自己紹介に代えて 命懸けの〈信〉

自己紹介。を書こうとして、白紙の画面を前にして何を書こうかと考え、私は戸惑っています。昔から私は自己紹介が苦手でした。自己紹介を求められたとき、属性や肩書を羅列すればいいのでしょうか。

性別やら職業やらが自己について何ほどのことを語るのか!

そもそも自己とは流動的なものであり、あるいは自己は様々な流れの中にあります。性別や職業も変化しえます。私は自己のなかの不変性を求めているのではありません。
逆です。自己として紹介すべき、そのような不変性などないのです。

では、経歴を書けばいいのか。だとしたら、私の辿ってきた道のうち重要な部分はここには書けません。いや書きたくありません。というのもあるし、或る種の私秘性あるいは匿名性を確保することが、私がnoteで書こうとしている文章が文章として〈読まれる〉ためには必要だとも考えています。
そのうち小説も書くかもしれませんし、書かないかもしれませんが、とりあえず哲学的な文章こそは、その文章を書いた人の人生からは切り離して〈読まれる〉ことが好ましい、と私は考えています。これは〈人生哲学〉を否定する意味ではありません。すべての良質な哲学は〈人生哲学〉という側面を持っている、と断言しておきます。

とはいえ、これでは「自己紹介に代えて」と題した文章としてはあんまりなので、私が書こうとしている文章群の構え、というか方向性みたいなものは、ここに示しておきたいと思います。私の経歴も微かに垣間見えるかもしれません。

noteのプロフィール欄に私は「何らかの〈信〉を獲得するための作業を進めていきます」という一文を掲げました。実際に記事を書き始める、しばらく前にこの一文を考えたわけですが、ここで言う〈信〉とは、小泉義之さんの「知から信へ」という文章に倣っていえば、命懸けの〈信〉のことです。それは殉教精神とは異なる、それどころか殉教精神とは正反対の〈信〉です。その〈信〉を失ってしまったら死んでしまうような〈信〉のことです。
このアカウントを作ったとき、私には命懸けの〈信〉はありませんでした。
その後、「これへの〈信〉を失くしたら私は死んでしまうだろうか」という問いでもって、過去の思想や信仰をふるいにかけ、過去の思想や信仰を根こそぎにしました。そして、

自然と、
宇宙と、
この身体の、
〈観念〉だけが、
残った。


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