江戸川乱歩「パノラマ島奇談」感想

前置き―読書の背景

 パノラマ島奇談(パノラマ島奇譚という表記もあるようだが、本稿では購入した春陽文庫版の表記に従ってパノラマ島奇談としたい)の最初の印象は"ものすごくポーっぽいな"だった。元々この小説を読もうと思ったきっかけはアダルトゲーム「さよならを教えて」の主人公名の元ネタに興味があったからだった。伝説的電波ゲーの「さよ教」ならその主人公名にも意味があるはず、と小説よりもむしろゲームの考察を深めるための動機だったのだが、すっかりパノラマ島の方にのめりこみ、感想を書くためブログまで始めてしまったのだった。

 さて、恥ずかしながら私は江戸川乱歩をほとんど読んでいない。しかし、エドガー・ポーならそれなりに読んでいると自負して"いた"。パノラマ島奇談を読みながら各所でポーの作品が連想された。瓜二つの二人は「ウィリアムウィルスン」が連想されるし、「早すぎた埋葬」は作中で言及すらされる。ラストのネタ晴らしは「黒猫」のようだし、最後の情景は「アッシャー家の崩壊」なんかを彷彿とさせる。ポーのフォロワーは複数いれど、自分のペンネームにまでしてしまった乱歩はその影響が随所に垣間見られるのだなと悦に浸っていた。

 だが、どうやら最も影響を与えたポー作品として真っ先に取り上げられるのは「アルンハイムの地所」と「ランダーの別荘」らしい。なんということか。どっちも読んでいない。どこが"それなりに読んでいる"のか。にわかだったようだ。

 よって、感想は「さよ教」にも「ポー作品」にも囚われず、「パノラマ島奇談」を読んだ自由なものとして書きたい。それぞれを絡めて書くのも面白そうだが、それは別の機会としたい。

 前置きはここまで。感想では特にあらすじなどは書かないので、一応ネタバレ注意ということでお願いしたい。


感想―人見と乱歩の美の追求

 この短編のジャンルを一つに絞るのはやや難しいように思う。推理小説要素も怪奇小説要素もあるが、いわゆるユートピアものとしての側面も持っている。だが、数多のユートピアもので描かれるユートピア=作者の理想という構図とはこのパノラマ島奇談は少々異なっているようである。

 主人公人見廣介の理想の体現として描かれるパノラマ島には人見の芸術観=美の観念が詰め込まれている。人見の理想は冒頭で詳細に記述される。

彼の考えによれば、芸術というものは、見方によっては自然に対する人間の反抗、あるがままに満足せず、それに人間各個の個性を附与したいという欲求の表われにはほかならぬのでありました。

 自然と対決する中で生まれるという彼の理想の芸術は、全てが人工で作られたパノラマ島として表現される。人工的に自然を再現することも、錯覚をもって有限を無限に見せることも、人間の自然への反抗ひいては征服の形である。そして、生きた人体が、動植物のように装飾品のように多用されるのは、その極致と言える。

 人見の理想たるパノラマ島、その描写は、グロテスクで禍々しい。一般人の代表者としてパノラマ島に降り立つ千代子にとってパノラマ島で見るものは皆気味が悪く、恐怖すら感じさせる。しかし、それでも惹きつけられてしまう、そう感じずにはいられない魅力をパノラマ島は持っている。千代子のこの相反する感情は畏怖とも形容できよう。

悉く自然を無視した、名状の出来ない人工のために、その世界に足を踏み入れたものは、しばらく茫然として佇むほかはないのでした。

 なぜ、パノラマ島は歪で、それでいて圧倒されるのか。個人的には、それは人工物で調和が取れている矛盾から来ていると思う。調和とは元々自然界のものだ。淘汰により無駄を削ぎ落とした循環する調和の世界、それが自然である。人工(人見の言葉を借りれば、自然に対する人間の反抗)とは、その調和のとれた自然界に無駄を作り出すことに他ならない。その無駄という余分こそが芸術となり人見の美学の根幹となる。そして、人見はパノラマ島を自分の作りあげる一個の完成した芸術品として設計している。

私のパノラマ島の眼目は、ここからは見えぬけれど、島の中央に今建築している大円柱の頂上の花園から、島全体を見はらした美観にあるのだ。そこでは島全体が一つのパノラマなのだ。別々のパノラマが集まって又一つの全く別なパノラマが出来ているのだ。この小さな島の上にいくつかの宇宙がお互いに重なり合い、食い違って存在しているのだ。

 調和を壊して作られた人工物で、また別の調和を作り上げる。パノラマ島は矛盾した存在でありながら確かに存在している。これが、訪れる者に嫌悪と魅惑のどちらをも感じさせるのだろう。人見は常人なら想像だにしないものを、夢想し、そして作り上げてしまった。彼が傑出した才を持った人間であったことに異論の余地はないだろう。


 さて作者江戸川乱歩の理想は、人見と同じような人工による調和の創造だったのかというと、異なる方面を向いているように思う。それは作中で最も美しく描かれている対象から読み取れる。人間の死である。千代子、そして人見の死は、鈍くおどろおどろしくグロテスクなパノラマ島の描写とは対照的で、鮮烈で色彩に彩られ官能的である。

やがて、千代子の青ざめた指が、断末魔の美しい曲線をえがいて、いくたびか空をつかみ、彼女のすき通った鼻の穴から、糸のような血のりが、トロトロと流れ出ました。

 千代子の死と人見の死の場面はどちらも話の構成としても大きな意味を持つ、いわゆるクライマックスである。しかし、それ以上にその死の描写への力の込めようが凄まじい。作者の真に見せたい場面であることが文から滲む。二人の死はどのような意味をもつものなのか。私は、パノラマ島を完成させるための儀式、と解釈する。

 順を追って説明するために、パノラマ島とその作者である人見自身の関係性についてまず触れたい。人見の理想を体現した完全な存在であるパノラマ島に、唯一不完全なところがあるとすれば、それは人見自身の存在である。彼は菰田源三郎という別人になり替わるが、これは、夢の達成に必要なことであると同時に、人見廣介という存在から脱して、新しく人工的に作り替えることでもあった。この構造はただの島だったパノラマ島を、人工物の美のユートピアとしてしまったことと似ている。しかし、彼はなり替わっただけで本質的には人見廣介でしかない。象徴的なのが、千代子に一晩で簡単に正体を見破られてしまったことだ。人見は自らの理想のユートピアを作り上げておきながら自身はそこに入りきらない不完全な存在であった。

 彼自身それに気付いており、秘密を悟った千代子を殺して消してしまおうと考える。もっと言うと人見の夢=パノラマ島は千代子の死をもって完成すると位置付けていたようにも見える。自らの完全性の確立とパノラマ島の完成、この二つは人見にとって同義なのだ。それを端的に表しているのが、千代子の死体の隠し場所を、島の中央の大円柱のコンクリートの中に埋め込んだことだ。まるで人柱のように千代子をしまい込むことで、人見にとって最も重要な、島を一望するための展望台は建立され、そしてパノラマ島は完成する。人見からしてみればだが…。

 そう、人見は千代子の死でパノラマ島は完成したと思っているが、実のところ別人になり替われない人見廣介という存在は残っている。結局彼の捨てきれない過去が、人見廣介の部分が、当然のように追ってきて、因果応報、破滅する。罪を暴く北見小五郎の言葉は要約すれば"お前は人見廣介という存在だ"と人見自身に認めさせることに集約している。そして北見は人見に処決(もはやここは自決と同義だ)を促す。その判断は、警察の力にも雇い主の言いつけにも委ねず、芸術に仕えるものとしての個人的願いだと北見は言う。血の花火を上げて散る人見の最期は、壮絶なはずなのに夢見心地に描かれ、そのまま物語は幕を閉じる。読者は言い様のない読後感に感じ入る。

かようにして、人見廣介の五体は、花火とともに、粉微塵にくだけ、彼の創造したパノラマ国の、おのおのの景色の隅々までも、血潮と肉塊の雨となって、降り注いだのでありました。

 人見は千代子と同じようにパノラマ島の一部となり、この二人の死を吸収することでパノラマ島は真に芸術品として完成する。いうなれば、千代子の死は上棟式、人見の死は竣工式である(ついでに言うなら菰田の死は地鎮祭であろうか)。

 同時に人見の不在はパノラマ島の運営が立ち行かなくなることであり、雇われていた人々は島を去り、管理されなくなった人工物は瞬く間に自然に取って代わられるだろう。そして、冒頭で語られるように島には打ち棄てられ荒廃した廃墟のみが残るのである。人見の死は竣工式であると同時に、パノラマ島の崩壊の始まりを示す事象である。

 おそらく乱歩の意図したところは、最後の、人見の最期の場面こそが、パノラマ島が芸術品として到達しうる最高の域に達していたということである。その瞬間を描くことがこの小説の目的でありテーマだと言ってもよいかもしれない。北見は(もし作者に最も近い人物がいるとするならば彼に相違ない)その芸術品を最前席で鑑賞できたのである。

 芸術品として到達しうる最高の域、これに関して具体的に掘り下げることで感想文の締めくくりとしたい。完成されたものや完全な存在、という美の観念は、西洋を中心に古くから存在している。一方で、退廃の過程に美を見出す観念もある。これは主に19世紀後半の芸術思潮である耽美主義の文脈で語られる。ポーはもちろん、ワイルドやボードレールなど退廃美を描いている作家は多い。乱歩はこの相反する二つの美的観念、完成と退廃の両立をパノラマ島奇談で試みたのではないだろうか。打ち上げ花火は、空に大きく花開いた瞬間こそ美しい。それは絶妙に配分された火薬が目論見通り燃え広がる完成の華美さと、数秒後には灰煙となって消える退廃の儚さを併せ持つからである。人見の血の花火は完成と退廃の祝砲をあげ、そして降り注ぐ。相反する二つの観念はこの瞬間だけは等しく美を追求していたのである。


その他雑感

以下、感想文の中では触れるに及ばなかったもの

・終盤にある申し訳程度の推理要素はほとんど断定的で、推理ものとしては成り立っていない。推理小説として読んだ人には非常に物足りない小説だったのではなかろうか。

・人見と千代子の死は他にも象徴的な要素を含んでいる。自殺ー自らの命を絶つこと、殺人ー同種の生き物を能動的に殺すこと、これは自然では基本的に起こりえない、きわめて人工的な死である。パノラマ島にとってこれ以上の装飾品はあり得るだろうか。

・人間の人工的な死に意味があるのであって、死そのものを賛美する意図はないだろう。菰田の墓をあばく描写は淡々と、菰田の死体は死体本来の生々しさをもって描写される。コンクリートから流れ出す千代子の血が生き生きとした鮮やかさを保っているのも、死への賛美とは正反対だ。

・千代子は完全に巻き込まれただけの可哀想な被害者だが、人見は因果応報にむなしく破滅したと言えるのだろうか。彼の口からはパノラマ島の狂楽はもってあとひと月だったと語られる。そのまま経済的な事情で立ち行かなくなるよりも、パノラマ島の美と一体になることの方が彼にとって幸福であっただろう。

・最後にとても俗な感想だが、いくらずっと夢想していたからといって、自分の理想を現実にそう簡単に具現化できるだろうか。ましてや、多くの人の手を借りた一大事業である。建築の設計や自分の意図を正確に伝えることが完璧にできていないと難しい。人見はやはり天才であった。(そこは小説だからと言ってしまえばそれまでだが)


 次は、この作品のモデルとしてよく知られるエドガー・ポーの「アルンハイムの地所」を読んでみたいと思う。では今回の感想はここまで。

この記事が参加している募集

#読書感想文

187,619件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?