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「勝つために応援しろ!」——追悼・野村克也

10歳でヤクルトと出会い、オヤジ達のものだったプロ野球を見始めた。讀賣の5分の1という少ない機会のテレビ中継で映るヤクルトスワローズは、負け続ける弱いチームだった。そんな球団をなぜ好きだったか。

こどもの私は、ある不安を抱えていた。

この人たちは、本当は巨人のユニフォームを着たいのではないか。

万年Bクラスで、ブランド力のない球団。本当はこの人たちだって、いや、野球選手は皆、巨人に入ってGIANTSのユニフォームを着たいのではないか。でも、くじで入れなかった。だから仕方なく、ウチのユニフォームを着ているのではないか。

ファンとして、そんなチームのユニフォームを着て野球をし続ける若松勉の存在はありがたかった。若松だけではない。それは八重樫幸雄で、小川淳司。真面目で寡黙。地味で静か。何がおかしい。10代の多感な時期にお手本となったのは、負けても負けても私の好きなユニフォームを着て野球をし続ける、ヤクルトの選手たちだったのだ。

親の同伴なしに神宮に通えるようになったJK時代。そのころ、関根潤三に代わる時期監督の名前を知る。

野村克也。

時代は平成にかわっても、チームは相変わらず低調だった。そんな中、池山隆寛、栗山英樹、広沢克己といった若手が成長し、長嶋一茂というきらびやかなスター選手が入団したことで、マスコミに取り上げられることが増えていった。「あいつの隣にいればテレビに映れる!」と、一茂と常に一緒に行動し、面白いことを言って周囲を笑わせる芸達者な池山・広沢の“イケトラコンビ”の影響で、女性ファンも増えていった。批判的に使われる“ファミリー球団”という言葉のとおり、面倒見が良く仲の良いヤクルトと、あの、冷淡で批判的な解説の野村克也が合うとは思えない。チームもファンも若返り、活気づいているところに水を差されたような気分になり、私は落胆した。この年、若松勉が引退した。

事実、就任1年目の90年は5位。前年から順位を一つ下げた。やはり、だめなんだ。ID野球はウチの野球じゃないんだ。野村スコープのようにうまくなんていかない。ミーティングで選手がつぶれていっているんじゃないか。それまで体感したことのない、“しっくりこない”違和感をぬぐえないまま、私はその日も神宮にいた。

平日は、学校が終わりそのまま神宮に向かう。内野当日券を買い自由席へ。「楽しそうだ、私もいつかは行きたい」と、応援で盛り上がるライトスタンドを眺める。
多分その日も、負けたのだろう。ブルペン側に移動し、通路に立ってフェンス沿いに帰っていく選手を目で追う。いつもドキドキする。視線が合うわけでも、会話を交わすわけでもないが、テレビの中の野球選手がこんなに近くにいる。それだけで緊張する。声などとてもかけられない。

いくら女性ファンが増えたとはいえ、野球はまだまだ男性のもので、野球場は男性社会だった。ヤジも多く、おひとりさまJKはいつも怖い思いをしていた。
今日も何となく騒然としている。そんな中、スタンドとグラウンドでヤジの応酬が始まった。

「おう!なんや!お前、ほんまにファンか!」
「ファンだから来てんだろ!」
「ファンなら勝つために応援しろ!」
「だったら勝ってみろ!」

応酬の相手は、野村克也。私は、その勢いと剣幕に固まっていた。不穏な空気が漂ったところで、スタッフ陣だったか丸山完二ヘッドコーチだったか、監督の背中に手をまわし連れ立って出入口に消えていった。

帰りの総武線の車中で、私はこのやりとりを延々となぞっていた。
「ほんまにファンか!」「勝つために応援しろ!」
この言葉の真意を解読しようとしていた。
私は、ほんまにファンだ。大抵が巨人ファン、女子は野球など興味がない環境で、学年に3人しかいなかったヤクルトファンを、常に劣勢の状況で続けてきた、生粋のヤクルトファンだ。野村克也がヤクルトに来るずっと前から、私はヤクルトを見つめてきたのだ。弱いヤクルトに寄り添う私こそ、ほんまにファンだ!
「勝つために応援しろ!」だ?当たり前だ。ファンなんだから、勝つために応援してるに決まってるだろ!

……いや、私は本当に、勝つために応援していたのか?

勝てば官軍の世の中を見てきて、弱いチームの野球選手を見捨てず支えている自負はあった。しかし、弱くてもいい。楽しければいい。そう勝負を諦めてはいなかったか。いや、諦める前に、そもそも勝負などしていなかったのではないか。
厳しい勝負の世界に身を置く選手を、勝つために後押しする。こんな当たり前のことを、私はまったく分かっていなかった。
そうだ、昔からウチの選手は、ヤクルトの選手として正々堂々と戦ってきたはずだ。頑張って頑張って勝とうとしていたじゃないか。何を見てきたんだ!

私の考えは、甘かった。負けても悔しいという感情を抱くことがなかった。私は「悔しい」という感情に気づかず、いや、気づかないふりをして生きてきたのだと思い知らされた。同調と調和を求められ、落ちこぼれないようにふるまってきた団塊ジュニア世代の軟弱さを見抜かれ、返す言葉もなく、満員電車に揺られていた。

――――――――――

野村監督。
30年経った今でも、この光景ははっきりと覚えています。ヤクルトファンは優しい、とよく言われます。確かにそうだと思います。でもそれは、あの時の甘っちょろい私の優しさとは違います。それが証拠に私は、92年の日本シリーズで負けたとき、沸いて出る悔しさを抑え切れませんでした。
「勝つために応援しろ!」この野村イズムは、勝って喜び、負けて悔しさをかみしめる全力応燕として、30年経った今に継承されています。教え子は、選手だけじゃないんです。ウチの監督になってくださり、また、昨年の7月11日は、“ウチの選手として”バッターボックスに立ってくださり、ありがとうございました。
これからも、私は悔しがることから逃げません。選手とともに、歯を食いしばって、生きていきます。どうか、こんな私でも、ヤクルトファンとして厳しく見守ってもらえるとうれしいです。
どうぞ安らかにお眠りください。
……とはいっても、私は野球の仕事をしている野村克也が好きだなぁ。高津臣吾監督に「コーチで雇ってくれ」って言っておいて。まだ古田敦也も現場復帰してないですよ。サッチーとの再会にしばしゆっくりされましたらそのあとは、今年優勝予定のヤクルトを、

「勝つために応援しろ!」

令和2年2月11日  愛を込めて 田村 歩

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