんなことすら思わないほど当たり前に
明日がくると家族の誰もが思っていたのに。


しっかりと大事そうに猫の体を抱きかかえたまま
静かに涙をこぼす子供。

かける言葉もありませんでした。

ただ「ごめんな…」としか言えず、
自分でもなんで謝ってるんやろと思ったけれど、
やっぱりこのときの私の心情は
“ありがとう”ではなく、“ごめん”の方でした。

|時機

ちょうどこの日はある荷物が届いたばかりで、
適当な大きさの段ボール箱が家にありました。

まさかここまで計算して
逝ったのだとしたらすごい流れだなと
ふと思い、また込み上げるものがありました。

あぁ、そういえば…。

発見されたときもベッドは汚さず、
動物病院への往復もタオルを少し濡らしただけ。

なにひとつ私たちに手間をかけさせず、
見事なまでに美しい旅立ち。

なおかつ隙のない完璧なタイミングでもって
あちらの世界に還ったのだと思いました。


思い返せば夕飯の支度中
鳴いて鳴いて子供に何度も何度も構わせたのも。

そうして私に抱き上げさせたのも。

夫が帰ってくる日だったことも。

その後は珍しく夫が連休の週だったことも。

物言いたげに私をジッと見つめていたのも。

夫が稲穂を持ち帰ったのも。

かわいく稲穂にじゃれてみて、人間に
写真や動画を撮らせていたことも。

少し前にトイレをちゃんと済ませていたことも。

この冬は例年になく、足元ではなく
ずっと私の顔にくっついて寝ていたことも。

しばらく前、歩きかねるほどのぎっくり腰が
かつて無いほど長い期間続き、そのおかげで
一日中猫とゴロゴロする日が続いていたことも。

一年近く前からほとんど帰ってこなかった娘が
この少し前に突然、近くまで来たからと
猫を愛でに寄っていたことも。

最近しきりとよく鳴くようになっていたことも。

予定していた旅行を蔓延防止措置のために
無期限延期していたことも。

とりあえず細々した用事や買い物を
その日の昼までに全部済ませていたことも。

誰も見ていないとき、ところ、だったことも。

諦め悪く私がジタバタして後悔せぬよう
動物病院が閉まっている時間帯だったことも。

私が人に頼りきって依存せぬよう
この猫と通じている方には
連絡がとれない日・時間帯だったことも。

最後に居たのが私ではなく子供でもなく
夫の膝だったことも。

すべてが予め用意されていたかのごとく
見事なまでに完璧な出立だったなと、
何度思い返しても感心します。

大往生というのはこういうことを指すのかも。
若くても、たぶんこれこそ猫の大往生。

棺となる段ボール箱にはビニール袋を敷き
ありったけの保冷剤をかき集めてきて入れ、
その上にバスタオルを敷いて猫を寝かせました。

まだ柔らかく温かい、傷ひとつない体。

いつもと違わぬ寝姿のままに丸く安置しました。

まさにそれはただ寝ているだけのようで、
今、魂が帰ればまだ間に合うのではないか、
また息を吹き返すのではないかと思えるほど。

しかし当然ながら呼びかけても反応はなく。

あれだけうるさかった鳴き声も今はなく、
静かに静かにただ横たわるのみ。

目の前にあるのは脱け殻なのだ、蝉と同じ、
脱け殻なのだと幾たび自分に言い聞かせても
後から後からとめどなくあふれては
こぼれ落ちる涙。

|執着

泣きながらこんなことも思っていました。
もしかしたら、こんなことを思ったから
泣けて仕方なかったのかもしれません。


…まだこの世に居てほしかった。

お願いやから戻ってきて?

もう一度、声が聞きたい…。

ちゅ〜る買ったばっかりやのに…。

私からはまだ今日おやつあげてないのに…。

もうちょっとしたら一緒に寝よ思てたのに…。

(なんで?なんで今なん?なんで?)

あとちょっとで花も咲くのに…。

もう暖かくなるはずやのに…。

ベランダでひなたぼっこしたらよかったのに…。

虫も鳥もいっぱい見られる季節がもう来るのに…。

ありがとうも言うてない…。

なんでこんな急なん?なんで?なんでなん…。


執着とエゴの塊だなと思います。
…いいんです。人間だもの。

こんなことごとを思いながら、
ふと頭の中に浮かんだ言葉がありました。

続きます。
今日も読んでくださってありがとうございます。

綴りはじめたときから比べると
なにかがどんどん軽くなり、昨夜は
もうこれ以上書かなくても大丈夫なくらいの勢いでした。

綴りゆくと同時に、悲しみの波動というものが
いかに重いかということにも気がつきました。
水中で力を抜くとフッと浮上する、
そんな感覚にも似て
だんだんと力が抜けてきたのかもしれません。

ただいまワタクシ、心身ともに
絶賛大浄化まつり中でございます。

大波が小波になり、さざ波になり、凪いでゆく。

そんな過程さえも味わいたい、そんなふうに
自然と流れに身を委ねられるようにもなりました。



いつもお越しくださりありがとうございます。
この続きはこちらです。

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