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遠く離れて(2)

こんにちは。
ご訪問ありがとうございます。

これは私自身を癒すためのアウトプットです。
「喪の仕事」と呼んでよいものかもしれません。

よろしければご覧くださいませ。

ひとつ前の記事はこちらです。

|動物病院へ

立春を過ぎていたとはいえ
この日はまだ真冬並みに寒かった頃でした。

子供に猫の身を預けた私はコートを羽織ると
夫に脱衣場から洗濯ネットを取ってきてほしいと
頼みました。

移動嫌いな猫を通院などで連れ出す場合、
キャリーケージに入るのを嫌がって暴れる猫は
ネットに入れて移動させることがあります。

この猫もキャリーケージをとても嫌がるタイプ。

ケージに入れられて行く先はいつも
注射など痛いことをする動物病院ばかり。
いつしか学習し、ケージばかりでなく
好きで遊んでいた段ボール箱や鞄にすら
入らなくなりました。

入れるとどこにそんな力があるのかと思う力で
ケージの扉をこじ開け破壊して脱出します。

夫が持ってきてくれたのは中サイズのネット。
一番大きいのを取ってきてと言いながら
急ぎ猫に洗濯ネットをかぶせようとする私。
手が震えすぐには入れられずもたついていると

「いらんのちゃうん?早く!」

と一喝されてハッと我に返ります。
この体では逃げ出す力など残っていないのに…。

渡されたバスタオルを両手に広げ
子供からそこに猫を受け取ると、
防水と保温のためタオルの上からもう一枚、
大きなビニールで包みました。
胸に抱いたまま、靴を履くのももどかしく
先に靴を履いて待っていた夫と2人
小走りに玄関を出ました。

おそらくこれまで動物の死の瞬間に夫は
立ち会ったことがないのではと思いますが、
人の死については私よりずっと経験があります。

大急ぎで支度する私に向かって
猫の瞳孔が開いてしまっていることを
遠慮がちにポロッと口にしたことで、彼もまた
猫の身体は既に亡くなっていると考え
もう無理だと思っているのだろうと感じました。

しかしながら、動物病院に連れて行く!と
有無を言わさぬ私の気迫に押されたのか
車の運転と付き添いを買って出てくれました。

平常時であれば、明らかに無理と思われる
こうしたことをあえてしようとするのは
スマートではない、そんな哲学を持った人です。
ましてや外はすっかり暗くなっていました。

今から行って閉まっていたらどうするのか…
たとえ開けて診てくれたとしても迷惑では…
そんな常識的な思いも感じられました。

感情だけで闇雲に突っ走る私とは対極にある人。
常に理性で物事を判断する冷静沈着な人。
ついでに言えば、グラウンディングとか
センタリングとかそんな言葉は知らずとも
エッセンスの力を借りずとも、もともと
当たり前のように揺るがぬ不動の心を持つ人。

冷静に見ていろいろなこともわかっていながら
すべてを呑み込んで、黙って心情に寄り添い
動物病院へ連れて行ってくれたこと。

少し落ち着いてから振り返り
これがいかにありがたいことだったかに
あらためて思い至りました。

目の前でひどく心配している子供にも気を遣い
私の意図を汲み取っていたかもしれないし
特になにも考えてはいなかったかもしれない。

本当のところはわかりません。
でもそれももうどっちだっていいなと思います。

自分の気持ち一つさえよくわからないのに
ましてや家族とはいえ他人の心など
そもそもわかるはずもない。

事実なのは猫の救命に向けて力を合わせた、
ただそれだけのこと。

かかりつけだった動物病院に向かう道中、私は
マスク越しに何度か人工呼吸を試みました。

なんの手応えもなく身体は力が抜けたまま。
深いところではもうダメだと感じていながらも、
今さら息を送ったところで無理と思ってもなお
私はやっぱり諦め切れずにいました。

動物病院には車中から電話をしたものの
時刻はとうに診察時間を過ぎており、
留守番電話に。

「折り返しのお電話ができないこともあります」

というアナウンスに不安を覚えながらも
こちらの連絡先と状況を簡単に吹き込み、
現地に向かいながら電話を待ちました。

駐車場に着いたときには
院内の灯りはすっかり消えており、
人の気配もなにもありませんでした。

無情にも時間は飛ぶように過ぎていきます。

体の大きな人間でさえ、心停止後の蘇生率は
時間の経過と共に加速度的に下がるのに、
この小さな体ではもう絶望的だと思いました。

このまま他へ行くか、家に戻るか。

私は迷いに迷いました。

|依存心

自分では比較的冷静だと思いながらも
そんな気持ちとは裏腹に、震える指で
ある番号に電話をかけていました。

電話した先はこの猫と通じ合い
親しくしてくださっていた方。

最近ではアニマルコミュニケーターという
動物と話ができる方が時々いらっしゃいます。
TV番組の影響で知名度も上がっていますね。
イメージとしたらそんな感じなのですが、
この方はこれを生業にされているわけではなく
ご縁があって知り合った方でした。

猫が喜んでちょくちょく訪ねていくものだから、
親しく話して遊んでくださっていたようです。
訪ねていくといっても、うちからは遠く離れた
瀬戸内海の向こう側。

肉体とは別の、意識体としてのお話です。


なぜ、そこへ電話をしたのか。

もう猫はこのまま還ってしまうつもりなのか?
傷ひとつない身体がここにあるのに…

まだこんなに温かいのに…

まだこんなにも柔らかいのに…

招魂術があるのならば教えてほしい、
切にそう願ってのことでした。

1回、2回、3回、4回…、…7回、8回

…何度コールするも応答はなく、
そのうちこの日は不在だと聞いていたことを
あっ、と思い出しました。

そのことに気がつくと同時に、再び

(あぁ…やっぱり今日なのか…、)

(もうこのまま逝ってしまうのか…)

と腑に落ちました。

なにかと依存心の強い私。

そんな私が依存せぬよう、
自分の、己の、自らの選択と責任でもって、
覚悟を決めて事にあたれと言わんばかりの
完璧な旅立ちのスケジュール。

すぐにその方に頼ろうとした自らを恥じました。

招魂術なんてたとえあったとしても
リスク高いに決まってるやんか…(シランケド)

そんなこと聞こうとするなんて
どんだけ失礼なことしようとしてたか
わかってるのかワタシ…と情けなく
どうしようもない気分になりました。

|切なる願い

次に私は子供に連絡を取りました。

真っ暗な動物病院の駐車場から
自分でどうにかするんだと覚悟を決めて、
また、なにが起こってもすべては最善なのだと
自らに再度言い聞かせてから電話しました。

この間、夫は近くの動物病院を検索しては
次々に電話をかけ続けてくれていました。

そんな中、子供に対して私が訊ねたのは

「もう、このまま連れて帰っていいか」

ということ。

仮に診てくれる獣医さんが見つかったとて
もう二度と生命は戻らないであろうこの身体。

ならば延命のための不必要な医療行為は
受けさせたくありませんでした。

延命措置、特に心臓マッサージなどは
人間でも肋骨を骨折することがあると聞きます。

蘇生のための電気ショックについても
感電の一種でリスクが高いと思われました。
(古い話で最近はどうなのか存じません)

だったら。
なにも傷つけず、一刻も早く。
美しいまま、温かいまま、柔らかいまま、
いつもと同じままで子供に抱かせたい。

もう二度と、この猫の、この温もりは
感じられなくなるのだから。

この温もりを、この艶やかな美しい毛並みを、
手触りを、匂いを、姿を覚えていてほしい。

これまで大切に思い、日々を積み重ねた
私たち以外の誰の手にも触れさせたくない。

それはすなわち私自身の我欲、エゴであり
執着であり、投影でもありました。


しかし子供にとって、温血動物の直接の死は
ものごころついてから初めてのこと。

死後どうなるかまでは知らず、今を生きる子供。

私の問いは即、却下されました。

帰ってこなくていい、
動物病院が見つかるまで絶対に帰ってくるなと。

それは

「なにがあろうと絶対に救命してくれ」

という心の叫びとして私は受け取りました。

大人としての経験値と経験知から
すっかり諦めていたけれど、奇跡を祈りつつ
ただただ涙するしかできませんでした。

息を吸えていなかったことに気がついて
大きく一呼吸し、あらためて
どこか他に開いている病院はないか
震える指と曇る目で再び検索を始めました。

読んでくださってありがとうございます。
この続きはこちらです。

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