遠く離れて(6)
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|スーパー猫の日
野辺送りをしたあと、子供の深い悲しみに同調してしまった私をさらに苦しめたのは、2022.02.22と2がたくさん並ぶ、今年の“スーパー猫の日”でした。
数日前から各種SNSをはじめスーパーマーケットのポップさえ、ありとあらゆる媒体に猫の画像、動画、お話しが踊りました。愛猫が変わらずに居てくれたら、間違いなく私もこのお祭り騒ぎに進んで乗っていたと思います。
普段ならなんでもない猫の日に、こんなにも心がザワついて落ち着かないのは初めてのことでした。よその元気そうな高齢猫さんを目にするたびに、猫の話題が流れてくるたびに、悲しみは深まるばかり。
いっそすべてのアカウントを閉じてしまおうかと思ったくらいの勢いでしたが、こういう非常時に大事なことを決断してはいけないと思い直し、しばらく情報の渦から離れることでなんとか自分を保っていました。
途中、どうしてもネガティブな感情から切り離せなくなった夜。
ふと東日本大震災の後、桜前線が北上を始めた頃にたしか読売新聞の紙面に載った、山村暮鳥さんの詩を思い出していました。
あのとき、辛く苦しい重すぎる思いを抱え、明日さえどうなるかもわからないなかで過ごされていた被災地の方々とは対照的に、西日本ではほぼいつもと変わらない生活ができていました。
当時、申し訳なさを感じつつ、私を含め西日本の人たちは被災地へ幾らかでも足しになるようにと、精一杯いつも通りの生活をして経済を回そうとしたことがあります。
なんとなく、あのときと同じことかなと思えるようになってからは少し楽になった気がします。みんながみんな暗く沈んでいたのでは停滞するばかり。
いろんな人がいろんな思いを抱えて生きているのが当たり前。
だから悲しんでいる誰かに遠慮することもないし、誰かの喜びに、無理に同調する必要もないという、そんな当たり前のことを、後にちょっと距離を置いて外から眺められるようになりました。
|五感
普段あまりにも当たり前すぎて、失くさないと気がつかないこと、無くなって気がつくものというのは私の場合、意外と多くあります。
猫が居なくなっての数日間。
コトン、と金属製の餌入れが振動し、かすかな音を立てたとき。
いつもの癖で(あ、ごはん足さないと)と思い目をやってもどこにも猫はおらず、もうそんな必要はないのに…とがっかりします。
夕飯の支度をしながら冷蔵庫を開けたとき。
うっかり鰹節の袋に手が当たってアッと思うも、袋の音を聞きつけていち早く駆け寄る猫は既になく、あらためてもうここには居ないのだということを思い知ります。
野菜を刻んでいるとき。
私が台所に立つと、なにか降ってこないかと辛抱強く足元で座って待っていたのを思い出し、いくら足元を見ても気配すらなく、あぁやっぱりもう居ないのだ、などと思います。
フレンチトーストを焼きながら。
バターの香りに誘われて、いつも横から欲しそうに覗きに来ていたなと思い出し、もう二度と来ないのだと思い知ります。
洗濯ものを干すとき。
ベランダに出ないように気をつける必要もないのに、サッシの開閉にいつもと変わらず気をつけている自分に気がつき気持ちが沈みます。
太陽が出れば日向ぼっこさせたかったと思い出し、夜になれば布団で待っていたのに、もう、どこにもいない。
長風呂しても、早く出てきて寝ておくれ、とばかりに騒ぎ立てる声も今は無く、ただただぽっかり穴が空いたような感じ。
床に落ちていた爪磨ぎ後のはがれた爪も、抜け落ちていたヒゲも、静電気のせいなのか、いつまでもいろんなところから降ってくる被毛も、見つけるたびに悲しみを新たにしました。
私は自分がこんなにも五感を使って日々全身で猫を感じ、愛でていたのだとは思いもよらなかったので、外界で起こるなにもかもが猫との思い出に結びついてゆくのが、直後の一週間ほどはとても苦しく感じました。
それでも、いつかは必ず時間が癒していってくれるものです。
|整え方
深い悲しみや重い執着を抱えていると、俗にいう「波動」が「低い」状態になります。それは様々なサインにより自分でも気がついていました。
心が整っていないときというのは精神的に一種の迷子状態・迷走状態。
例えば。
なんでもないことが決められない、なにもしたくない、なにかをしてもうまくいかない、ますますどんよりしての悪循環、食べ物の好みの変化、食事量の変化、普段しない行動をする、妙に活動的になる、普段しないミスをする、過眠や不眠、過食や食欲不振、直感が働かないetc.。
バランスを崩すことで中庸を保てなくなるのだろうと思います。
普段であれば簡単に立て直せるはずのこうしたアンバランスも、なかなかうまくことが運びません。この一ヶ月ちょっと、この大波小波に四苦八苦。
なにをやってもうまくいかず、ヘトヘトでした。
ただ、セッションのお申し込みをくださったり、エッセンスのご注文をいただくのは、こうした中にあっても不思議と波がない日でした。
私の場合、有難いことにいつもこんなふうに天の采配は完璧です。
感情の大きな波にさらわれて自分を見失っているような日は、出れば必ず見かけていたゾロ目の車番も不思議なほど見なくなり、出先のお寺で引いたおみくじもパッとせず、所用で訪れた先ではチャージしたばかりのICOCAを落とし、車に乗れば無理な割り込みなどイラっとすることに見舞われ、誘われるままについていった映画は、私が超苦手とするジャンルのもので…と、見事なまでに噛み合わないことばかりが起こりました。
さすがにくたびれてしまってエネルギーの枯渇を感じた頃、ここはひとつ自然の中でエネルギーチャージを…と期待して向かった山や野原も、どうもしっくりきませんでした。
また別の日には、パワースポット的な山中の景勝地を訪ねようとしたところ、どうにも目的地に辿り着けず。別のルートからも試みましたが、そちらでも行手を阻まれ辿り着けませんでした。そもそもカーナビに載っていないところにいきなり行こうとする判断力からして不適切とも言えますが。
気枯れと表現する方もありますが、まさにそんな感じ。
疲れている、憑かれているというのも、もしかするとこういう状態を言うのかもしれないな、なんて思います。
この期間、似たようなことは数多くありました。
結局、Instagramの写真から感じ取って私の様子を気にかけてくださった方から同じ時期に複数人、ご親切にも
「あの〜、、、山ちゃう…」
というようなアドバイスをいただき、ハッと我に返りました。
(なんで山山ってワタシ山ばっかり行こうとしてたんやろ…)
(もともとワタシのホームは海やないかい…)
エネルギーチャージよりも先にすべきは浄化だったのかも。
いつの間にやら目先のことにすっかりとらわれて、俯瞰して見ることができていませんでした。振り返ると、こうして迷走していた時の自分の姿も面白くさえ思えます。
ここ、香川県は日本一狭い県。
幸いなことにちょっと走れば穏やかな瀬戸の海があり、平地があって里山もあって、さらには剣山系など、高山へも近いです。
渇水気味なことを除けば気候も温暖・温和。
そんなわけで、早速、海へ向かいました。
暖かい日だったので足をちゃぷちゃぷと海水に浸し、波音を聴きながら久々にのんびり貝殻を拾って遊びました。そうしたらこれまでの動揺や沈みがちだった気持ちがなんだったのかというほどスーッと治まり、自分でも驚きました。
地に足がついて、中心が戻るべきところに戻ってきた、そんな感覚でした。
ただ、しばらくするとまた思考や感情、体の感覚がばらばらで噛み合わあいような、分離したような感覚に陥り、その後も何度か港の方へ通いました。
海が近くにない方はこういうとき川に行かれると良いのかしらと思います。
流れ流れて川もいつか海へと注ぎますので、池よりは川なんだろうと思います。
この一連の記事の最後に載せている写真は、浄化のためにいいのかなと、どれも海の風景にしています。
|過去生と執着と
猫が旅立ってしまうほんの数日前、たまたま目にしたローカルニュースの中で、25年生きている高齢猫が紹介されていました。階段の昇降も普通にしているような、元気そうな猫でした。うちの猫もこのくらい若々しく元気で長生きしてくれたらいいなと思いながらも、そろそろいつなにがあってもおかしくない歳になったのだなという思いもチラとありました。
なので、これからの数年間はいっそう大事に過ごそうと思っていた矢先の突然死。
素直に、”還っておいでって言われたから”、「ほな!」って軽やかにあちらの世界に還ったという猫。その軽やかさとは真逆で重い私。
なんで今なのか、なぜたった13歳で逝ってしまうのかと混乱し、もう一度この手に抱きたい、帰ってきてほしいとひどく執着していた私の頭に、ふと浮かんだ言葉。
それは
「また繰り返すん?」
というものでした。
ここ数年で、いくつかの過去世について知る機会がありました。
過去世というのは有るという方もいれば無いという方もあり、一人一人が考えたり感じたりする通りで、どっちだって、なんだっていいのだと思います。正解は、誰にもわからないこと。
それに一人一個というよりは、タマシイとはたぶんカタチのないもの。
なので配分率が違うだけで、あなたと私もひょっとしたら同じ過去世を持っているかもしれません。(シランケド)
ただ、複数の方々からの情報を総合して考えるに、どうやら私は大切な存在を置いてやむなく死んでしまったり、逆に一人とり残されるパターンが多かったようです。
ある方に見えた光景は、私が一人取り残されて、暗い部屋で形見の着物を抱いて泣き暮らしている姿。
本当かどうかはわかりません。
が、たしかにモノへの愛着や執着は、物ごころつく前から強いし、死別への恐れというものは動物でも人でも同じで昔からちょっと病的レベル。半端ないもんなぁ…と、なんとなく納得もして、言われたことはずっと頭の片隅に残っていました。
(繰り返すん?って言われても…なぁ…)
(それもそうよなぁ…いくら縋ったからとて生き返るわけもなし…)
(思う方も思われる方も、これじゃしんどいだけやんなぁ…)
(どうやったらこの恐れ、手離せるんやろ…)
苦しくて、ずっとこんな自問自答を続けていたある日。
つい最近のことですが、あ…、とわかったような気がしました。
読んでくださってありがとうございます。
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