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田村ゆかりライブツアー"Airy-Fairy Twintail"公演中映像の一考察(その2)

 考察その1では映像中の各描写に意味付けを行い、分析することに焦点を置いた。その2ではそれを基に物語を再構築し、作品のテーマに迫りたい。特に、その1で述べたように、この物語を現代のおとぎ話と位置付けるなら、多くのおとぎ話が持っているような普遍的な訓示がテーマとなるだろう。そこに焦点を当てる。
 再構築するにあたり、ジャン=ポール・サルトル(注12)の実存主義を参考にした。ただ、筆者自身サルトル思想はまだ勉強中のため、十分に嚙み砕いて説明できているか自信がない。要点は本文中で解説しつつ、補足レベルの内容は脚注に記載した。

5-1 所有される人形、他有化のまなざし

 持ち主と人形の関係性は「所有」という構造にあるとはその1で述べたとおりだが、この形はサルトルの言う「他有化」を具現化した描写のように思える。他者により自己存在が決定され支配されることは、他者からの「まなざし」によって起こるというサルトルの主張に従えば、人形は常に持ち主からまなざしを受けている状態にある。
 本論でキーワードとなる「まなざし」についてもう少し具体的に解説しておこう。サルトルはまなざしによる他有化を覗き穴で例える。私が誰かの秘密を知ろうと鍵穴から部屋を覗き見る時、私は自由であり、相手に対して支配的で優位な立場にある。しかし、私の背後で物音がした時、私は誰かに見られているかもしれないという疑念に駆られ、一気に不自由になり、その何者かに支配され隷属した状態になる。
 人間同士の関係ならまなざす側とまなざされる側は常に入れ替わるが、持ち主と人形の間ではそのような逆転は起こり得ない。持ち主は常に人形に対して支配的で絶対的な他者として君臨する。サルトルが他者の綜合と呼んでいるような対象化できない-こちらからまなざし支配することのできない-他者の象徴である。したがって、作中の描写において持ち主は顔が見えない。常に背中を向けている捉えることができない何者かである。
 ここで明確にしておきたいが、まなざされることによって作られる自分の存在(注13)は、自分が自分に対して築き上げるものであって、作成者は他者でなく自分自身である。鍵穴を覗いている私の背後で物音がした時、その原因が実は壁に掛けてあったコートが落ちた音かもしれないし、風でカーテンがたなびいた音かもしれない。しかし、私が誰かが私を見ているかもしれないと考えた時、私は背後にいる誰かの存在に支配されてしまうのである。
 「うっかり者である」「責任感がある」「嫌なやつである」といったうわさ話を立ち聞きしてしまった時、私はそのような言葉通りの自己像を私の中に作り上げてしまう。この時、他者から実際にどう思われているかは関係ないのである。人はそうして作り上げられた自己存在に、恐怖したり、羞恥したり、自負したりしてしまう。

 本作品において、主人公は持ち主からまなざしを受けて、どのような自己像を背負ってしまっているのか。その答えは、セリフのない物語の中で可視化され具体的に描写されている。作中冒頭で主人公が持たされている赤とオレンジ(光の加減でオレンジは黄色の可能性もある)のガーベラである。
 花言葉は言語の持つある一面、つまり、共通の了解がないと正しく意味が伝達されないという特徴をよく表している。花束とラブレターを贈る場合と赤いバラを贈る場合を比べて考えてみよう。前者の場合、それが恋愛的な意味を持つことは誰の目にも明らかだ。しかし、後者の場合、赤いバラの花言葉「あなたのことが好きです」を贈る側と受け取る側のどちらもが共有していなくては意味は伝わらない。これがままならないと、贈る側の恋心が相手に伝わらない可能性もあるし、その逆、贈る側はただ赤いバラが似合うと思っただけかもしれないにもかかわらず、受け取る側は愛の告白と受け取ってしまうこともあり得る。要するに、赤いバラのプレゼントという具現化したまなざしをもって、愛の告白を受けた自己像を作り上げてしまうわけだ。
 赤やオレンジのガーベラを受け取り持たされることは、持ち主がどのような意図を持っていたとしても、「神秘」的であること(赤のガーベラ)、「我慢強さ」(オレンジのガーベラ)、「親しみやすさ」(黄色のガーベラ)等の言葉を自分に向けられた言葉として背負うことなのである。主人公が人形として持ち主の元にいる限り、持ち主の「まなざし」により支配され、自己存在を決定づけられるという構造は変わることはない。

5-2 人間となる人形、自由の刑

 その1では、主人公が捨てられた後について、自我と生命力を得て人間となり、それをもって所有の関係性から真の意味で自由になったと書いた。サルトルによれば、人間とは「対自」である。
 対自と、それと対をなす即自という言葉は、サルトル思想の中で根幹を成すものである。即自存在とは、本質=存在(実存)(注14)となるようなものである。例えば、コップの本質は液体を入れられる容れ物だが、現実に目の前にあるコップもその通りに液体を入れて使われている。一方で対自とは本質と存在が一致しないものを指し、人間が(もっと言うなら人間の意識が)これに当てはまる。人間はこういうものであるという決まりは無い。コップでもなく、彼処に座っている誰かでもなく、即自(本質=存在)でもないというような、否定的消極的な在り方でしか存在できないものである。
 その1ではショーウインドウのシーンを主人公が人間に覚醒する転機であると位置付けたが、サルトル的解釈を持たせるならば、人間となることは自らが対自であると認めることとなるだろう。鏡像を自分自身の像であると理解することは、裏を返せば、自分はブランコでも空き缶でもガードレールでもないと理解することであり、他とは違うという否定によって自身を成り立たせている。自分自身が対自存在であることを無意識に感じ取った時、主人公は自他の境界が明確になる。その証拠に、ショーウインドウのシーン前後では彼女の物の見方が大きく変化している。当初、水やブランコがなんだか分からず、空き缶の匂いを感じなかった主人公は、鏡像の経験を境に、ハサミや服、口紅を正しく認識し使えるようになり、ガーベラの花の匂いが分かるようになっている。
 では、物は認識できているのに、街中にいる他者に関しては認識することも認識されることもないのはどうしてだろうか。他者を認識することは、つまり、他者にまなざしを向けることである。本来なら人間となった主人公はまなざしを向けたり向けられたりする人間同士の関係に縛られていくはずである。それがないということは、彼女が持ち主に所有されていた頃とは異なり、一切のまなざしから解放された状態=他者から自己存在を決定されない状態にあるということである。これにより、彼女は完全に自由となった。彼女は自由であるために、髪を切り、服を着替え、口紅を塗ることができる。では、その自由とは手放しに喜んでいいことなのだろうか。

 繰り返しになるが、サルトルの言う人間、つまり対自存在とは、「私は○○とは違う」という否定によって、消極的に自らを成り立たせている。ゆえに、対自とは不安定な状態である。本質と存在がイコールで結ばれないため、人間は自らの意志で本質を決める自由を持っているのだが、対自存在である人間の本質とはいわば「本質のないこと」であるため、永久に本質に辿り着くことはできない。ずっと不安定なままである。この状態を指してサルトルは「人間は自由の刑に処されている」と言う。本作の主人公も自由となり、人間となったことで、不安定な立場に追いやられ自分で自分について選び取らなくてはならなくなった。つまり、彼女も自由の刑に処される1人となったのだ。 
 映像の第二部は主人公による人形だった頃の過去の回想である。人形から人間へ覚醒し、対自存在としていきなり世に放たれた主人公が行う行動として過去を回想するのは至極当然のことに考えられる。というのも、自分が何者であるかを考える時、人間は過去しか根拠にできるものがないからである。よって、主人公もその人間性にのっとり過去に想いを巡らせる。
 しかし、この過去回想は出口のない答え探しだ。彼女にとっての過去とは持ち主に所有されていた頃のことである。持ち主から愛を貰う喜びも、他の人形への嫉妬の悲しみも、持ち主から渡されるがままのものであり、自分から働きかけることはできない。愛に報いることも、他の人形への興味を自分に向けることも、押し付けられた花言葉の理想を違うとはねのけることもできない。想い出の中の彼女自身はどこまでも人形で、自分の世界の彼方からまなざされることを待つしかできない存在である。
 人形としての自分と同様に過去の自分も彼女の力ではどうにもならないものである。サルトルによれば、過去の自分とは凝固した即自存在であり、すでに在り方の確定した存在である。現在の彼女が過去を振り返って、「過去の自分は物言わぬ人形ではなかった」と申し立てることはできない。過去はすでに確定してしまったもので変えられないからである。ゆえに、過去は根拠にはできるが目標にはできない。目標にできるのは未来だけであり、その未来に向かって働きかけられるのは対自存在として自由に選択することのできる現在の彼女だけである。よって、人間の主人公は過去に答えを求めるのを止め、自分の進むべき道(未来)を選択しなくてはならなくなった。選択を止めることはできない。選択を止めることは選ばないという別の1つの選択だからである。

5-3 人形に戻る選択、まなざしの受容とアンガジュマン

 さて、5-1では人形であること、5-2では人間であることをサルトル思想に落とし込み分析した。本作品の映像第三部において、主人公は自身の未来の在り方を選択していくことになるが、第三部開始時点で彼女には大きく分けて2つの選択肢がある。1つは人間のままでいることであり、もう1つは人形に戻ることである。それぞれの選択の持つ意味を具体化してみよう。人間を選ぶことは、このまま自由であり続けることである。誰からも拘束されず、まなざしによって自分を決め付けられることもない。常に選択をし続けなくてはならないが、それ故に気が向いたら後から人形に戻る選択を取ることもできるかもしれない。一方で人形を選ぶことは、再び不自由な存在に戻ることである。数多ある他者のまなざしにさらされ、自分自身の存在は他有化される。選択の自由も保証されない。
 サルトルは彼の戯曲『出口なし』(注15)の中で、「地獄とは他人のことだ」という言葉を用いた。まなざしを受け、他者からの尺度に常にさらされ続けることは苦しいことである。しかし、人間は人間である限り他者から常にまなざされ続けるものであり、それを自己像として背負うことは止められないものである。そこでサルトルは自著『聖ジュネ』(注16)の中で1つの生き方を提示する。まなざしと向き合いまなざしを徹底的に受け入れるという選択をして、その中に自分の在り方を求めていくという生き方だ。
 さて、本作品の主人公はどうであろうか。結論から言ってしまえば「人形に戻る」を選択した。つまり、『聖ジュネ』の詩人ジャン・ジュネのように、まなざしを積極的に受容するという選択を取ったのである。その理由について、まず主人公の視点から見ることとする。
 「まなざしの受容」は主人公にとって2つの意味を持つ。1つは過去に受けたまなざしの受容であり、もう1つは未来にこれから受けるであろうまなざしの受容である。ここで重要となってくるのは前者、過去の受容である。というのも、過去のまなざしの受容とは、まなざされるだけの存在だった過去の自分、すなわち人形の自分を受け入れることにも繋がるからである。過去を肯定すれば、その過去があってこそ存在する現在の自分自身も肯定的に捉えられるようになる。このことは、その1で述べた「能動的な愛」の話にも連動してくる。愛されていた過去があってこそ今の自分がある。その1で提示した持ち主から愛を与えられて自らも愛を胸に信念を持って前を向くことと、持ち主からのまなざしを受け入れて過去を自らの根拠として未来を選択することは、構造的に同じものである。これから未来に受けるであろうまなざしは、過去の愛情の受容によって恐れるものではなくなる。能動的な愛が、主人公にまなざしを積極的に受容するという選択、つまり、人形に戻るという選択を取らせる。

 では、さらに視点を変えて、物語の構造的に検証を加えたい。ここまで見てきたように、人形に戻る選択は積極的・能動的生き方である。すると、もう片方の人間のままでいる選択はこの物語において、消極的な生き方ということになる。
 サルトル思想にはアンガジュマン(注17)という考え方がある。このフランス単語の本来の意味は「拘束、契約」という意味だが、サルトル思想の中では「社会参加」「自己拘束」という意味になる。この一見全く異なる意味の2つの言葉は、サルトルにとって同一の事象を指し示す。人が、どういう存在として生きるかを決めて進む時、その人は社会に自らの場所を見つけ、参加する。しかし同時に、社会とは多数の人々によって成り立っているものであるから、社会に参加するということは他者によってその場所にいるものとしてまなざされ決定されてしまうということでもある。自らを社会に位置付けることは、社会参加であり、自己拘束なのである。
 本作の主人公は、人間の姿の時、本来の人間とは全く異なる要素を1つだけ有している。それは、一切のまなざしによる干渉がない点である。つまりは、人間時の彼女は社会と全くかかわりがない状態である。もし人間のままでいることを選択し続けるならば、それは社会と接点を持とうとしないということであり、さらには人形であったことや愛されていた過去の拒絶に他ならず、社会、世界に背を向け続ける生き方なのである。
 彼女はそれを拒否し、人形として「アンガジュマン」した。人間でなく人形となることで、サルトルの考える人間的な生き方を実践したのは奇妙な話だが、彼女は人形として前向きな一歩を踏み出したのである。

 最後に、蛇足的ではあるが、作品の演出面について、花言葉の観点から解釈しておきたい。サルトルは『聖ジュネ』の中で、泥棒であるとまなざされたジャン・ジュネがそのまなざしを受容していく中で詩人へと変わっていく様を描いた。まなざしを受け入れ他者と向き合うことによって、それまで背負っていた自己像がほんの少し変化する、という『聖ジュネ』に見られるこの構造は、本作において主人公が抱えるガーベラにも見て取れるものである。人形でいた時、神秘の愛(赤のガーベラ)や忍耐強さ(オレンジのガーベラ)を背負わされていた彼女は、まなざしを受容する選択をする時、感謝(ピンクのガーベラ)を携えている。彼女自身が自らの在り方を選択することで、持ち主からの愛や願いは、感謝という形に姿を変える様を示しているのである。思えばピンクのガーベラとは、彼女が街の花屋から選択した一本である。この時から彼女は未来の自身を予見的に選択していたのだ。
 さらに言えば、この変化は持ち主からのまなざしを捨て去るのではなく受け止めた上での変化であるだろう。それは同種の、しかも暖色系統のガーベラを選び取る所から伺える。そして、持ち主のガーベラに込めた想いはそこに息づいている。ガーベラ種全体の花言葉は「常に前進」である。人形としてアンガジュマンし、愛をもって世界に積極的に関わる選択を取った主人公にぴったりの言葉ではないだろうか。

6 結論―おとぎ話のテーマとは

 さて本論の終わりとして、筆者が考えるこのおとぎ話の訓示とは何か、を示したい。サルトルの言うまなざし、他者から受ける評価やプレッシャーは、じっさいにどう思われていようが、自分自身を常に苦しめる。どんなに開き直っても世間の目という主体の見えないまなざしに曝されている。ネットの発達している今となっては、そのまなざしはより強大で捉えがたいものとして、我々を襲うだろう。また、「自分らしくあれ」という曖昧な標語で自由のみを我々に与えるだけの現代社会では、何を選択すべきなのかわからず、我々は進むべき道を見失ってしまう。
 そんな時、この作品の主人公のように、自らの過去とまなざしを受け入れるというほんの少しの選択が前に進むことに繋がるのではないだろうか。この物語は現代で迷う我々に生き方のヒントを与えてくれている。

おわりに

 ライブ中の映像を一度真面目に考察してみたらどうなるだろうというジョークのような思い付きで始めたこの考察だったが、やってみると自分が深みに嵌まってしまった。長くなりすぎた考察を読んでいただいた方には感謝の限りである。
 筆者はこの物語にかなりポジティブな意味を見出だした。というのも、愛が叶わないという悲恋だけの話を田村ゆかりさんが我々に見せるだろうかと思ったからである。また、考察を進めていくうち、物語は途中で変わることもないだろうと感じていた。この不自由なご時世、地方公演に1回しか行けない人も沢山いるだろうに、そうした人たちにも向けたメッセージが中途半端で終わってしまうようなことはないと思ったからだ。結局、5ヶ月に及ぶツアーを通して、映像の内容は変わることはなかった。ということは、この物語はこの終わり方に意味があるのである。筆者の考える解釈は以上のとおりである。ただ、「はじめに」でも述べたように、捉え方は人それぞれだ。本稿が刺激になれば願ってもないことだが、そもそもの動機はジョークなので、重く捉え過ぎないで欲しい。

謝辞

 謝辞という立派なものをつけるほどの文章ではないが、本稿の執筆に多くの人からアドバイスを戴いたのは事実であるため、ここで名を伏せつつもお礼を述べたい。まず、田村ゆかりファンの友達たちには、意見を出してもらったり考察を聞いてもらったりして大変参考になった。平日にも関わらずオンライン通話で話に付き合ってくれた人もいた。最もお世話になったのは、時間を割いて文章の校正をしてくれた方である。厚く御礼申し上げる。
 次に、哲学に詳しい友人には、考察に使えそうな思想や本を多数紹介してもらった。この物語をあらすじだけ口頭で説明しただけでフロムとサルトルを即座に挙げる洞察力には恐れ入った。彼なくては考察もままならなかっただろう。筆者もまったく未知の分野をこの機会に勉強できて大変感謝している。

脚注

(注12)ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(1905-1980)はフランスの哲学者、小説家。フッサールとハイデッガーの思想に影響を受け、1943年『存在と無-現象学的存在論の試み-(原題'L'être et le néant -Essai d'ontologie phénoménologique-')』をナチス占領下のフランスにて出版する。この著作はサルトル思想である実存主義を代表するものとなり、これと第二次世界大戦後の1945年に行われた『実存主義とはヒューマニズムである(原題 'L'existentialisme est un humanisme')』と題される講演により、フランスを中心に世界中に実存主義ブームを巻き起こした。サルトルはその思想を基に政治参加を行い、知識人として幅広い活動を行う。1964年にはノーベル文学賞を辞退。1980年に逝去した際は5万人に及ぶ市民が病院から墓地までの沿道に参集した。他の著書には小説として『嘔吐(原題'La Nausée')』、『自由への道(原題'Les chemins de lq liberté')』、作家評論として『聖ジュネ-巡礼者と反抗(原題'Saint Genet, comédien et martyr')』、哲学書として『弁証法的理性批判(原題'Critique de la raison dialectique')』等がある。

(注13)サルトル思想ではこのような存在のことを対他存在(être-pour-autrui)と呼ぶ。他者にまなざされている時、私は他者の対象物となる。この他者によって対象となっている私のことが対他存在である。他有化とは単語'Aliènation(本来の訳語なら「疎外」)'のサルトル思想における意訳語として設定された言葉であり、「自分が作った物の中に自分が認められない」という意味となる。私のものであるはずの私自身が他者によって他者の対象物となっていることがサルトルの言うまなざしによる他有化によって作られた対他存在である。

(注14)「実存」とはアリストテレス=スコラ哲学以降における「本質」の対語として用意された言葉であり、本質がその物が何かという原理を説明する概念であるならば、実存とはその物が現実に存在すること自体を指す言葉である。かつてのキリスト教が強い時代には、神が人間を作ったので、人間の実存は神によって定められた本質があってこそ成り立つものであると考えられていた。しかし、ニーチェ以降神の影響力が弱まるにつれ、その考え方は薄れ、サルトルらによって実存主義、つまり、実存が先にあってその後に本質が定められるものが人間であるという考え方が生まれた。サルトルの実存主義は以上のような成立過程から無神論的実存主義と呼称される。

(注15)『出口なし(原題'Huis Clos')』とは1944年初演のサルトルにより書かれた戯曲である。フランス語の原題は「非公開審理」を意味する法律用語に由来する。以下あらすじ。
 地獄で男1人女2人の3人の死者が同じ部屋に閉じ込められている。3人はお互いに罪があって地獄に堕ちており、最初は罪を隠していたものの、次第にそれぞれの罪を告白していく。それぞれが地獄から真の意味で自由になるためには、相手に自分の罪を否定してもらうしかないが、お互いに相手の罪を決め付け合う3人は誰一人救われることがない。やがて、この地獄の部屋が肉体的な拷問ではなく他者による精神的な責め苦をすることによって拷問する部屋であると気づいた男は「地獄とは他人のことだ」と悟る。3人は死ぬこともできず永久にお互いを苦しめ合うことが示唆され物語は終わる。

(注16)『聖ジュネ-巡礼者と反抗(原題'Saint Genet, comédien et martyr')』は1952年発表の実在する詩人ジャン・ジュネ(1910-1986)を評したサルトルの作家論である。生後7か月で捨てられたジュネは養父母に預けられるも窃盗等の犯罪を繰り返すようになる。盗みの現場を抑えられ「お前は泥棒だ」と言われたことで「泥棒になろう」と決意するジュネを、サルトルは自らの思想に重ね、犯罪者というまなざしを一手に受けながら獄中で詩集を発表し、やがて詩人として大成していくジュネを描く。

(注17)アンガジュマンはアンガジェ(engager)という「拘束する、参加させる」というフランス語単語の名詞形(engagement)である。『NHK「100分de名著」ブックス サルトル実存主義とは何か~希望と自由の哲学』の中で海老坂武氏は英語のエンゲージメント(engagement)よりはむしろコミットメント(commitment)に近い意味であると述べている。
 人間は選択していく中で自己拘束し社会参加することとなる。例えば引きこもりであったとしても、それは引きこもりとして社会に参加している。そのような選択結果の連続がその人間がどういう人であるか(=本質)を決定していくのである。
 アンガジュマンは「実存が本質に先立つ」存在である人間の生き方として提示され、サルトル自身、知識人、哲学者の在り方として積極的に政治参加をしていくこととなる。

参考文献

・エーリッヒ・フロム著 鈴木昌訳(2020)『愛するということ』紀伊國屋書店
・オスカー・ワイルド著 西村孝次訳(1968)『幸福な王子-ワイルド童話全集-』新潮社
・ジャン=ポール・サルトル著 松浪信三郎訳(2007)『存在と無 現象学的存在論の試み I』筑摩書房
・ジャン=ポール・サルトル著 松浪信三郎訳(2007)『存在と無 現象学的存在論の試み II』筑摩書房
・ジャン=ポール・サルトル著 松浪信三郎訳(2008)『存在と無 現象学的存在論の試み III』筑摩書房
・江戸川乱歩著 佐藤隆信発行(2016)『江戸川乱歩名作選』新潮社
・海老坂武(2020)『NHK「100分de名著」ブックス サルトル実存主義とは何か~希望と自由の哲学』NHK出版
・斉藤環(2012)『生き延びるためのラカン』筑摩書房
・谷崎潤一郎著 佐藤隆信発行(1947)『痴人の愛』新潮社
・中村るい著 加藤公太作画(2017)『ギリシャ美術史入門』三元社
・向井雅明(2016)『ラカン入門』筑摩書房
・森口佑介・板倉昭二(2013)「鏡像認知」脳科学辞典
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E9%8F%A1%E5%83%8F%E8%AA%8D%E7%9F%A5

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