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ハレとケの境界が薄れる中にある日常と非日常・・・ レストランPremierにて

 日本民俗学の柳田國男氏が云われるように昭和初期には既にケの存在が薄れてきたと指摘されている。ここでは詳しくは触れないが背景には産業構成自体が第一次産業から変移したことが大きいのだろう。農作業という地道な、且つ、日々の作業によって成り立つ生活からの解放は日本人の生活を変えてきたのだろうことは教科書で学ばなくとも理解可能だ。
 我慢する生活、耐える生活から解かれる同時に、ハレとケの境界はあいまいになり、SNSの影響も手伝いハレが溢れている現代。
 自身の生活を振り返っても、いつの頃からかおせち料理がそれほどごちそうには映らなくなってきた。お誕生日のお料理は幼い時代ほどのわくわく感は伴っていない。嗜好品然り、日々の紅茶や抹茶も購入金額は舌が上等になったと云ってよいのならうれしいが嗜好品はおそらく誰もが美味しさに慣れることを経験済みだろう、確実に購入金額は上がっていく。

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 先日、友人と河口湖に在る富士レークホテルでフレンチをいただいてきた。私は既にパートナーと何度かいただきそのお料理の美味しさは既知であるが、それでも毎回ダニエル氏が提供してくださる品々に感嘆のため息が出てしまう。

 そう、ここにまだハレがあると実感する。

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 日々の食事に、普通にローストビーフもいただく、フォワグラさえソテーする。ヴィシソワーズも夏には作る。でも、そこは家庭料理の域であって適当な裏ごし止まりだ。食材が豊かになったところでプロの料理人が行うプロセスの序盤程度。勿論、家庭料理であれば家族が美味しいと言ってくれることが評価でありプロと全く同じことを目指すことはない。

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 一皿毎に完成された絵を見るような品々。
 友人とテーブルにあるメニュー案内を見ながら次に運ばれてくるお料理を想像する楽しさはどのレストランでも経験する類ではない。学生を卒業するとそこそこメニューから提供される一品の全体が想像ができるものだが、ダニエル氏の一皿は中々正解に辿り着けない。
 更に、提供される一皿が絵画と異なるのは、只、視覚的に愛でるだけではなく口の中で更なる想像を超える驚きが広がること。

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 ダニエル氏のお料理には、日本の四季が、正確には地元山梨の四季がさりげなく確実に色や味として織り込まれている。私はあまりダニエル氏のフレンチにマリアージュの表現は使いたくない、違和感がある。
 意外な組み合わせで提供されているのではなく、個々の素材を知り尽くしていらっしゃるからこその化学反応のような口に含んでこそ始まる世界のように毎回感じているからか。

 私の人生に幸運が降り注ぎ毎週このフレンチがいただける身分になったとして、それで私はしあわせを感じるだろうか。
 以前ほど仕事で疲れる生活はしていないが、それでも、昔でいうケにあたる日常生活と仕事があるからこそ、この贅沢が輝くことは確か。至福と実感できるための日々が在る生活の方が私はやはり好ましい。

 *食事中に写真を撮ることは厨房の方々に対して失礼のようで私は只管(ひたすら)運ばれてくる一皿をしっかり目に焼き付け料理を堪能している。今回、ここで使わせていただいている写真は最後に上げた写真外は富士レークホテルの許可をいただきH.Pよりお借りした。

河口湖 2021 10

 日曜日 7:14 部屋からまだ静かな湖畔風景を撮影。友人は7時から始まるヨガに参加。連泊が出来ず残念だったが、それは次回の楽しみに。
 

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