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「JOKER」 笑う 笑わせる 笑われる

 二度目の「JOKER」を観てきた。
 全く見飽きる部分などなく、一回目同様一瞬もスクリーンから視線を外せず釘付け状態だった。

 ピエロ、道化師。表情(メイク)の中に「笑顔」と「涙」を同居させる。
 それは、おそらく特定の人と限定せず誰もが喜びと悲しみを日々の生活の中で経験することへの共感かと考える。
 泣き笑いと云うが笑い泣きとは云わない。笑顔を貼り付けると表現しても怒りを貼り付けるとは云わない。
 大笑い、高笑い、微笑、苦笑、哄笑、「笑い」に関してはとても細かく表現が分かれる。つまり、只「笑っている」それだけを受け取ってはいず、笑いの背景を読み取っている。

 JOKERの笑いは、脳障害から来る乾いた、感情から発しない笑いに苦しむシーンが作品全般にわたって演技される。観ていて脳障害でなくともそうした笑いを付き合いの中で演じる人間をデフォルメしているようで、これは現代の皮肉でもあるのかもしれない。
 口角を上げただけで笑っているかのように誤魔化すことは可能でも、目が冷たいままでは凍った笑いがそこにあるだけ。相手と笑いを共有できない。

 「JOKER」作品中にある笑いの大半が喜びの笑いではないことが切ない。
 Joaquin Rafael Phoenix は多くの笑いを演じ分け、ピエロの涙メイクを滲ませることで笑いと対にある感情を垣間見せていく。
 コメディアンとして人を笑わせたい彼が、意図に反して笑われ傷ついていく姿。人は何を笑うかで品性が出るとも云われる。彼がこころから笑えないことが脳障害から来る笑いよりもつらいことのように映る。

 表情では感情を上手く出せない彼が、ダンスにおいては実に饒舌に自らの感情を空気と戯れるように溶け込み、その世間のしがらみから解かれている姿は、何度観ても惹かれる。

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