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『蜚語』第9.10合併号 特集 本島等長崎市長暗殺未遂事件(1990.10.5)

【表紙は語る】

 自由というものは、奪われあるいは脅かされてはじめて明確に自覚されるものだと思います。思想の自由とか精神の自由を云々するならば、思想の自由を認めない思想とは、思想をもってたたかう覚悟が必要でしょうし、それらの自由を犯されることについて、無神経で鈍感であってはいけないと思います。
             森井眞(『ドキュメント明治学院大学1989
               ——学問の自由と天皇制』岩波書店刊)

『蜚語』第9•10合併号 表紙

もの言わぬは腹ふくるるの業

 ある事柄について、賛成でもなく、反対でもないということは、一体どういうことなのだろう。積極的にある事柄に関わりながら、どちらの立場も取らないなんていうことができるのだろうか。まったく暗澹たる思いで、というより、怒りに消ちて1冊の本を手にした。

 周知のように、本島長崎市長の発言「天皇に戦争責任はあると思う」に対して、「発言を撤回せよ」との凄まじい脅迫が続き、また、全国から7000通以上の手紙(うち反対300通強、脅迫状も含む)が届いた。その後、市長がそれを本として出版したい意向だと「ジャパン・タイムズ」紙上で知った。それが『長崎市長への7300通の手紙』としてある出版社から出版される計画を知ったときから、はたしてどのようなものができあがるのだろうかと、危惧していた。

 市長の発言とその後の態度に私も感銘を受け、手紙を書き、支持する旨の署名を集めた1人としても気になっていた。とはいえ、市長発言を支持する立場で編集されるものだろうということは考えるまでもなくそう思っていた。できあがった本は違っていた。「編集をおえて」でもそのことについては、以下のように述べられている。

 「私たちはこの本を作るにあたって、市長発言に対する賛成、支持意見だけを取り上げることによって市長の立場を守ろうなどとは、最初から少しも考えていなかったのです。天皇タブーを越えて、互いに自由に問題の本質を考えることが大切だと思っていました」

『長崎市長への7300通の手紙』

 この編集者の考える「自由」とは、いったい何なんだろう。自由を犯されている者の立場を守ることから出発しないで、どうして「自由に問題の本質を考えることが」できようか。

「……最大最深のタブーを打破することこそ、まずは第1に本書がになうべき役割だと考えるからこそとった、基本的編集方針であったのです」

『長崎市長への7300通の手紙』

 と、自由な論議の必要性を説いてみたところで、天皇の戦争責任は論議するまでもなくはっきりしたことではないか。さらにそれは〝タブー〟であったことが問題なのではなく、天皇が戦争責任を取り、日本が侵略した国国への謝罪と賠償をやってこなかったことが問題なのだ。ありもしない〝中立〟を装うこの愚劣極まりない立場を、いまさら批判してもはじまらないという思いと、こんなことで「言論、表現、出版の自由の拡大」云々と言われたのではたまらないなという思いとの間を行ったり来たりしながら、これを書いている。
 「……市長の立場を守ろうなどとは、最初から少しも考えていなかった」という編集方針によって、この出版社は「天皇の戦争責任はあると思います」との本島長崎市長発言その発言によって命さえも狙われている——に対して反対の立場にたったということだ。

 「報道の中正、主張の公正、ということは右と左の算術的中間、ああでもないこうでもないの曖昧性を意味するものであってはならない。また惰性的な生活意識に基づく〝社会通念〟の上に寝そべるものであってはならない。侵略者の暴力と被侵略者の暴力とが対峙するとき、被侵略者の側に立って報道することこそが、中正で公正なのだ」

(須田禎一『ペンの自由を支えるために』評論社)

 あまり好きな言葉ではないが、もし「中立」という言葉を使うのならば、最低限このくらいのことはふまえてものを言って欲しい。

 「賛成、反対、そのような表面的な色分けを越えるものが、多くの手紙には溢れているのです。どちらの側に立つ人の文章にも、意見は意見として、その背後に、その人がこの時代を、特にあの戦争を越えて生きてこられた姿が、何よりもずしりと読むものの胸に迫って見えてくるのです」

『長崎市長への7300通の手紙』編集を終えて追記

 これは、この本の編集者が一貫して強調していることだ。つい最近の『朝日ジャーナル』に掲載された広告にも「……それぞれの手紙はそれぞれの人生をふまえた熱い信条にあふれている。……」などと書かれている。だからなんだと言いたい。「それぞれの人生」っていったいなんだ。人生と言えるほどのなにものもなく殺された者たち、とりわけ日本に侵略し尽くされて、遺骨はもちろん、どこの誰かさえも、彼らが存在していたという事実さえも残すことなく殺され、塵となってしまった者たち——朝鮮人慰安婦……銃剣で串剌しにされた赤ん坊…………。これらの人びとの存在を考えたとき「あの戦争を越えて生きてこられた姿」云々などとは決して言えないと思う。戦争体験の、とりわけ将兵としての体験の殆どが、なぜ国内でなく、アジアや南太平洋なのか。「あの戦争」といわれるものが、侵略以外のなにものでもなかったからではないか。侵略戦争時代を経てきたというだけで、戦争中はみんな苦しかった式にひとくくりにされたんじゃ、侵略された国国の人びとはどうなるんだ。戦争に反対して虐殺された者たちはどうなるんだ。巻頭の「刊行にあたって」でも、「あの戦争」——侵略という言葉がなぜか一言も出てこない——と繰り返し述べられ、他国を侵略したがゆえにかの地で死んでいったという事実は「あの戦争によって亡くなったすべての国々のすべての人びと」といったふうに、一般的にかたずけられているのみだ。
 これを読んだとき、何かに似ていると思った。何度も読んでいるうちにその何かとは、戦争責任や原爆投下に関する裕仁の〝発言〟だと気付いた。

 繰り返し、繰り返し、言葉を変えて述べられている救いがたい編集方針……。

 「賛否いずれの立場に対する色眼鏡をも外して、……」「文章の背後に、その人の人生が見えるものを」。

『長崎市長への7300通の手紙』編集を終えて追記

  さらにこの本の「編集を終えて追記」後半には、本の刊行をしばらく待って欲しいという本島氏の意向に反して、出版を強行したいきさつがのべられている。その傲慢さは、見るに耐えない。

 「市長、政治家と、出版社、編集者の立場は同一のものではありません。市長の立場や決断に共感し理解することと、出版社が出版社として独自な判断をすることは、別のことです」。

『長崎市長への7300通の手紙』編集を終えて追記

 これはそのまま、例えば「朝日新聞社」に記事の内容や投書の取り上げ方に関して、抗議の電話をしたときに返ってくる回答と全く同だ。——しかし、朝日の記者は雇われている。この編集者はこの出版社の経営者でもある——。

 「……私達はこの本の刊行を、市長さんとは違った立場から、ぜひとも実現しなければならぬのではないか」「著作権は、書き手1人1人に属するものです。著作者の同意があれば、本の刊行に支障はありません」」「刊行は本島市長と全く無関係に、径書房単独の責任となります(法的には何ら問題のないことを確認いたしております。

『長崎市長への7300通の手紙』編集を終えて追記

 というような内容で、改めて手紙の主に同意を取り直し出版された。法律的に問題がないことを強調しながらの、掲載同意を改めて求める手紙には、市長が出版社を信頼して自分に宛てられた手紙のすべてを託したことに対する、一片の道義性もない。ただ「これを出版すれば評判になる。売れる」との自分勝手な思惑だけが先行している。そして最後に、掲載を同意する旨の返事に添えられた手紙——本島氏が出版を延期して欲しいと言ったことを非難するもので、それは本当にひどい、とくに、本島氏に反対意見で、掲載を同意した人のものは、ここまで掲載する必要があるのかと思うような内容だ——掲載している。

 こうして発行された後、この本に掲載された手紙の内容に関して部落解放同盟から「被差別部落に対する差別と偏見を助長、拡大するものだ」と、増刷分からはその手紙を削除する旨の申し入れがあったということで、増補版が出された。その増補版に添えられた、手書きコピーの手紙には「……、解放同盟と話し合いを続け、ごらんのように初版をいささかも改変することなく、小社と解放同盟の見解を併記して増補版として刊行する決着に到りました」とある。「決着」、確かにそうかもしれないが、解放同盟が申し入れた切実な問題からいえば、この言葉はそぐわないし、決して「決着」なんかしていない。
 この問題も、この本の編集方針の誤りから必然的に起こってきたことだ。増補版として付け加えられた「この本の編集方針を再検討する」でも繰り返し述べられている救いがたい編集方針。「……本島市長発言への支持意見、あるいは反対意見の、いずれか一方の側に立って編集したものではありません」との編集方針である。解放同盟が事実に反しているし、差別を助長するとして「削除」を要求した手紙も、この編集方針によって敢えて掲載したと言っているのだ。

 「……ことをおこさぬためには、この手紙に目をつぶるにしくはない。……」しかし「……その意見や見解の故に、編集者の判断をもって規制し、封じることが、許されるだろうか。……」と問い直し掲載に踏み切ったという。この編集者は、本島氏に宛てられた手紙に対する主体的な意見というものを、持ち合わせていないのだろうか。それに、そもそも7300通余りのなかからすでに、本島氏の孤立した立場を少しでも守り、彼の側に立ってともに闘おうという編集方針ではなく、「書き手の人生そのものを背負う重みを持つもの」という編集方針のもとに、しかも、編集者がそう判断したものを掲載することにしたのではないか。現に、解放同盟は削除を申し入れた手紙に関して「……いったいどんな人生を見せてくれているのでしょうか」と疑問を投げかけている。
 出版という行為そのものが、ある立場の表明なのではないだろうか。いや出版を離れても、本来どちらの側にも立たない立場は、存在し得ないのだ。二重にも三重にも矛盾したこの編集方針と開き直りに、いささかうんざりする。

 この本は本島長崎市長に宛てられた私信を素材にしているだけに、編集方針によって大きくその質が変わる。それだけに、出版社の姿勢が巌しく問われ、とにかく出版さえすればいいというものではない、にもかかわらず……。

 「この本は、刊行すること自体が、言論、表現、出版の自由の主題を担い、その主題に対する実践としての回答でもあるので(『長崎市長への7300通の手紙』増補版「この本の編集方針を再検討する——部落解放同盟の抗議と要求を受けて」)。
 この編集者の、自分たちは言論出版の自由の場を読者に提供したのだという一貫した驕りは、どうやらとんでもないところまで来ているようだ。編集方針のいかんにかかわらず、出版それ自体が「自由の主題を担う」ことなんてあるのだろうか。そもそもそんな問題の立て方は成立しないでしょう。出版というのは常に、社会との緊張関係の中でなされるものだという認識があれば……。
 1段高いところから「……出版社として場を提供できるような適切な機会が生まれるならば、それもまた大いに喜ばしいことだと思います」といった言い方じたいが、自由を求めるすべての人びとに対する冒漬だということに、早く気づいたほうがいいのではないだろうか。
 「自由」にかかわる問題は、誰かがその場を提供したり、与えられたりするものではない。その意味で、この出版社およびこの本は基本的な出発点が、間違っている。
 帯に書かれた大きな文字「天皇の戦争責任ある! ない!」冗談じゃない。「天皇に戦争責任は、あると思います」と答えたことによって、本島氏は脅迫され、殺されかけたのだ。

 先日、ある市民運動団体が主催する「君が代・日の丸」の強制について考える討論会に出席した。主催者代表が『長崎市長への7300通の手紙』に触れたので、終了後、出版方針に疑問がないか間いてみた。曰く「それは建前でしょう。党派的物の言い方の限界を体験してきている人だから……」と、編集者をさして言う。「あなたのような考えだったら、党派の機関誌以外はだめだということになってしまう」とも言った。立場をはっきりすることが党派的——私は党派的というのは、もっと別の問題だと思うけど——というのなら、私はそれでもいいと思う。でも「建前」云々で容認するのなら、沖縄戦を体験した校長が本音とは別に立場上「君が代・日の丸」を強行していくことに対して、批判できないではないか。このような人たちに、『長崎市長への7300通の手紙』は支持されているのだろう。
 余談だが、この主催者は討論の最後に「知っていたら黙っていられない事実がある」と言った。ほんとうにそうだろうか。だったらなぜ、高校生が日の丸を引き下ろして捨てたり、知花さんが日の丸を焼き捨てねばならなかったような事態が起こったのだろうか。沖縄戦における米軍の上陸地点であり、チビチリガマの体験を抱える読谷村で……。

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『蜚語』第9・10号合併号 P8

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今までの《蜚語》 これからの《蜚語》

編集発行人 遠藤京子

 遅れながら何とか発行してきた《蜚語》も、創刊準備号を出してから今年の11月で3年になります。このかん定期購読をしてくださった方がた、また、集会などでお買い求めくださった方がたに支えられながら、やってきました。おかげさまでバックナンバーも7.8 合併号を除いては、残部僅少となりました。あらためてお礼申し上げます。
 最近では、ミニコミを扱っている書店や取り次ぎにも参加して、少しずつ販売活動にも力を注いでおります。
 さて、このたび《蜚語》発行人である遠藤京子が、出版社・オーロラ自由アトリエを設立いたしました。ほとんど1人できりもりするつもりですので、なかなかたいへんだろうとは思いますが、複数の人が食べていくために、ただ評判だけを狙ったようなものを出版する羽目にならないよう、そのへんは引き締めていきたいと思います。
 出版社の設立にあたり、個人誌《蜚語》の発行主体および性格に関して、さまざまに考えました。また、それとは別に《蜚語》というタイトルそのものに関してもさまざまに考えるところがあります。
 
 〝蜚語〟は、「どこからともなく飛び来たことば. 誰いうと
 なく伝わった噂. いいふらし。 流言。蜚語」の意。

 《蜚語》をタイトルとしたのは、官製の情報に対するものとしての「流言蜚語」といった意味でした。それは、韓国の軍事独裁政権に抗する闘いのなかから生まれた抵抗の武器としての「流言蜚語」——金芝河の詩となって私たちに伝えられた——にあやかったものでもあり、日本の全共闘運動を担った人びとが、自然食と心とからだの解放へと流れて、対権力闘争から遠ざかってしまったことへの批判としてもありました。
 最近、釈放後沈黙していた金芝河が活動を開始しました。再開後の彼の発言や作品には批判こそあれ、共感するところは1つもありません。彼は、私がもっとも批判を持っている神秘の世界へ行ってしまいました。まさに、心とからだの解放を説いています。昨年出版された『飯・活人』を読み、愕然としました。これが「蜚語」や「五賊」を書いた人のものだろうかと。『アエラ』に掲載されたインタビュー記事を読んだとき、思わず「《蜚語》ってタイトル、変えようか」と、呟いたほどです。『中央公論』の中上健次との対談など、まるで神がかりで詩や小説を書いているといった内容です。
 反共世論確立のためにでっちあげられ、死刑判決後、即執行された「人民革命党」とされた人びと——金芝河に「苦行1974」を書きせしめたのはこの人びとではないか——、労働基準法を片手に抗議の焼身自殺した全泰壱氏、徐勝氏やかれの報告にあるように、獄中で死んだ非転向政治犯、いまだ釈放されずにいる人びと。林秀卿さんや文益娯氏、これらの人びとをはじめ、たくさんの闘う人びとの存在を、決して忘れることはできません。
 闘いは継続しているし、人びとは存在しています。この日本においては、闘いの場が人びとの目につきにくいところへ押しやられ、孤立し、少数化しています。——国鉄分割民営化と闘う人びとが押しやられた「人材活用センター」がそれを象徴している——一方で、2重にも3重にも、事の本質を見抜かない発言が、あたかも独自の発言かのような装いをもって流布しています。
 人びとが闘いを放棄したかのようなキャンペーンが張られようとも、《蜚語》は《蜚語》として、これからも事の本質を見抜いていきたいと思います。 金芝河がどう変わろうと、「流言蜚語」は存在し続けます。事務上の問題やその他のことから、発行主体の名称は次のように変わりますが、これからも《蜚語》をよろしくお願いいたします。
 今号力ら発行主体は「オーロラ自由アトリエ」となります。性格は発行部数からいっても、出版社が発行する雑誌としてはあまりに少部数です。かといって雑誌を発行するほどの財政力があるわけではありません。そこで、オーロラ自由アトリエの出版PR誌的な性格が多少入るかもしれませんが、できるだけ今までと同じように発行していきたいと思います。
 当初は全く別にすることも考えましたが、お金の出入りなども含めて、1人の人間が扱うにはあまりに繁雑となることもあり、以上のように落ち着きました。「なんだ、オーロラ自由アトリエの広告じゃないか」と思われるかもしれませんね。そのへんはどうぞ大目に見てやってください。
                            1990年9月

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特集 本島等長崎市長暗殺未遂事件

長崎、秋のきた日に——本島等長崎市長会見記

                    山口泉(作家/写真も)

長崎市の市電(『蜚語』第9.10合併号 p12 )

 1989年8月31日の正午すぎ、佐世保から長崎へと南下する大村線の快速シーサイド・ライナー7号の車窓から光にあふれる静かな内海の輝きを眺めながら、私はおのずからその1年余り前の不知火海の旅を思い出していた。だが、今回は1人。それも別口の仕事――遠藤京子の主宰している未完舎の副業の手伝いで出張、取材のため佐世保に1泊したあとの、いわば付録の旅である。
 前日、東京を出発するまえから、可能なら長崎へも足を伸ばしてみたいという思いはあった。ヒロシマ・ナガサキと並べて語られる被爆都市の一方、中国地方の大都市にも、前年、九州旅行の帰途、立ち寄ったのが初めてという、私はきわめて旅なれない人間だが、こうした機会にかねて念願だった、この西海の都市を訪ねられるものなら……と、考えてはいたのである。そしてそこはすでに9箇月まえから、もう1つ、あの本島等氏を市長にもつ街だという認識は、たしかにあった。
 もっともこのひそやかな願望すらも、ぎりぎりまで、果たして実現できるかどうか怪しく、予定の用事がまったく埒の開かないまま終わって、時間が奇妙に余ってしまうという成り行きのなかで、折り好く発車直前だった列車に飛び乗ったというのが実際だったのだが。最後に佐世保駅前で別れた、この商用の同行者たちは、水中翼船で長崎空港に乗りつけ、きょうのうちに帰京するというプランに話を弾ませていた――。
                               
 穏やかに拡がった青い海がそのまま光のなかに水平線を溶解させている宙空を、鵡が舞う。どこまで走っても、ただ海面と鴎しか見えない広大な風景。これが1597年、殉教した26聖人の護送ルートにあたっていたとは、あとで吉村昭氏の歴史小説『森』(文藝春秋社刊)を読んで知ったことだ。
 大村収容所で名高い大村駅をすぎたあたりから、いよいよ自分が長崎へ行くのだという思いがようやく現実のものと実感されてくる。カメラを提げている私に、斜め向かいの席の中年女性が話しかけてきた。聞けば、彼女もアマチュア写真家で、もともとステンド・グラスの研究をしているところから、長崎市内の教会建築の撮影をする旅だそうだ。
 「どうぞお気をつけて」
 「また、どこかで会うかもしれませんね」
 そんな挨拶を交わし、別れる。
 長崎の1つ手前の浦上駅で降りることまでは決めていた。夕方までの時間に爆心地、平和公園、原爆資料館等の周辺をめぐり、投宿。翌日、市の中心部を抜けて、大浦天主堂をはじめとした市街南部の史蹟をめぐりたいというのが、私の当初の目論見だった(ちなみに、この手の計画がうまくいった試しは、私の場合、ほぼ皆無に等しい)。
                
 浦上駅に降りたのは午後の猛暑も盛りのころで、あまりの暑さに風景全体が露って見える。長崎の地形のせいもあり、自分が光の鍋の底で空煎りされているような気分――。そのなかを新旧さまざまの機種・路面電車がレールを軋ませてカーブしてゆく。私はもともと路面電車のある街が大好きなのだ。ここ長崎市では、その中央下部に電車停留所のホームが設置されていて、そこへも降りてゆく階段があるという構造の横断歩道橋をあちこちに見かける。
 駅前の公衆電話から急逮、最寄りのビジネス・ホテルを予約し、ついでに東京のある出版社にも電話。これはきょう予定されている別の用件の確認のためだった。
 宿舎にチェック・インした後、外へ。手近の店でおそろしく安くて旨い長崎チャンポンと餃子を食べた後、東京から持ってきた、奥附にもう10数年も前の発行年月日の刷りこまれた『長崎•平戸・五島列島』とかいうガイド・ブックを頼りに歩き始める。
 このころから、昨夜来のある思いが再び頭をもたげてくる。昨日、佐世保のホテルにいたときから目にしていた長崎県の地元紙の、1面・下の方には県内政界要人のその日のスケジュールが明示された欄があった。その最初の方を見て、
 〈ああ、本島氏はいま市内にいるのだな……〉
 と、その事実を漠然と心のどこかで意識していたのだが、荷物をフロントに預け、カメラ・バッグだけを提げてもう一度、陽炎のたちこめる市内に飛び出すと、いよいよ明確に像を結んでくる感じがする。
 〈この空の下、本島氏がいるのに、このまま明日俺はむざむざ帰ってしまうのか……!〉
 実にもどかしく残念な思いがするのだが、一般的に考えても県庁所在都市の市長が、こんなどこの馬の骨とも分からない人間にたやすく会ってくれるとは思えない。まして本島氏は、その当時はいったんやや鎮静に向かっていたとはいえ、前年暮れの市議会での発言以来、右翼の攻撃を一身に浴びていた人物である。
 〈せめて電話だけでも……〉そんな思いもあった。実はそれ以前に一度、東京から市長室に電話を入れたことがある。それは本誌別稿にも登場する信濃毎日新聞・タ刊連載中のブック・ガイドに名を借りたエッセイ《本の散歩道――同時代のページから》で、89年度だけで結果的に6回、氏について論じることになったうちの1つ、氏が表敬訪問に訪れた韓国の被爆2世のグループに、おそらく日本の政治家としては初めて公式に謝罪したという、そのニュースの内容について確認するためだったと記憶する。この前月、7月中のことである。
 その際は出られた市長室秘書課の方から電話がそのまま福祉部門の被爆課の方にまわされてしまい、用件は済んだものの本島氏に直接、ご挨拶することはできなかった。場合によっては……と、申し上げたい内容のメモも作ってはいたのだったが。
 その漠然とした思いをもてあましたまま、とりあえず急いで長野市内の信濃毎日新聞・文化部に電話する用件をかたづけることにする。次回の「科学論」について考察する記事のカットに、なんとかそのころまさに太陽系を離脱しようとしていた惑星探査衛星ポイジャー2号からの送信画像を使用してもらうことはできないか。それだけの話をしていったん受話器を置いてから、不意にまた、この都市にもう2度とくることはないかもしれないという考えが切実に迫ってきた。
 ——いま日本で、この同時代に生きる政治家として、また1人の人間として、これほどまで自分がその動静に関心を持ち、人格と思想に敬意を払っている人物に出会う機会を逸することはあまりにもったいない。このかんに氏の名前をタイトルに冠して刊行された書翰集がいくら悪質なものであったとしても、それは氏自身とはなんの関係もないことだ。一方、私もまたその出版社との関わりはいっさい消滅している……。
 私は氏と会見する努力を試みることを決意した。
                
 手立ては、とりあえずそれまでの信濃毎日新聞・連載で本島氏について書いた分の掲載紙は漏れなく送ってもらうよう、そのつど依頼してきてはいた——その関連以外にない。
 受話器を置いて出て50メートルほど歩いていた私は、意を決して電話ボックスに引き返し、いったん財布にしまっていたテレフォン・カードを押し込む。
 もう一度、信濃毎日新間・文化部に連絡、確認。担当者は鷹揚な調子で「ああ、たぶん送ってるはずだよ。このあいだも、市長さんからお礼の手紙がきたから」(!)との返事。なんということだ、私のところへはこなかったぞ。もっともこちらの住所をご存じないので、無理はないか。
 「では、お読みいただているわけですね」もう一度、念を押し「実はいま長崎で、せっかくなので本島さんにお目にかかれればと……」というと、担当記者は、
 「それじゃ、市長さんに会ったらよろしく伝えておいてね」
 と、のどかな返事。
              
 心に迷いが生じ、臆してしまわないうちに……と、受話器を持ったまま、ボックスの棚の電話帳を掴み、巻頭にまとまっている市関係機関のページを繰る。そのときの、古い電話帳のヘりが丸まってめくれ上がり、陽射しに熱くなっていた感じは、いまも指先に残っているようだ。……あった。市役所——。秘書課の番号にかける。
 「——はい、秘書課です」
 自己紹介し、用件を伝える。「本島さんを表敬訪問させていただき、一言、ご挨拶したくて……。ほんの5分か10分で結構ですので。
 果たしてこんなことで面会ができるものだろうか。
 「ちょっと待ってください」電話口の向こうの方が、別の人に電話をまわす気配。その相手に再び同じ内容を説明することになる。すると、
 「お待ちください」と言われ、数十秒。再び電話口から、
 「いつまで長埼におられるのですか?」
 「明日。明日いっぱいで東京に戻ります。新幹線の都合があるので」
 「では、明日の午後は?」
 「午後、早めの時刻をお願いできれば……」
 「では1時少し前に、市役所の方にいらしてください。市長がお会いしますので」
 信じ難い思いだが、これでともかく会見は設定されてしまったのだ。私自身、茫然としながら電話ボックスを出る。
                
 このあと平和公園を歩きまわり、写真撮影。しかしその大半——とりわけ世界各国から市に寄贈された被爆者慰霊のモニュメント類のそれは、翌日中島さん(後出)からいただく豪華本に同じモチーフが収録されていて、無駄になる。長埼原爆の資料は長崎市によって、平和公園から坂を下った国際文化会館・原爆資料センターに展示されている。
 一見したところマンションとも見える、薄い6階建ての建物で、広島の平和資料館のような独立性をあまり感じさせないが、内部展示は質量ともにまったく見劣りしないものだ。
 1階・2階……と体系的に区分された展示を観覧し、原爆関係資料スペースの最上階、長崎市と国際的な反核平和運動のつながりを中心に構成されたコーナーでは、本島氏がすでに就任直後から、被爆都市の首長としてきわめて活発な活動を内外に展開してこられたことを知る。
 閉館まぎわ、出口の自動販売機で資料集『ながさき原爆の記録』(長崎市編/長崎平和推進協会発行)を買う。これは定価400円ほどだったはずだが、質量とも非常に充実した、優れた資料集。既存の商業出版社からのものでも、これに匹敵する本を見出だすのは難しいのではないか。

『原爆の記録』表紙(『蜚語』第9.10合併号 p12 )

 挟みこまれていた英文並記の『長埼平和宣言』は昨年(88年)の8月9日のもの。市長就任以来10年にわたって本島氏が出しつづけてこられているこの宣言のなかでも、特に今年(89年)のアピールは、さらに日本のアジア諸国に対する責任を明確にし、外国人被爆者の援護を訴え、環太平洋地域を非核地域とするヴィジョンが明確に打ち出されたものとなっているはずだった。(註)

 (註)周知のように、本誌が読者のお手もとに届く時点ではすでに1990年8月9日の『長崎平和宣言』が発表されている。この89年のアピールでも語られてはいた外国人被爆者への謝罪と日本政府に責任が存在することの表明、加えて被爆者援護法の早急な制定が必要であることの訴えをも盛りこみ、海部首相らも参列の席で語られた90年版アピールは、従来にも増して国際的に大きな反響を呼んだ。薄暮の浦上天主堂周辺を歩き、坂を下ってもう一度、公園方向へ戻る。《平和の泉》を隔てて、噴水の影に浮かぶ、例の北村西望作の彫刻を、一応バルブで写してみる。山口幸子氏(当時9歳)の作文が刻まれた噴水前の碑は、そのままテレフォン・カードとなってさきほどの原爆資料センターでも販売されていた。

のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました

《平和の泉》噴水前の碑文/山口幸子氏(当時9歳)

 観光用に簡略化された地図の曖昧な表記に悩まされながら、その日の最後の目的地と考えていた、鬱蒼とした木立ちに囲まれた爆心地の標にたどりついたころには7時半を過ぎていた。歩き疲れ、ホテルに戻る。東京から一本電話がきていた。

原爆句碑(『蜚語』第9.10合併号 p12 )

 夜半、遠藤京子に電話。別の知らせのあと、本島氏と連絡がついたことを告げると、びっくりし、羨ましがる。
              
 1989年9月1日——。雨。
 昨日の眩ゆい晴天、皮膚の焦げるよぅな猛暑はどこにいってしまったのだろう。雨のその冷たさと、激しくなったり弱まったりの波を持ちつつ絶え間なく降りしきるさまはまさに秋雨といったところだったが、それに凄まじい強風が伴う。颱風がきているのかもしれない。
 ホテルをチェック・アウトするとき、傘を買うが、外に出て市電の停留所まで歩くうちにあっさりひしゃげてしまい、ほとんど用をなさなくなる。本島氏と会見予定の午後1時まで、3時間たらず。それでもなんとか当初の予定をクリアしようと、市電を乗り継ぎ、大浦方面へ。
 売店で2本目の傘を買ってから、大浦天主堂からグラバー邸を、次第に激しさを増す風雨のなか、急いでまわる。堅い石畳の感触が靴底に心地良い。
 大浦天主堂の、この教会建築の素晴らしさについて、本稿では多くを語る余裕がないのが残念だ。内部装飾、収蔵美術品の類についても——°
 正面玄関ファサードの階段を登りつめた入り口に件つマリア像は、やや大げさな言い方をすればミケランジェロのローマ・ピエタを連想させる清楚で美しい彫刻である。
               
 大浦天主堂の手前には、関連施設としてキリシタン博物館もあった。江戸時代のみではない、明治に入ってからも行なわれたキリシタン弾圧(浦上四番崩れ他)の記録と資料。本島氏の祖父の脚に生涯、癒えることのない損傷を負わせた拷問とは、この時期のものだろうか。
 道を隔てた女子パウロ会の売店で、26聖人殉教の地のテレフォン・カードと雑誌《聖母の騎士》9月号、それに聖母子像の聖画を一枚、買う。いかにもスペイン・バロック的な、石版刷りの味わいの漂うこうした民衆版画風の聖画は、もともと私が幼ないころから好きなものだった。その嗜好は、対象を宗教的図像として観ているというよりも、たとえば同じ年代に少年週刊誌・巻頭口絵の《カラーとくべつ大図解》のイラストに昂奮したりしていたときの感情などに、むしろ近い。
 余談だが、私の他のモチーフの例に混れず「10年以上前から構想し草稿ができながら、いつ発表できるか分からない」作品の1つ『小さな奇蹟』という短篇は、田舎の子どもとこの種の石版刷り聖画の出会いから始まるもの。
 一方、《聖母の騎士》9月号は、なんと本島氏が巻頭言『アウシュヴィッツ展を見て』を寄稿されている。

 人生を全うせずして殺された幼い命や若い生命は死んでどうなるのだろうか。残された肉親の思いはどうだろうか。特にコルペ神父様のように他人の身代わりとして死んでいった人達はどうなるのだろうか。

本島等『アウシュヴィッツ展を見て』
『聖母の騎士』表紙 『蜚語』第9.10合併号 p19

 《聖母の騎士》は1930年、大浦天主堂近くで創刊。創刊者はポーランド人宣教師マキシミリアノ・コルベ神父。いうまでもなく、アウシュヴィッツで身代わりの餓死刑により殺された人物である。氏は日本での布教後、1936年にポーランドに帰国、まもなくナチスに逹捕され、1941年8月14日死去した。
 同号編集後記によれば、本島氏と同誌との関わりは40年に達し、1952年2月号に『罪の悔みのために』、同3月号に『社会奉仕の第一歩』を寄稿されているとのこと。午後の会見にそなえ、早めに食事を済ませておこうと、眼鏡橋にほど近く〝長崎の中華街〟といわれる界隈で、長埼チャンポンを食べる(こうしてみると長崎滞在中、私は長崎チャンポンばかり食べていたようだ)。開店直後で、客は私だけ。
 店を出る正午ごろ、いよいよ風雨は激しさを増し、大浦で買った2本目の傘もすでに用をなさないありさま。その嵐のなかを、無謀にも市庁舎のある桜町方向まで、眼鏡橋を含む見事な橋梁群がかかる中島川ぞいに歩いてゆくことにする水量は増し、流れも速い。死者・行方不明者262名を出したという82年7月の大水害をはじめとし、長崎が治水に悩む街だというのは、周辺の地勢からいってもうなずける話だ。この眼鏡橋はじめ中島川のほとんどの橋が、その水害で流失し、後に再建されたものである。思ったより早く市庁舎らしき建物を望む地点に達するが、すでにこのころには全身がずぶ濡れとなり、カメラやフィルムを収納した革製のバッグの肩かけベルトの染料が、シャツにべったり染みつくありさまとなる。びしょ濡れで着替えも使いはたしていたため、惨滋たる風体。 靴の中がすでに洪水で、1足歩くたびごとにチャプチャプ水が噴き出すのだ。ずっと気にはかけていたのだが、ここまで機会がなく、まだ手土産の品が用意できていない。果物でも……と思っていたのだが、この先、市庁舎までそれらしい店もなさそうなのだ。それを訊きがてら少し体勢を立て直そうと入った喫茶店でも、海から上がってきたような私の入店にほんの一瞬、困った顔をされてしまう。結局、また大通りまで逆戻り。最初の菓子屋で折りを買う。手土産としてはあまりに安直な選択だが、まあないよりはましと、銘菓《居留地境》。長崎らしい命名が気に入ったそれは、要するに品の良い金鉗である。ここにいたって当初、市庁舎だとばかり思っていた建物が水道会館(?)だとかいうことが分かり、あわててその建物の建つ丘を1つ越える。なんということ! 

眼鏡橋

 ほとんど知られていないことのようなので、これはぜひ言っておかねばならない。88年暮れの市議会での「天皇の戦争責任」発言以来、本島氏のもとに届いた手紙や葉書、電報等を編纂し、出版するということ計画は、そもそもその直後、本島氏自身が示唆されていたことである(《ジャパン・タイムズ》88年12月16日附・参照)。
 これを見て私は、氏の発言が報じられた際の「〝革新勢力〟がこぞって骨抜きにされている渦中で、よりによって自民党の市長が……」という思いにまさるとも劣らず、本島氏のジャーナリスト的な感覚の卓抜さに舌を巻く思いがしたのだったが、こうした計画がその後、氏の本意と想像しうるかぎり最も隔絶した形で商業出版社に利用され、強行されることになるとは、おそらく氏自身も予想されていなかっただろう。
 あるいはもともと氏は出版というより本作りに関心の強い方だったのかも知れない。翌日お訪ねした市長室の蔵書に埋め尽くされていたありさまもそうだったし、以前ある雑誌での鎌田慧氏のインタヴューによれば、御夫妻で結措何10周年記念だったかの自費出版も計画されていたという話ではないか。
 これが商業出版社の快挙であるかのように喧伝され、その経営者が奇怪にも——しかも自身はなんら危険のない立場に終始いつづけ、本島氏を追いつめたにもかかわらず——〝言論の自由〟を象徴するスターであるかのようにマスコミに登場しつづけているさま、そしてその何ら正当な根拠のない特権的立場から、天皇および天皇制に対しても、また〝言論の自由〟論議に対しても、まさに日本的情緒主義に満ちた反動の極みというよりほかない害毒をたれ流しつづけているさまは、まさに現在のメディアの救いがたい頽廃衰弱を具現した、嘔気のするような醜悪な光景といわねばならない。
               *
 なぜ、1人の人間としてではない、それらの人びとの営みの上に、たとえば〝編集者〟と称する特権性の仮面をかぶって君臨しようとする、たえず権力欲と自己顕示欲につき動かされたおぞましい精神が君臨しようとするのか。〝7300通の手紙〟を〝編集〟し、1ベージ1ページの端にいたるまで、「これは自分が編集した」という断り書きの臭気をみなぎらせて1冊の〝書物〟を刊行することより先に、あの当時の状況下、何をおいてもとられるべき行動は、自分が氏を支持する市民の1人として、まず1通の手紙を書くことだったと私は考える。いかなる事態が起ころうとも、民衆の1人として、その輪に自らを投じようとは決してしない、一瞬のたえまもなく己を唯一の中心として、特権的な存在としてしか主張できないボス型精神の低さ、貧しさ!
 その《ジャパン・タイムズ》記事を見るなり、ただちに私は自作の植物のデッサン・コピーを貼りつけた手製の絵葉書を、遠藤京子は手紙を出していた。遠藤などは「ああ、もっと早く出せばよかった。もう、間に合わないかもしれない!」と冗談で嘆いたいたのだが、まさかその本がああした出版社の手により、あのような形で刊行されてしまうことになるとは、当時は誰1人、予想できるはずもなかった。
 ただ、いずれにしても氏の発言から2週間とは経たない時期に、まず設初の手紙を書き送ったことを、私は1市民として誇りに思っている。
               
 長崎市役所前の歩道橋は、この街の典型的な地形をうかがうことのできる場所だ。市電が急カープして坂道を昇り降りするその橋を渡ると、降りた場所はそのまま市庁舎の玄関となっている。
 そのときはむしろ入ってゆく私に対して何か、チェックする担当者がいないことに意外な思いもした、その地方自治体の庁舎によく見かける建物の玄閲が、半年たらずのちTV画面で生なましく映し出されることになるとは予想もしていなかった。
 昼休みの終わり近く人の流れの激しいロビーを抜け、エレベーターで2階へ。湿った廊下に長靴や傘の匂いが立ちこめる。むしろ昼休み時間の方が良いのか、なんら判断のつかないまま、気がつくと12時50分。私は市長室を中心とした、その一角に通ずる廊下を曲がってしまうことになる。
               
 「市長室」「秘書課」と案内板のとりつけられた廊下の突き当たりには白布のかかった長机をまえにして二人の職員が腰掛けている。ここで、この先の区画への人の出入りをチェックしているらしい。
 来意を告げ、漆塗りの盆に名剌を置く。すぐに秘書課の部屋から別の職員が出てき、案内されたのは左側の……どうやら会議室とおぼしき広い部屋だった。巨大な置物や衝立が置かれ、壁には歴代なんとかの肖像写真の額が並ぶ。
 「こちらでお待ちください」との案内者の言葉に、私は安心しきって鞄からカメラその他の荷物を取り出し、すっかりテーブルに並べてしまう。土産の入った手提げの紙袋はすでに濡れて底が抜け、包みが飛び出しているありさまである。
 女性職員に出していただいたお茶を吹き冷ましながら、ともかくこの雫をなんとかしなければとタオルで頭をこすっていると、背広姿で眼鏡をかけた方が入ってこられる。この人は——本島氏ではない。40代後半くらいの、にこやかな微笑をたたえた人物だ。

  長崎市総務部広報課長中島吉盛

 と記された横長の名剌は、左半分が四色刷りになっていて、『唐船入津乃図』という、そのタイトル通りの古版画があしらわれている。
「どうも……」
 相変わらずにこやかな笑みを絶やさぬまま、会釈し私の向かいに腰をおろした中島さんだが、心なしか緊張されているのが分かる。無理もない。ふだん市庁舎には滅多に見かけないようなラフな身なりの髭もじゃの男が、ぐしょ濡れで、いかにもうさんくさそうに姿を現わしたわけだから。
 「この、未完舎というのは、どういったお仕事をされているわけで……?」
 携えた黄色い表紙の大学ノートを開きながら、中島さんからの質問。私はここでもう一度、一通り自分のことと、今回の訪問にいたった敬意を説明する。
「ははあ。それで、きょうはやっぱり——例の発言に関係した件で……?」
 たしかにそれはそうなのだが、またそれだけではないという漠然とした思いもある。私の答えはたぶんひどく曖昧だったろう。
 中島さんはそれでも納得したようにうなずいて、「では、一時に市長がお会いしますので、もうしばらくお待ちください」と言い残し、立ってゆかれる。
 その午後1時——。私はてっきりこの会議室に本島氏がこられるものとばかり思っていたのが、いきなり別の扉が開き、中島さんから
「どうぞ、こちらへ」
 と声をかけられてしまって、ひどくあわてることになる。なにしろ荷物はすべてテーブルにひろげっぱなしになっていたのだ。結局カメラと土産の包みだけを掴み、そのままドアの向こうへ。そこが市長室だった。
               
 そんなに広くない、奥に向かって長い部屋——° その突き当たりに執務机が置かれ、手前に応接セットが並んでいる。応接テーブルのいちばん向こうのソファにこちら向きに軀を沈め、前屈みになって下を覗きこんでいるのが……まぎれもない、長崎市長・本島等氏だった。
 白い長袖のYシャツに細かいチェックの柄の入った鮮やかな青のネクタイ、濃紺のズボン。シャツの袖口はきちんとカフスで留められている。
 胸ポケットに1本、万年筆を差しているのとは別に、手にも水性ボールペンを持って、それをときどき反対の手に持ちかえている。私の入ってきたのにすぐには気づかれない様子で、まだ顔は上げられない。そのあいだに、私はすばやく室内を見回した。
 何か、まったくありふれた日本の政治家の部屋という感じがしない——そうした雰囲気から決定的にへだたっている感じを与えるのが、室内を埋め尽くした本の量だった。壁の本棚ばかりではない。道路を見下ろす左手と突き当たりの窓の下の長大な作りつけの棚はすべて2重3重に本が収まっているし、大きな執務机も、また応接テーブルの上にまで、本や雑誌の山がいくつも築かれている。15年戦争関係・天皇論関係の文献が厖大な量に達していること、また『原爆文学全集』全巻の揃っているのと、これはおそらく原爆投下前後のものなのではなかったろうか(未確認)、長崎市を真上から撮影したモノクロの航空写真が大きなパネルになったものが床に立てかけられているのが——目を惹いた。
 私をうながして中島さんも席につかれる。テーブルのこちらの角の位置に腰掛けて、もう一度本島氏を見やると、氏がさきほどから目を落とされているのが中島さんを経由して届いたものらしい、私の名剌であることが分かった。
 そのとき、ようやく本島氏は顔を上げ、唇の端をやや引くようにして、
「そんな遠くに座らんと、もっとこっちへ」
 そう、かすかにあきれたような笑いを含んで手招きしながら言われた飾り気のない乾いた声は——まさしくTVで聞きなれた、あの長崎市長その人のものである(当たりまえか!)。
「離れてちゃ、話ができんでしょう」
そうは言っていただいたものの、私としてはびしょ濡れの全身から滴り落ちる雨の雫が気になってしかたない。
「はい。それでは……」
1メートルほど氏に近づくと、
「もっと、こっちへ」
「はい——」もう1メートルほど。
「……もっと!」
 結局、本島氏の隣まで行ってしまうことになる。そこで、改めての御挨拶。
 本島氏の名剌は——これは凄い。厚手の紙の中央にただ一行(4ミリ4方の字で)「長崎市長」、つづけて(8ミリ4方の字で)「本島等」と刷られているのみ。ほかには何もない。しかし考えてみれば、これで十分用は足りるわけだ。
中島さんはテーブルのいちばん端にこちら向きになって、さきほどと同じ黄色の大学ノートをひろげ、ボールペンを執られる。どうやら、私たちの対話を記録されるおつもりのようだ。
「このたびは突然のお願いにもかかわらず、お忙しいなかをお会いいただきまして……」
 まだ足が地につかない感じの私は、いま一度くどくどと面会を快諾いただいたお礼を述べる。「天皇の戦争責任」発言ばかりでなく、たとえば長崎市が主催してきたミス・コンテストに対しても女性差別だと指摘・批判されたような、自由と平等、人権の問題をめぐる、まさに日本には稀な全体性をもった政治家だという意味の賛辞をお伝えしたかったのだが、私の言い方が性急になってしまったようだ。
「ああ。いやいや——」本島氏は無造作に手を振られる。
 雨の匂いのこもる市長室。こうして氏との会見は始まった。
「やはり、あの発言以来、多くの方が訪ねてこられているという話を読みましたが……」と私。
「昨日は新谷のり子さんが見えましたよ。巨きな花束を持ってきてくれて——」
 本島氏は言い、中島さんに同意を求める。「なあ。新谷さんの花束、ほんとにでかかったよなあ……?」
「はあ」
 うなずきながら、ボールペンを手に私たちを見比べておられる中島さんは、本島氏の傍らでこうして氏の歴史を共有することに、ある誇りを持っておられるようだ。
 私はいつ菓子折りを出そうかと思案しながら、「天皇の〝下血〟騒動の渦中で、政治家という立場にある方があのような意見を述ぺられたということ、それはほんとうに素晴らしく、私も日本の1市民としてありがたいことだと受け止めました」昂奮のせいか、私の話はあれこれ前後している。
「いや。あの発言にしたって、いつも思ってることを、ごく当たり前のつもりでぼそぼそ言っただけで……それがまさかあんなことになろうとは」
 本島氏は言い、それからやや声を強めてつづけられた。 
「しかし、あのときはあれが自分の精一杯の率直な気持ちだったんだが……その後いろいろ考えてみると、あれではまだ足りなかった。あれではまったく不十分だった。私の認識はあまりに浅すぎた」
「と、おっしゃいますと——」
「あの発言をした段階では、私はまだ日本人のことしか目に入っていなかった。自分自身の体験を中心にした、日本人の気持ちから天皇と戦争のことを言ったに過ぎなかったんです。ほんとうはもっとアジアの他の国のこと、他の国の人たちのことを考えなきゃいけない。たとえば原爆、原爆といっても、同じ日本で被爆した韓国・朝鮮の人たちのことは誰も言わない。それから日本の軍隊が中国や東南アジアヘ行って何をしたか。南京やシンガポールやマニラで大虐殺をしたり、ビルマの泰緬鉄道の建設工事でだって、イギリスの兵隊の捕窟をいっぱい殺してる……」
 本島氏は顔を上げ、淀みなくつづける。88年12月の市議会での、あのジャーナリスティックには一躍、氏の名を全国に知らしめた発言と、その直後の戦中派クリスチャンとしての御自身の体験からの実感的な話だけでは必ずしも問題の全体を伝えるものではないというお気持ちは、氏に相当強いらしく、以後ずっと文献的にも天皇と日本の戦争責任を研究・追及しようとする姿勢を持続しておられるようだ。
「すると、それは最初の『天皇の戦争責任』の御発言の内容をより深められた、ということになるわけですね」
 私としては話の流れのなかでの何気ない確認のようなつもりだったのだが、考えてみればこれはいささか無躾なもの言いだったかもしれない。
「それはまあ、前は浅かったということがわかったんだから、『深まった』といえば『深まった』ことになるでしょう」と、本島氏。
 〈まったく、俺は何を無意味な質問をしているんだ!〉
 私は自己嫌悪に陥りながら、あたりを見回す。私たちの談話を一身に筆記されていた中島さんが顔を上げ、こちらを見る。 
 速記でなく、むろん談話のすべてが逐語的に写されているわけではないのだろう。それでも本島氏と私のどちらかが口を開くとたちまち膝の上のノートに動き始める、中島さんのボールペンを持つ手もとは見えない。
 それにしてもテープルにも机にも、厖大な本の山だ。レースのクロスのかかったテーブルにさながら多島海のように積まれた天皇論関係の資料を眺めながら、私とはふとあることを思い出した。
 「……そういえば、丸山邦男さんという批評家の方がいらっしゃいますね。以前、何かの雑誌に本島さんの写真が載っていたときに、御自分の『天皇観の戦後史』が本島氏さんのお手もとに写っていて、どうも読んでくださっているらしいということを、とても喜んでおっしゃっていたそうですよ」
 それは私が遠藤京子から聞いた話だった。後になって確認したところでは、たしか丸山氏の知人がその雑誌を見、氏の著書の背表紙が見えていたことを連絡されたものらしい。その経緯を、遠藤は丸山氏から直接うかがっていたのだった。
 《蜚語》第3・4合併特別増大号『現代天皇論の変質』総力特集の講演(1988年4月16日)にもおいでいただいた丸山氏は、一部〝進歩的〟メディアによって作られた貧弱な〝エリート知識人〟たちによって終始、骨抜きにされつづけてきている戦後論壇のなかでは、〝知識人〟が〝知識人〟とされる、その根拠自体を嫌悪し嘲笑する力をもった、稀なジャーナリストである。76年に刊行された『天皇観の戦後史』(白川書院)は、氏の独自の〝戦後天皇制国家〟論が展開された興味深い本で、また同書については《蜚語》創刊第1号に遠藤が書評を書いてもいる。88年の《蜚語》主催講演『天皇観の戦後史・1988』もまた、同書のいわば〝続編〟にあたるものだったということができるかもしれない。
 氏はまた「いずれ機会を作って長崎を訪ね、本島さんに面会したい」意向も遠藤には漏らされており、それも併せて本島氏にお伝えしておく。丸山氏は本島氏を「同世代者として、非常に気になる方」と表現しておられた。
 なお、本誌に並載の論考『精神の自由を頗廃させるものは何か?』の第1部として再録した信濃毎日新聞•発表のエッセイ『精神の自由を退廃させるもの』の末尾に出てくる批評家は、この丸山邦男氏である。
 「ああ、読んでます。丸山邦男さんという方は、ほんとうに偉い方で……すごい学者です。大変な人だ」本島氏は大きくうなずきながら、言われる。「すごい学者」というのは私にとってはむしろ氏の兄・丸山真男氏の方のイメージで、邦男氏にはもう少し反体系的で危険な不良性の匂いが感じられるのだが……しかしそれをも「学者」と捉えられるところは、逆に本島氏ならではの庶民的な感覚なのかもしれない。
 いずれにしても丸山氏が居合わせたら、この本島氏の言葉にはさぞ喜ばれたろう。この件は、その後、90年3月になって丸山氏の御自宅に近い鎌倉の〝非文化人スナック〟で直接お伝えしたのだが、氏は最後まで半信半疑の、しかし非常に嬉しそうなご様子だった。
 「昨日、初めて行った国際文化会館(原爆資料センター)の4階の展示で拝見したのですが、本島さんは『天皇の戦争責任』発言で全国的な脚光を浴びられるずっと以前から、反戦や核兵器の廃絶のために内外で大変な御尽力をされていることを知って、改めて敬服しました」私の話には脈絡がない。「ああ、いやいや……」
 本島氏はその印象深い濁み声で小さく呟かれる。
 前述した通り、実際センター4階の『長崎市の平和への取り組み』のコーナーを見ると、本島氏が79年の就任直後からいかに精力的に外国使節団と会見し、各種国際会議に出席し、大国の核実験のたびに抗議の電報を打ち、そして8月9日には日本の現職政治家としては類稀な歴史的展望と誠意に滴ちた真摯な『長崎平和宣言』を出しつづけてこられたかがよく分かる。それがたんに〝被爆都市の首長として〟といった、受け身の形式的なあり方を超えた洞察によるものであることは明らかだ。
 何だったかの(詳細は失念)テープカットをされている図、核拡散防止・核実験禁止に関する国際大会でスウェーデンを訪れ、当時まだ健在だったパルメ首相と握手されている写真のパネルなど、特に印象深いものがあった。それは本島氏の握手されている、その相手がほかならぬ世界的軍縮・平和運動推進者のスウェーデン首相であることがいっそうその写真の印象を好ましく鮮やかなものとしてくれたような気がする。
 パルメ氏は、80年代西欧圏の政治家では西ドイツのヴァイツゼッカー大統領らに勝るとも劣らないと、私の評価する屈指の人物だったが、1986年2月28日、ストックホルムの中心街で早朝の道路を1人で散歩中、暗殺された。新聞でこの記事を発見したとき、真に優れた政治家は皆、殺されるしかないのかと暗然たる衝撃を受けたのをよく覚えている。東京に戻ってからの最初の本島氏への手紙で、私はこの写真に触れ、書いた。

 ……展示パネルのなかでストックホルムを訪ねられた本島さんが、当時のパルメ・スウェーデン首相と握手されている写真を拝見し、思うところがありました。その後、パルメ首相はああした不幸な形でお亡くなりになったわけですが、そのニュースを聞いたとき、一方で一国の政治の最高指導者があのようにただ一人、早朝の街を散歩するというほどに民衆を信頼し、民主主義の理念を身をもって生きている姿勢には衝撃を受けたのを覚えています。 
 日本という、この形ばかりの〝民主主義〟の維持さえ困難な精神風土で、こうした政治家が現われることはないだろうと考えていた私に、昨年12月の御発言は響いてきたのでした。しかし、くれぐれもお気をつけ下さいますよう。本島さんにはいつまでもお元気で、ご活躍いただきたいと願っています。

東京に戻ってからの最初の本島氏への手紙

 「あの御発言の前後は、相当、この付近も緊迫した状況になったとうかがっていますが……」
 「いやもう、それはほんとうにひどいもんだった。朝から晩まで、窓ガラスがびりびり震えるほどスピーカーで騒ぎ立てられて……市民も、職員だって出入りすることもままならないようなありさまで」
 本島氏の言葉に、中島さんは微笑してうなずかれる。大きな窓ガラスから眺める下の坂道や、それを隔てた樹木に覆われた丘、あいだの道路を走る市電や市バス——。
 この風景に、当時ブラウン管で幾度となく目にした、陸上自衛隊風オリーヴ色の街頭宣伝車が白地の真ん中に赤丸のついた旗をなびかせてひしめきあっていた光景を重ねるには、むしろ意識的な努力を必要とするような雰囲気が、そのときにはあった。
「いまは、しかしもう……。いかがですか?以前のような脅迫やいやがらせは?」
 その前後の時期はちょうど、ひところに比べて右翼の目立った動向のニュースを聞かなくなっていたし、氏をめぐる状況が——「天皇の戦争責任」発言に関する限りは——奇妙な凪のような状態にあった時期だったともいえるかもしれない。
 しかし私のその言葉に氏が、
 「いや。まだなんとも……。分かりません。まだ、なんとも言えません」と言葉を濁されていたのは、後になって思えばきわめて暗示的だったといえる。
「ほんとうに、あの時期は大変なご様子でしたね。私はTVで観ていただけでしたが……」
 私の相槌には、かすかに懐旧諷をうながすようなのんきな調子すら、ともなっていたかもしれない。
 「あの頃はほんとうに——。市長が勝手なことをやって、という感じで、助役も収入役たちも……」
 本島氏はあまり具体的に語ることを避けようとされているようだったが、市議会での発言後、他の3役たちをはじめ市上層部でもかなり冷淡な空気が氏を取り巻いたらしいことをうかがわせる話をされた。この前後は周囲の離反もあり、孤立感を深められた最初の時期だったようだ。《ジャパン・タイムズ》88年12月16日附の「来翰集を編みたい」というご意向も、1つにはこうした気分のみなぎりが促した計画だったかもしれない。「後援会長が僕のところへやってきて——」
 本島氏は眼を閉じ、言われた。
「『本島、まあ窓の外を見てみろ。この右翼の車が埋めつくした街で、もう市民は歩くこともできず、赤ん坊を抱えた若い母親なんかが、真っ青になって震えているじゃないか。これもあれも、みんなお前が一言、〝申し訳なかった。私は間違っていた。あの発言は私の間違いでした〟——そう一言、言いさえすれば済むことなんだぞ。なぜその1言が言えない? なあ、もう俺が頼むから、お前、〝あれは間違いでした〟と、そう言ってくれよ』って——言うんだ」
 長崎は坂の多い……というより、坂のなかにできた街そのものである。市庁舎の周辺は坂で、周囲を市電と市バスがすがりつくように走っている。その狭い道路が埋め尽くされてしまえば、市の中心部であるというにもかかわらず、市庁舎は斜面に完全に孤立して包囲されてしまう形になる。そればかりか、周辺の交通網も寸断され、まったく都市としての機能を停止させられてしまうだろう。
 「市長として、市民に、そういうことをしていて良いのか?」そういった論法の、しかも市政内部からの攻撃が、いちばん氏には辛かったらしい。中島さんが私たちを黙って見つめておられる。
 「しかし、いくらそう言われても……」
 氏は静かにつづける。
 「私はキリシタンだから、もともと『寛容の精神』というものはとても大切だと思っています。しかしいまの時代は、本来赦してはいけないもの、認めてはいけないものでもなんでも、みんな受け入れてしまう、そんな〝悪い寛容〟に溢れてしまっている。だから俺はキリシタンだけど、そういう〝悪い寛容〟はするわけにいかないぞ——そう思って、頑張りとおしたわけです……」
 本島氏の口にされる「キリシタン」という言葉には、独特の響きがある。
 「いまはみんな、そういう〝悪い寛容〟ばかりして、自分自身がほんとうに譲れないということを何も考えない」
 本島氏の話は、そのしばらくまえの新天皇記者会見の際の質問内容に及んだ。
 「僕はあれにはほんとうに情けない気持ちになった。あそこで記者たちは『長崎の本島市長はこう言っているが……』といって、質問をしてるだけなんだ。なぜ日本の新聞記者は、自分自身の言葉でそれを聞かないんだろう。マスコミは、いちいち僕を本島をひっぱりださんでも、自分で、自分の名前で聞けばいいじゃないですか!」
 これは後で多くのメディアにも現われ、有名になった本島発言の1つだったが、私自身はこのとき初めてうかがったせいもあって、この言葉を発された瞬間に非常に強い印象を受けたことを覚えている。
 〝その一言〟「を口にすることを、万難を排してついに拒否しとおした本島氏にとって、自らを喪失した無制限の現実の受容と事後承認にあふれ、〝主観を棄てありのままを伝える〟報道姿勢や、〝左を出したら右も出す〟帳尻合わせで、〝公乎中立〟の演技と自らに危険が及ぶ事態だけは避けようと汲汲とするジャーナリストたちの「言葉」は、たぶん自らの言葉とはまったく違った種類の言語と感じられたことだろう。(註)

 (註)あげくの果て、彼ら〝良心的〟新間記者たちは、〝言論の自由〟を〝擁護〟するため、新天皇や新皇太子まで担ぎ出して、彼らに「言論を暴力で封じてはならない」などと語らせ、お墨つきをもらおうとしている。本末転倒とはこのことだ。

 すでに時計は1時半をまわっている。当初、せいぜい15分程度というつもりだった会見は大幅に延びていて、さきほどから1、2度、本島氏の様子を確かめに職員が入ってこられていたが、氏はまったく気にされる様子はない。
「××の方がたが、もうお見えですが……」
耳もとで小声で囁く職員に、腕組みしてちょっと考えてから
「ああ、よか。待っとってもらって」
「しかし、その後、××の方が……」
「ああ、よか。よか」言って、氏は何もかも呑み込んでいるというようにたてつづけに首を振られる。
 本島氏は時間をかなり苦労して作り、話をしてくださっているのが明らかだった。が、もうほんとうに余裕はないようだ。私は、ずっと本島氏御自身に直接うかがってみたいと考えていた質問をする時期がきているのを感じた。あまり脈絡のない話ばかりしていてはしかたない。
「ところで、あの——『長崎市長への7300通の手紙』という本のことなんですが……」
 言いかけると、本島氏も、それから中島さんも、どこかを身を固くされる気配が走った。
 「私はあの『7300通』という本は、何かまったく本島さんの感じたり考えたりされていたこととは、違ったものになってしまったんじゃないかという気がしてならないんですが——」
 「……」
 本島氏は顔を上げ、黙って私を見つめられた。
 「私は実は以前、径書房の〝願問〟ということをしていたことがあるんですが、すでにあの『7300通』が出る前に、別の事情から関係を断っています。また、もしその場に居合わせたら、ああした形で〝編集〟・出版されてしまうことには当然、反対したでしょう。ただ、ああした本が作られる病根のようなものは、まったく私がそのまえに関係を断つことになった理由と同じところに発していると思います……」
 ここまで言うと、
 「ほう!」
 本島氏が急に、それまでにも増して、俄然、身を乗り出してこられるように見えたのには鷲いた。
 私はまず、本誌に並載の『精神の自由を頬廃させるものは何か?』第1部に集約されているような、同書編集方針への批判をごく手短に述べる。もう1つ、このときには、同書と質的にまったく同根である、その年の春に放映されたNHK のスペシャル番組に対する批判も簡単にお伝えした(このNHKの番組への批判については、すでに本誌並載稿でその存在のみ掲げておいた、信濃毎日新聞・同連載・第四回——1989年5月31日附——『〝言論の自由〟の中身』でも触れている)。
 「ああ。そうですか——」
 本島氏はうなずき、小さく溜め息をつかれたようだった。
 このころからようやく、私も最初の緊張がほぐれ、いま自分の傍らに腰掛けている人物が、あの長崎市長・本島等であるという認識を保ったまま、1人の人としての本島氏とごく普通に会話することが可能になってきていた。
 「私の友人で、さきほどお話しした丸山邦男さんの知人でもあるんですが——私と一緒に、去年の12月に本島さんに手紙をお出しした遠藤京子という者がいるんです。私のも遠藤のも、あの本には収録されてませんが……。でもそのこことは別に、私はあの本の作られ方を認めることができないんです。そう思ってる人間がいることを、本島さんにお伝えしたく——」
 私の短い簡単な葉書はともかく、遠藤の亡父の戦争体験と死の前後の様子から、本島氏への積極的な支持を綴った長文の手紙が収録されないのはその内容からいっても奇怪な、しかしまた当然の話でもあった。本誌読者には《蜚語》第5.6合併号『近況報告』その他に見る通りの事情である。1989年晩冬、会見したおりの書翰集編集者は「たしかにその2通の手紙は、長埼から送られてきた手紙類の荷物のなかに見た……」と、言葉を濁したが。
 それは前記の理由に加えて(それと表裏一体に)、私たちの手紙が「それぞれの主張、立場の相違に関係なく、全く同一の視点に立って取捨選択をさせていただ」くことのできないような内容のものだったからでもあるだろう。私はそのことに当然の誇りを感じるとともに、あのような種の人びとによって編まれた書翰集に名を連ねる恥辱を避け得たことを幸運に思う。また一方出来上がった『7300通』(と言いつつ、実は300通)の収録書翰の多くに見られるあまりの貧しさ、程度の低さからすると、むしろここに収録されなかった7000余通のなかにこそ、真に優れた手紙があるのではないかと考えるのは、「選に淵れた(?)」者の恨みだなどとは、まさか思われまい――ごく自然な心の働きだ。
 いくらなんでもこんな情緒的な、想像力貧しい特権者の嗜好と自己顕示欲のみに迎合する書翰ばかりが、本島氏の発言と天皇の戦争責任をめぐる現在の日本民衆の論議を覆い尽くすはずはないという気がする。その意味で、この特権的編集者は現代の日本民衆の、ある意味でかけがえのない財産をまったく恣意的な、もっともらしい主観によって処理してしまったことになるのを指摘する人びとがあまりにも少なすぎる。あるいはすでに保存されていないかもしれない、この『7300通』の〝没稿〟とされた手紙類を、しかしなんとかこれからでも救済する手段はないものだろうかと、私はいまも考える(これについても、前述『〝言論の自由〟の中身』参照)。
 何からどう話したらいいのか、まったく見当もつかないまま——そしておそらく本島氏にとってはあまりに瑣末な事実の堆積にすぎない事柄の領域にはなんとか話を持ち込むまいと、あれこれ考えをめぐらせながら、「実は遠藤も以前、径書房ではアルバイトみたいな形で働いてたことがありまして——より早くやめてるんですが。その後遠藤は東京の目黒区内で、本島さんと、それから明治学院大学学長の森井眞さんを支持する人たちの署名を集めてお送りしました」
 「ああ、あの方でしたか!  遠藤さんね。覚えてます。署名はたしかにいただきました。ほんとうにありがたく思ってます。それと、あの出されてる本——。あの《蜚語》という本も、全部、読ませてもらいました」
 いきなり本島氏の口から《蜚語》の話が出たのに、私は度肝を抜かれてしまう。たしかに氏にバック・ナンバーのフル・セットをお送りすることにはしたものの、ただでさえ多忙な公職にある身で、見ず知らずの者から送りつけられた、それもあんな細かい字がびっしり綴られた雑誌を——読破などむろんのこと、手にとっていただくことも難しいのではないかという気がしていたからだ。
 すっかり動転した、しかし表面的には次に何をしゃべろうかと思案しているような私の沈黙を破って、
 「あの《蜚語》のなかで——あそこで遠藤さんが書かれていたことを読んでみても、どうも……」
 本島氏がいきなり、遠藤京子の『近況報告』(《飛語》第5.6合併号)を引きながら、氏御自身の観察にもとづく、ある人物評を述べられ、それがこちらの予想を超えてかなり踏み込んだ、痛烈なものであったのと、あまりにも的確であることとに驚く。それは私にも、完全に思い当たるものばかりだったからだ。
 私は、あの遠藤の『報告』に綴られた事態の内容と、またなぜ『7300通』なる書物があれほど本島氏の意向を路みにじってまで強引に刊行されねばならなかったかについての私なりの推測を述べる。一方本島氏も初めて、眼の前にいる私と、かつて東京から送られてきたA5判の薄い個人誌の内容とが完全に重なり合って1つの像を結んだかのようだった。
 「ああした編集方針の本が、本島さんにかかっている圧力をそらしたり、引き受けたりするというようなことなど、そもそもできないと私は思うのですが……」
 私が言うと、氏は言下に、
 「そりやそうでしょう。あんな内容で脅迫なんか、くるはずはない。全然、聞いてませんよ。そういう話は」
 テーブルの向こうで中島さんが失笑しながらうなずかれる。
 氏はまた編集部により、「被爆者団体へ寄付」すると表明されていた印税(註)の扱いに関しても、深い疑念を明らかにさ」れる。そして何より、氏が語られたいのはその意向を無視して進められた製作・刊行と、延期を要請された氏御自身の立場についてだった。

 (註)そこに氏自身が書いたものが入る余地があらかじめ排除されてしまった以上、その『長崎市長への』というタイトルがこの出版物の売れた最大の力となったにもかかわらず、氏自身には、むろん1円の印税も支払われてはいない。またこの「この際、本島市長には出版の当事者という立場から退いていただく。」「(法的には何ら問題のないことを確認いたしております)。」と切り口上で宣言された知的財産の倫理的横領に関しては、対マスコミ・社会向けの出版者側のいわばプロパガンダとして捏造された、本島氏の〝驚くべき破廉恥な〟「怯儒」と「不実」へのあてこすり、それとは対照的な「氏への危険を自らが代わりに引き受けようとする」(ハハハ!)編集者の〝勇気〟と〝主体性〟なるもののえんえんとつづく自己陶酔的な宣言、そして著者が1人であろうと300人であろうと変わりないはずの印税支払い義務の曖昧化……等とともに、『編集を終えて』『追記』なる文章にとめどなく冗漫にだが問題のツボは狡猾に抑えながら——語られている。
 本島氏は語られる——。
 「私は一度も『もう出版を取り止めたい』なんて言った覚えはない。もともと私自身が作りたかったんだから。ただ、ピストルのたまが送りつけられてきたり、家族や他の人たちも脅迫されたりという状況で、周囲も浮き足だっているし、『いまはとてもそれをすべき段階ではない。もう少し事態が鎖静化するまで待ってほしい』と言っただけです。それが当事者の責任というものだ。そうでしょう? それがどうして、あんな風に『本島はもうやる勇気がない』みたいな言われ方をされて、強引に本を作られ、出されてしまうみたいなことになったのか。何もかも、一方的にそういうことにされてしまって……」
 ……そういえば、思い出す——。前述したNHK の〝スペシャル〟番組もまた、多くの点で救いがたい問題点に満ちた悪質なものだが、この『7300通』の出版者と晩冬に会見した折りに聞かされた話があった。〝スペシャル〟番組後半部、すでに番組のポイントが何なのかさえ曖昧になってしまったなか、絶えまない右翼からの脅迫に本島氏が氏の後援会の人びとと話し合い、「出版延期」の結論を出す場面がある。その際、後援会と本島氏との話し合いの会場外に、この出版者は待ち受けていたのだそうだ。
 「ぼくが、つかつかっと駆け寄って、本島氏に『どうなりましたかっ?』って訊く場面(註)がある。それ、カットされなれば入ってるはずだ。重要な場面だから、たぶんカットはされてないと思うけど、そこのとこ、ぜひ観てほしい」——新宿の飲み屋でそう語っていた出版者の昂奮した表情を思い出しながら同じ瞬間に本島氏の胸中はどんなに苦渋に満ちたものだったか——それを思うとやりきれない気持ちになる。

(註)ちなみにこの場面は放送ではカットされていた。
 
 「ほんとに、〝頭の良い人〟っていうのはああいうものなのかもしれんが……」
 本島氏がさらにかなり具体的な細部にわたって人物評を述べられ、多くの点で納得するところがあった。これらについては明瞭に記憶しているが、本島氏自身の御了解を得た上でないと発表できない要素も少なからずあるので、今回は見送りたい。
 「山口さんはどうやら御専門らしいから、ちょっとうかがいたいんですが、大体、本というのは、本来出す当人のはずの人間が『作らないでいてほしい』って言っても、勝手に作られてしまうものなんですかねえ?」
 まじまじと私を見つめて言われる本島氏のその御質問が、心の底から不審でならないといった響きに滞ちたものだっただけに、私も苦い笑いをもてあましてしまう。
 「いえ、普通、良識ある人びとのあいだでは、決してそんなことないと思います」と私。
 そのとき、またさっきの職員の方が入室され、本島氏に何かをうながされる。いよいよ次のスケジュールが滞っているらしい。しかし氏は、相変わらず、
 「……わかった。わかった!  よか。それは、よか」
 と繰り返されるのみで、ソファを立とうとはしない。
 「わしが、よかと言っとろうが」
 「しかし市長、もうほんとうに――」
 言いかけた職員を、本島氏は眉間に皺を寄せ、たしなめるように、
 「よか、よか。せっかく、ほれ——わざわざ東京からきとらすとに……」
 こちらの方を大きな手つきで示し、私にも聞こえる声で言われる。度重なる催促に舌打ちされ、ずらした眼鏡から上目づかいに周囲を見回しながら、困ったように口を尖らされる表情は——失礼ながら、利かん気の少年のような愛敬に消ちている。
 「いえ、もう結構ですから。きょうは本当に……」私はあわてて手を振った。
 「あ、あのこれ……すぐそこで買ってきたんで、お土産にもならないんですが——」
 ここでようやく、銘菓《居留地境》をお渡しすることができた。
 「ああ、これはどうも……」
 本島氏は言い、中島さんが包みを受け取られる。
 実際、ほんの15分ほどのつもりだった会見が、すでに50分ちかくなっている。どうやらどこかの交渉団と会わねばならない予定が1時20分ごろに入ってたいたらしいし、いま問題になっているのはその後のスケジュールも含めてのことのようだ。他の職員の方も、中島さんも、そろそろ本格的に心配されているご様子だった。また私としても、自分へのご厚意のために、他の方がたの本島氏に対するイメージを傷つけてしまうなどは、甚だ不本意なことである。
 「そうかあ……」
 本島氏は私と職員の顔を見比べられてから、
 「きょうは、この後は?」
 それがなんとも残念なことに、私はあと1時間くらいならなんとかならないことはないのだが、本島氏はこのあとすぐの予定が詰まっており、それが終わってからでは私が帰れなくなるのだ。もう博多からの新幹線の最終に間に合わなくなる。
 長崎にもう1泊することは、まったく予定に入っていなかった。明日、東京での用事があったし、持病の気管支喘息の薬の手持ちにも余裕がない。
 何より、すでに思いがけずお会いし、しかも一言ご挨拶でも……と思っていたのが、予定をはるかに超過して踏み込んだ話にまで発展していたことが、「今回は、もうこれで十分です」という気持ちに私をさせてしまっていた。
 「もしこの後も空いてたら、もう1回夕方ごろからでも、ゆっくり……と思ったんだが。こっちの用事は2時間もあれば済むから――。待っていてもらっても……」本島氏はおっしゃる。
 たしかに、この人とたとえば焼酎でも酌み交わしたら、それは、たいそう気持ち良い酒となるだろう。
 「ほんとうに、残念ですが……」
 そういう私の言葉には実感がこもっていたはずである。
 本島氏はしばらく思案されていたが、「よし! また東京で会おう」
 意を決したように言って、それをしおにソファから立ち上がり、
 「この番号にかければいいんだね」
 お渡ししていた私の「未完舎」アルバイト用の名剌を、会見のあいだずっと手にしていた水性ペンのキャップで叩かれる。
 「ええ。ええ、そうです」私はびっくりしてうなずいた。
 「そのときはマスコミを遠ざけて、ゆっくり会いましょう」
 私は、本島氏さえよろしければいつでも御歓待申し上げたい旨、しどろもどろの早口でやっとお伝えしてから、
 「あの……写真を」
 もっと早くお願いしておけばよかったと思いながら、ソファの脇に置いていたカメラを持ち出した。
 元来あの、有名人と一緒に写った写真を得意げに見せびらかす手合いというのが私は大嫌いである。それもあって、いろいろ迷っていたのだが、やはり記録として残しておきたいという考えが打ち勝って、撮影をお願いすることにしてしまう。
 「セルフ・タイマーもついてますから、よろしかったら中島さんも御一緒に……」
 お誘いしたのだが、すでにノートをしまい、次の支度をされていた中島さんは、
 「いいえ。私は」
 と固辞され、反対に中島さんにカメラをお渡しして取っていただくことになってしまう。おそらく多くの方が本島氏を訪ねてこられるたび、こうした心配りをされているのだろう。
 ところが、なんとしたこと!  ちょうど装填してあったフィルムが終わってしまう。急いで詰めかえなければ……。しかし——。よほど気が動転していたのだろう。フィルムを巻き戻ししたのはいいものの、一瞬モーターが止まったので「さあ、早く!」とばかり裏蓋を開けてみると、まだフィルムは途中だった。ここへくるまでに撮り終えていたフィルムを露光してしまう大失敗。しかも「もうこうなったら、なんとしても早く新しいフィルムを……」と、途中のまま止まったフィルムを、何齣かは止むを得ないとばかり、そのまま指でつまみ出そうとしたとこちが(すでに最初の駒の方まで、巻き戻しは進んでいると思ったのだ)、停止したのは36齣撮りのほぼ中央部で、そのままフィルムが昆布のように引き出されてくるありさま。大浦天主堂入口のマリア像も、グラバー邸の坂道の地面にじかに埋めこまれたエスカレーターも消滅してしまう。
 「あちゃーっ!  どうしよう……どうしよう」
 あわてふためく私の、あまりの事態にあきれて、本島氏も中島さんも「大丈夫ですか?」
 と心配そうに声をかけられる。
 「あはは、大丈夫です……大丈夫です……」(どこが!?)
 譫言のようにそう言って、そのまま昆布のようにはみ出したフィルムを手づかみでぐるぐる巻き取ってしまう(よほど、気がどうかしていたのだろう)。ともかく新しいフィルムを詰め終えると、本島氏は、
 「上着、着ましょうか?」と尋ねられる。髭も眼鏡もぐしょ濡れの私の横で、氏に背広まで着ていただいては、いよいよ異様なアンパランスぶりがきわだつばかりだ。
 「いいえー。結構です」
 「これは、シャッター、半押しで……?」
 中島さんの声に、本島氏は落ち着いてレンズを見つめ、私はうなずきながら、(後になって見ると)なんとも奇怪な笑みを作って、シャッター音を聞く。
 「もう1枚、いきますから」中島さんは慎重だ。
 「どうもありがとうございました」
 中島さんから返していただいたカメラをバッグにしまいこんでいるあいだに、本島氏はいつのまにか壁のガラス戸のついた書棚から2冊の本を取って戻ってこられていた。
 「これを——ぜひ読んでほしい」
 おしいただくように手に取ったそれは、1冊は言論の自由を求める長崎市民の会・編集・発行『タブーヘの挑戦――本島市長発言に市民は……』、もう1冊は江上瑞舟著『詩集白衣の天使と千羽鶴』(河北文庫)。『タブーヘの挑戦』の方は、すでに私も2部、持っている。
 「これは私も買いました。信濃毎日新聞のエッセイでも紹介しましたし…… 」(註)
 「でも、まあいいから」
 本島氏としては、『7300通』の話のあとで、むしろこちらの内容が御自身の思いに近いという意味で特に1冊くださったようだ。
 一方、B6判の詩集『白衣の天使と千羽鶴』は、そのあと、帰路の列車のなかでベージを繰ってみた。著者紹介には、

 江上瑞舟/本名江上一(はじめ) 昭和2年9月10日福岡県大牟田市に生まれる。61歳。呼吸機能障害1級。身の廻りの事も出来ぬ状態にて酸素吸入生涯必要。62年「やすらぎ音楽祭」に入選付曲「ピカドンのうた」を記念、千羽鶴を折り始め、広島長崎を始め国連本部等各地へ送りつづけて今、5万羽達成を記念して本書を出版す。

『白衣の天使と千羽鶴』

 とある。ここに記されているような経緯から、何らかの形で本島氏宛に何部か寄贈されてきたか、あるいは氏が購入されたかした本のようだった。
 「呼吸椴能障害1級」といったあたりの記述に、ある親近感を感じながら(ちなみに、私は3級)、75調定形詩のごく素朴な何篇かを読んでみる。

(註)拙稿/信濃毎日新間・タ刊連載《本の散歩道》第9回『言葉は戦争に対して何ができるか』(1989年8月9日附)参照。

 「さあ、市長……」
 振り向くと、いよいよ職員の方2人ほどが、本島氏をうながすように両脇から挟んでいる。
 「あ、あと……あの、もう1つ——」
 すでに事態の切迫しているのは私の目にも明らかだったが、実はこれは私としても前夜からお願いしようと考えていた件なので、どうしても持ち出さずにはいられない。
 「あの……これなんですが——これに、ぜひサインを」
 それは昨日、原爆資料センターで買った『ながさき原娼の記録』に挟みこまれていた、本島氏による『長崎平和宣言』の全文コピーだった。お会いしたら、これにだけは氏の直筆の署名をいただきたいと、カメラ・バッグに入 れて用意していたものである。
 「ああ。はい、はい……」
 本島氏は立ったまま、いったん胸ポケットにしまわれれていた水性ペンを取り出し、キャップを外される。紙をテーブルに置く余裕もなく(そのときの私には、なぜかそんな気がした)ソファの木製の肘かけの、その狭い湾曲した面を台にして書いていただくことにする。屈んだまま窮屈そうにサインを終えられた本島氏は、ほんとうに引き立てられるようにして連れていかれた。
 「どうも、ほんとうにありがとうございました」
 「はい、はい。あなたもお元気で——」
 氏の出ていったあとを茫然と見送っている私に、
 「どうぞ、こちらへ」
 中島さんが声をかけられる。一緒に市長室を出た先は、何人もの職員が机に向かっている秘書課の執務室だった。
 「これも、どうぞ——」
 中島さんから手渡された3冊目は、ずっしりとした大判の本だった。 『’89長崎市制施行100周年NAGASAKI100』、市の広報課の編纂になるもので、A4判・角背布貼堅表紙・カバー装・総アート紙120ページ・フルカラーの堂堂たる市制100周年記念誌である。
 中島さんが、御自分のセクションでおそらく御自身が中心になって作られたろう労作を、とくに下さったにちがいなかった。
 中島さんや近くにいた秘書課職員の方がたに改めてお礼申し上げ、さっきの会議室に取って返して散乱していた荷物をとりまとめる。そのまま、依然として地に足がつかない思いでエレベーターを降り、さっきまでの土砂降りが小糠雨に変わっていた外へと、私はさまよい出た。2時すぎ——。
 本島等氏は、すでに国内外からの注目を一身に集めているにもかかわらず、朴訥ともいえるほどまったく気取りのない、親しみ深い人物だった。私は実際にお会いするまえ、予想していた最上の庶民的で人間的魅力にあふれた像をもはるかに、現実の氏が上回って立ち現われてこられたことに、新鮮な驚きと非常な幸福感とを感じたことを記しておきたい。
 氏は人を圧倒するというよりも、その暖かな包容力で相手をなごませ、その場における最も誠意に満ちた関係をつねに築こうとすることのできる資質に満ちた人物のようである。こうした柔らかなカリスマ性は、氏の政治家としての仕事にも深く寄与しているものなのだろう。
 氏からは決して威圧的ではない、だが一種茫洋とした巨大さの印象が終始、発していた。実際私は東京に戻り、DPE から上がってきた写真を見て初めて、本島氏が思いのほか小柄な方だったことに驚いたほどである。
               
 市庁舎を出て角を曲がった、桜町の市電停留所――。駅方面行きの路面電車の到着を待ちながら、両手に荷物を抱え、鞄にもたせかけただけの傘を五秒おきに地面に落としているのを見て、きょうから2学期が始まったのだろう、学校帰りらしいセーラー服姿の少女が、それを拾い上げ、肩紐に懸けなおしてくれる。
               
 長崎駅近くまできて、まだぎりぎり時間の余裕がありそうなことを確かめ、駅前から歩いて7、8分ほどの西坂上、26聖人殉教の地に立ち寄ることを決める。長崎でぜひとも訪ねたかった場所の1つであるここが、今回の旅の最後のシーンとなるだろう。
 屏風状に折り重なる曲がりくねった坂をたどってゆくと、まずガウディを思わせる、スペイン風のカトリック教会の尖塔が2本、木立ちの影から突き出てくる。登りつめた広場は、392年前、26人の人間が剌殺された場所。長崎港をすぐ眼の下に望む、この広すぎも狭すぎもしない空き地の規模が、たしかにここが人の虐殺された場所であるという濃密な感覚を伝えてくるような気がするのが不思議だ。
 磔柱の立てられた場所には、いまあの有名な舟越保武氏の26聖人の石像の嵌めこまれた巨大な横長の碑が設置されている。その宗教性を考慮しなくとも(というのは、実はほんとうは精確な表現ではないのだが)、迫ってくる——それらの群像の、モニュメンタルな彫刻としては異様なほどの生なましい現実感、表現力。現代日本人の手になる彫刻を見て恐怖感に襲われるのは、何か、これが初めてではないかという思いがよぎる(それが果たして「芸術」からくる恐怖なのか、それとも「宗教」からくるものなのかは、微妙なところだが——)。
 「我につき従わんとする者 一切を棄てよ」という意味のラテン語の聖句が、中央部には刻みこまれている。
 終始、氷雨が降りつづけ、眼鏡のレンズもカメラのそれも雨と自分の呼気で唇るなか、石像にむけシャッターを切る。

 足袋の足裸足の足の垂れて冷ゆる

 誰の句だったか(松本たかし氏だったか?)、虐殺の広場の——群像とは対角緑をなす地点に建つ句碑に刻まれていた文字だった(ちゃんとメモしたわけではなく、記憶に頼るのみの記述なので、用字はもとより、内容にも若干の間違いがあるかもしれない)。いずれにせよ、磔刑直後の、文字通り鮮血淋滴たる、酸鼻きわまりない情景を、向かい側の彫刻群を踏まえて蘇らせようとする、これは作品である。むろん、この句の成立するそもそもの基盤に、舟越氏の彫刻の「足」の表現が与っていることは疑いない。

 私はなんの罪も犯さなかったが、ただ、われらの主イエズス・キリストの教えを説いたがためにのみ、死ぬのである。私は、このような理由によって死するのを喜び、わが主が私になしたもうた、大いなる恵みであると思う。

(日本26聖人の1人、聖パウロ三木)

 彫刻の裏、ガウディ風の教会脇の記念館は、26聖人の殉教をはじめ、日本のキリスト教伝道・迫害史関係の多くの資料が展示されている。建物のいちばん奥、とくに通路を通って入る半地下の別棟には、床の中央にただ1つ、聖人の1人の聖骨がコンクリートの棺に収めて安置されていた。棺のわずかな窓から、内部照明に照らされて浮かび上がる聖骨を見ようとするものは、窓の高さに眼が届くよう、皆、おのずから床に蹄き、頭を垂れることになる。
 キリスト教という思想の持つ、ある妥協のない凄みが伝わってくる土地——。それが、あるいは被爆都市であるということ以前に、何より九州の他の地域と、そして日本の他のどことも違う長崎の特別な精神風土の違いを作り出しているような気もする。
               
 土産の類を買いこみ、ベルが鳴りだすホームを走ってようやく乗車した特急《かもめ26号》。2時すぎ市庁舎を出て、市電から駅前へ。そのまま徒歩で西坂を上り資料館をまわってから坂を下り、3時13分発の列車に間に合ったとは! われながら自分のスピードに驚く。
               
 乗車まぎわ、ホームのワゴンで土管のような焼き竹輪と缶ビールを購入。博多発表終の新幹線は、今夜のうちに私を東京に帰還させてくれるはずだった。
               
 また本島市長かといわれそうだが、実際いま日本で「政治」思想の在り方を考えようとすれば氏の言動に触れざるを得ないのだからしかたない。 この2日、またも氏は重大な発言を行った。〝偽装難民〟も生活に困窮した人びとであることに変わりはない。その意志に反して強制送還することは人道にもとる。〝単一民族〟であるのを無条件に良しとする姿勢を考え直すべきだ」との見解表明がそれだ。
 ちょうど長崎を旅行し市庁舎に本島氏をお訪ねして帰京した翌日でもあり、右の発言はひときわ印象的だった。直接「難民」流入の影響を浮け続けている地の首長という立場でのこうした姿勢はもはや従来の受益者の共同体のエージェントという地方政治家の水準を遠く超えている。

(拙稿『第3世界から見えてくるもの』/信濃毎日新聞・夕刊連載《本の散歩道》第12回/89年9月20日附)

 氏が記者会見でこの発言をされたとの記事を新聞に見たときまだ直接の記憶が鮮明だったこともあり、あのすぐ後にまたこんなことが用意されていたのかと、思わず「すごい……」との呟きを禁じ得なかったものだった。
 そのしばらく後、私の著書をお送りした礼状にグラバー邸の写真つきの葉書をいただく。丁寧なお礼を述べられた後に、こんな言葉がつづいた。

 今、アメリカ軍艦の入港で、今から監長に会います。日本の平和のため、がんばってください。御自愛のほどを。

本島等長崎市長からの葉書

 これがその数日まえ、89年9月なかば、フリゲート艦ロドニー•M ・デイヴィスが長埼港に入港、ピーター•G ・ロバート艦長が本島氏を表敬訪問した折り、「核持ち込みの有無について質すために」会見、艦長が明確な回答をしなかったため、その後の被爆者茎地での献花への同行は断った、その応対の直前のことであるのは、すぐに分かる。
 この、やはり水性ポールペンの独特の癖字で綴られた文面に接するにいたって、もはや私は目頭が熱くなるのを覚えずにはいられなかった。
 私が会った、あの飾り気のない、ごく親しみ深い1人の人物——彼が、ただ1人、世界最大最強の軍事力を相手に1歩も引き退がろうとしなかったことに。そしてそれほどの勇気と良心が、その直前の、氏自身はむろん忙しく、おそらくは市庁舎全体も騒然とした渦中で、1度訪ねてきただけの私に向けて葉書を書かれる、暖かく篤実な人柄に由来していることに。

 橋や道路を作るのも大切だが、それ以上に政治家は「平和」についての自分の考えを持っていなければいけないと思います。

本島等長崎市長 記者会見での発言

 いつだったか——もしかしたら、あの忌まわしい暗殺未遂事件の後だったかもしれない。本島氏が記者会見で語られたこの発言は、数多い本島語録のなかでも私の最も好きな言葉の1つだ。およそ、これ以上ないほど平明で簡単な言葉のなかに、しかしまぎれもなく《政治》とは何か、《政治家》とはどんな人格がそう呼ばれるのに値する概念かが、あますところなく述べられている。
 そして、この言葉にはさらに、こうした政治家を持ちつづけるためには、《人民》の側もまた、どのような意識をもって生きてゆかなければならないかさえ、暗黙のうちに示唆されているのだ。

 この1年間、私たちはほんとうに素晴らしい市長を持ったと思います。

銃撃直後のTVの街頭インタヴューで。長崎市内のある中年男性

1990年夏(山口泉/記)

☆☆☆☆☆
【特集 本島等長崎市長暗殺未遂事件】

事件の報を受けて、私たちの発言。

 長崎市長が銃撃されたショックで、特集を突然変更してしまいました。当日の夜から電話を掛けまくり、原稿をお願いしました。
 テレビニュースに登場する識者といわれる人たちのコメントが、あまりにもトンチンカンなので、《飛語》でなければできない内容にしようと思ったわけです。
 戦後民主主義の曖昧さが、たとえば、自由のもつ意味の曖昧さにつながり、内実を考えることなく言葉だけが字面としてだけ存在しているように思ぇます。人権もそうです。人権を叫びつつ、人権が何かということは考えていないなかで、たくさんの人権が犯されてきたのです。暗黙の了解や分かったかのような顔をしながら……。
 そして、事件の後、言論の自由を暴力で云々……国民1人1人に向けられた……撃たれた言論……といった言葉がマスコミで飛びかいました。どうしてマスコミは、天皇の戦争責任について自らがコメントしないのでしょう。1個人に比べて、資料も情報もたくさんあり、いかに戦争責任があるかということを、具体的資料をもとに解説することができるはずです。
 毎日、毎日、新間を開いては、「なによ! これ!」と憤慨しています。憤慨しながら、原稿の催促をし、自らも書き、ワープロをたたいてできあがったのがこの特集号です。
 原稲をお寄せくださった皆さん、ありがとうございます。


「日本は平和で豊かでいいなぁ」という、呑気な自慰と潜在的な優越感を、天皇制は底のところで支えている。
 岡崎光洋

 1990年1月18日、本島市長が狙撃された日、この事件と根を同じくする2つの出来事が報じられた。ひとつは元首相竹下が元号制定の過程を吐露したこと。もうひとつは福岡県の伝習館高校訴訟に、請求棄却の判決が下りたこと。前者は、選挙民への自己顕示の浅知恵が愚かしく憐れでさえあり、後者は、当時文部省派遣の県教育長であった高石被告の非道をひきずっていて痛々しい。しかし、その背後で巨大な影として、天皇制が君臨しているのは言うまでもない。だれの婚儀か何か知らないが、〝キコキコ〟と太鼓持ちの乱痴気騒ぎがうるさく、気分を悪くしていたこの頃、予想されて当然の暴挙がいとも簡単に実行されて、驚くよりあっけにとられてしまう。田中角栄が退き、日本共産党および日教組が凋落の一途を辿る今、自称〝右翼〟の標的が、本島氏にしぼられていたと想像するのは難しくない。本来、選挙民の信を得て公職に就こうとする者はすべて、天皇および天皇制について、どういう立場をとるのか明白にすべきであるのに、全くその傾向がないので、いつまでも本島氏1人が政治的に仔立していた感があった。わずかに私がテレビや新聞の報道で見る限りでは、この問題を語る本島氏の表情はいつも暗く、
沈鬱としていたのが、今更ながら思い出される。事件の裏に何があるのか知らない。自己の存在理由をもとめたのか、売名か、組織結束の拠り所が欲しかったのか、どこからか報奨金が出るのか、わからない。知りたいとも思わない。ただ、天皇を基軸にして殺人未遂事件が起こるべくして起きたと受け取りたい。
 上っ面だけだろうが〝キコキコ〟と誉めそやす人々も、自称〝右翼〟の暴力団も、天皇を中心に回る人工衛星のようで、なぜか生々しい人格が感じられない。それはきっと、なんとかのひとつ覚えの天皇崇拝という呪文や、体制の後ろに、いつも個としての自分自身は隠れているためだろう。今度の本島氏殺害未遂事件は、自称〝右翼〟が、闘うべき武器としての思想を持たないことを露呈した。なぜなら思想をもつならそれで闘えばいいし、暴力を持ち出す必要はない。また、もし暴力による闘争が頭をよぎったにしても、その思考を圧殺するのこそが思想である。
 この事件へのコメントで、国民すべてに銃が向けられたのだ、という声があった、また民主主義や言論の自由に対する挑戦だというありきたりの意見もあった。確かに、思想の問題を暴力で封殺するという点ではそうかもしれない。しかし、そもそも現実に今日の日本で、言論の自由が大切にされているか? 民主主義が生活で実践されているか?  全く否ではないか。そうした自由や民主主義を毛嫌いしている人々も幾多いるではないか。日常でそんなものを反故にしている者もいるではないか。したがって、銃口の先を全国民だなどと、安易に束ねてしまうのは間違っている。それは思想の同化であり、暴力による封殺と質的に大差ない。
 「われわれ国民」として語れる事柄は、非常にわずかでしかない。もしかしたら無いかもしれない。私はこう思い、この点があなたと対立(あるいは共鳴)するとしか、思想は語れないし、個人も語れないはずだ。東欧の血の革命を見ても、天安門の惨劇を聞いても、ソビエトの民族闘争を受け取っても、常にブーメラン式に回帰し、増幅される「日本は平和で豊かでいいなぁ」という、呑気な自慰と潜在的な優越感を、天皇制は底のところで支えている。日本国籍であれそれ以外の籍であれ、民族や種族が同じでも違っても、個は存在としてひとりひとり決定的に違っ。その違いを常に抹消しようとし、「同じ日本人」のなかに溶解し、吸収しようとする天皇制にこそ、思想の銃弾は向けられるべきだ。「アキヒト! あんたのおやじをめぐってひとりの『国民』が撃たれたのだ!この事態にどうこたえる!」そんな遠吠えもしたくなる。

 天皇制はもともと非寛容なもので、自由とは相容れないのではないでしょうか。
 永鳥孝(数学者)

 
 言論の自由を守れという声が私にはむなしく聞こえる。守るべき自由がこの国にあるのだろうか。敗戦の機会に民主主義の新悪法がせっかく制定されたのに、「仏つくって魂いれず」ではなかったのか. 思想・良心・言論の自由をわれわれは築いてこなかったのではないか。
 意見を述べると、それに対していやがらせや脅しが行われる。今までもそういう世の中であった。集会で発言したら脅かされた、投書したらいやがらせの電話がかかってきた、などのことはたびたび聞いたと思う。そしてついに今度の事件。
 自らの良心に忠実に意見を述べることのできる世の中をつくるには、自由とは何かを1人1人が考え、自由を保障する政治家を選び出すことが急務である。東欧諸国に見習わねばなるまい。
 天皇制はもともと非寛容なもので、自由とは相容れないのではないでしょうか。

 世界出の流れに日本も逆行できない。
 日原章介(わだつみ会)

 
 日本の民主主義のリトマス試験紙は天皇制の問題である。天皇の戦争責任は世界の常識であると、赤尾敏でさえ云っている(『週刊朝日』)。本島発言はきわめて当然のことをいったまでだ。40歳の犯人は3000千万円の借金があるという。金でやとわれた感じがつよく、そこがおそろしい。日本の民主主義の未熟さで、世界に恥をかいた事件だ。政府は秋の大嘗祭にむけ派手なキャンペーンで〝神格化〟をはかっている。今世紀初は世界の9割が王政で、共和制は1割。90年後の今日は、逆転して、王政は1割にすぎぬ。この世界史の流れに日本も逆行できない。われわれは、おくすることなく、いよいよ声を大にして「人間みな平等」(反天皇制)を叫ぼうではないか。

 思想のないところに言論の自由はありません。したがって言論の自由を守るのは、「言論の自由を守れ」と叫ぶ人ではなく「言論」そのものを言う人です。
 布川清(自治体労働者)

 
 天皇制を批判せずして「言諭の自由を守れ」と言うだけでは何を言ったことにもならない——ということをめぐる2,3のコメント
 
 今回の長崎市長が襲われた事件に対しては、またお定まりの「言論の自由への侵害だJヽ「言論を暴力で押しつぶそうとするのは卑劣だ」式の紋切り型発言がマスコミをにぎわせていますが、はたして問題はそんなところにあるのでしょうか。
 長崎市長は「言論の自由」を言って撃たれたのではなく「天皇の戦争責任」を言って撃たれたのです(古来、「言論の自由」だけを言って撃たれた人はありません)。ということは、今回の事件は「言論の自由」という抽象的・形式的な問題でなく、天皇制の問題だということではないでしょうか。天皇制を守ろうとする勢力が、天皇ないし天皇制を批判する者を撃ったということです。ここを見落とすと、「言論の自由を守れ」と言えば何事かを言ったつもりになるという錯覚に陥ることになります。
 問題は言論の中味なのです。このことを本島氏はすでに昨年の1月に言っています。
 「新聞が言論の自由という面からしか論評しておらず、天皇の戦争責任そのものについて論じていないのが残念」と。
 残念ながら事情は、本島氏が狙撃される前も後も変わっていないようです。
 そもそも「言論の自由」とは、言うべきことをもっていてはじめて問題になることであって、言うべきこと(ここでは「天皇の戦争責任」や「天皇制否定」のことを意味します)をもたない人間が「言論の自由を守れ」と言っても、空疎に間こえるだけです。思想のないところに言論の自由はありえません。したがって言捨の自由を守るのは、「言論の自由を守れ」と叫ぶ人ではなく、「言論」そのものを言う人です。「言論の自由」が保障されているから言う、保障されていないから言わないというのでは、そもそも言論の自由の趣旨を知らないと言わねばなりません。過去をふり返っても、自由が保障されていないから言わないという人の存在こそ、実は言論の自由を失わせてきたということを知るべきです。
 結論めいたことを言えば次のようになりましょう。言論の自由の真の敵はテロではない、体制にこびる隷属的精神である、と。
 つぎに、「天皇制を守ろうとするのはいいが、暴力はいかん」という論議についてですが、これもどうやら現実を見ないまとはずれの議論のようです。実は、天皇制を守るためには暴力以外にはないというのが現実ではないでしょうか。マスコミやエセ・インテリらが何を恐れて天皇制批判ができないのでしょ力か。端的に言って右翼の暴力です。ではなぜ右翼はこれほど暴力に頼るのでしょうか。それは天皇制の構造からきています。つまり天皇制というのは、批判を許せば成立しえないものだからです。このことをいちばんよく知っているのは右翼自身です。天皇は「神聖」にして「絶対不可侵」でなければならないのです。「神聖」でない天皇などはもはや天皇ではないと彼らは考えています。だからいま右翼はやっきになって、この「神聖」性にしがみつこうとしているのです。最近、新聞で「女帝」問題にふれて、右翼評論家村松剛は次のように言っています。
 「国民の男女平等と、国民の聖なる精神的部分を代表してもらう君主とは別問題だ。女帝となれば、天皇制そのものが変質し、皇室の権威にかかわる」と。
 私自身は天皇制そのものを認めないので、「女帝」を認めるかどうかは問題になりませんが、ただ右翼がこんなにあわてふためくのを見ると、「女帝」誰者に加担したくもなります。それにまたこの問題は、「女帝」の次には当然、次女次男、三女三男はなぜ天皇になれないのかという問題を、次にはなぜ他の皇族は天皇になれないのかという問題を、そして最終的には一般の国民はなぜ天皇になれないのかという問題を喚起し、結局天皇制はいかに差別的・特権的な制度であるかということを誰の目にも明らかにすることにつながります。実際にそううまくいくかどうかはわかりませんが、ともかく「女帝」論争はそのような論理的帰結を含んでいます。議論している人たちがそのことを十分わかっているかどうかは別にして。
 脱線しましたが、肝心なのは村松の言う「国民の聖なる精神的部分を代表してもらう君主」の「神聖」性が、戦争貴任によってでも何によってでもとにかく批判されれば、維持できないということなのです。そこであらゆる批判を「脅し」によって抑えこまなければならないということになるわけです。日本の天皇が他の国王などと全く違う存在であるのはここです。他の国王が決していいとは思いませんが――。
 とにかく批判を許してはならない、天皇制否定の議論を野放しにしておいてはならない、したがって天皇制を守るには暴力による以外にはないということになるわけです。
 現にこれまで天皇制はずっと暴力によって支えられてきました。それも権力の暴力と右腐の暴力の二つの暴力によって。この2つは互いに連携をとり協力し合って天皇制を守ってきました。右翼が権力の別動隊と言われるのは決して理由がないことではありません。彼らは方法こそ違いますが、目的は同じなのです。時として方法すら同じになることがあります。実際天皇制に反対するデモに殴りかかってくる機動隊などは右翼と寸分違いません。この2つの暴力なしに日本の天皇制がこれまで生き延びてこれたという保証は全くないのです。したがって天皇制を根源的に支えるのは暴力だということです。
 ここまで見てくると、「天皇制は支持するが、右翼の暴力は支持しない」という論理がいかに架空のものであるかがわかると思います。問題の核心は、「天皇制——右翼——暴力」といぅ1つながりのものを認めるか、それとも丸ごと否定するかということなのです。それ以外の問題の立て方はありません。天皇制を認めて右翼を否定するというのは、残念ながら全く現実的ではありません。
 それから、天皇制は必ずしも支持しないが、反対もしないという人たち、「言論の自由」や「暴力否定」だけを言って何事かを言ったつもりになっているエセ「良識派」は、結局は右翼にコビヘつらい、自分には決して及ぶことのない暴力を高見から眺めているだけの気楽な人たちだということになります。この無責任性もまた天皇制の本質の1つであることは言うまでもありません。
 長埼市長は、事件後病院で起き上がれるようになってから、「皆さんが決して経験しないようなことを経験した」と語ったそうですが、これは全国から多数の激励があり、一見支持者が多いと見える背後で、彼がいかに孤独な闘いをしていたかがうかがわれる一言ではないでしょうか。
 最後に、今回天皇主義右翼の凶弾に当たって、辛くも一命をとりとめられた本島等氏の1日も早いご回復を祈りたいと思います。
 本島氏ご自身はこの受難を今後どのように受けとめていかれることでしょうか。クリスチャンである本島氏はおそらくこのような暴力には屈するはずもなく、臆病で卑劣な右霙などにはとうてい理解しえない(彼らは暴力を使えば相手がおじけづき、暴力は精神を抑えこめると思っているので理解しえないのですが)勇気を示されるのではないでしょうか。そして、私の勝手な想像ですが、本島氏は回復されたら、きっと次のように言われるのではないでしょうか。「①言論に対して暴力によって対抗しようとする天皇主義右翼の今回の行為を断固として糾弾する。というよりも言論に対して暴力によってしか対抗しえない彼らの思想的貧困を憐れむ。②私は決して暴力に屈することはない。今回の右霙の攻撃にあっても私は自分の信念をいささかも変えることはない。右翼が暴力は精神を押さえこめると思ったら大きな間違いである。③そして前にもまして、私は天皇制の日本人にとっての害悪をつくづくと感じる。天皇制は日本人から、論理的思考、普逼的指向、そして人間的思考を奪い、反対者に対して力によって解決しようとする思考を生みやすい。すぐ感情的になり、暴力に短絡していく右翼がその適例である。このような天皇主義右翼がのさばる土壌をつくっている天皇制そのものの存在を、
私は疑う。④天皇制と暴力は切っても切れないものであり、戦前の歴史はそのことを世界史的に証明した。だが戦後の日本人はそのことから十分に学んでいない。これは日本人および日本の社会にとってまことに不幸なことである。私たちは自分たちの社会のガンが何であるのかに早く気づいて、これを1日も早く除去するよう努力しなければならない。云々」
 ——とまあ、本島氏ならたぶんこんな風に言うのではないでしょうか。

 天皇に戦争責任があることは赤子にも解るのではないかと思います。
 大野上勉(福井)

 天皇に戦争責任があるのは、これは当然のことで、日本軍の高級幹部がなんらかの形で処罪を受けたことを考えれば、何度も書きますが、天皇に戦争責任があることは赤子にも解るのではないかと思います。僕は天皇の戦争責任に対してはこのように考えます。
 またこのこととは別に、右翼が長崎市長を拳銃でねらった、このことも、天皇の戦争責任に対して、一般的な認識を持たない天皇賛美主義者である以上は当然すぎるほど当然だと思います。
 また、新聞記事を読んでみますと、長崎市長も覚悟をしていたみたいで、このことも現在の右翼の認識に対して正しいのではないかと思います。
 以上のようなことを考えますと、現在の日本の右翼は現実に対する正しい認識力が足りないのではないのかと思います。
 また、このようなことを考えてゆくと、現在のいわゆる左翼と右翼との差みたいなものがハッキリしてくるのではないかと思います。つまり、多数をあてにする力と、最終的に1人1人でぶつかってくる力ということです。
 僕は今回の右翼と左翼と本島市長の事件に対して、このように考えています。

 精神の自由に鈍感で無知な俗論と暴力の土壌を成している日本の文化的風土や政治権力に対しても、情熱的理性的に、徹底して批判し続ける努力を怠ってはならない。
 森井眞

 天皇制は遂に、暴力に守られ恐怖感に支えられることになるのだろうか。
 凶弾が本島さんに放たれた翌朝、某作曲家は『識者』として毎日新聞に「言論の自由は無制限に認められるものではな」いと語っているが、この人は昨秋も朝日新聞に「政教分離に反対」の意見を述べている。思想の自由について皆目無知な、人間の内なる世界に権力が踏みこむことに何の痛みも感じない、こんな精神の未成熟な人間が、『識者』として世論の形成に影響を与えているのが、日本の精神的風土の現状である。
 君が代・日の丸の強制にみられるような、国家主義にもとづく管理主義教育は、国民の精神の自立をいよいよ妨げようとしており、人権を守る砦であるべき最高裁はとっくにその使命を放棄してしまったとしか思えない。
 暴力はピストルや時限爆弾ばかりではない。政治権力もまた精神を圧殺する暴力でありうるのだ。昨年来の東欧諸国その他での激動は、個人の自由を奪つ権力や体制に対する凄まじいばかりの人間の抵抗だった。私たちは人間の自由を脅かす物理的な暴力に怒りをぶつけ、それを絶対に許さないと叫ばねばならないのは当然だけれど、それとともに、精神の自由に鈍感で無知な俗論と暴力との土壌をなしている日本の文化的風土や政治権力に対しても、情熱的理性的に、徹底して批判し続ける努力を怠ってはならない。
1990年2月7日

日常茶飯事のなかに人権の折目を畳み込んでいく作業をしつかり持続させておかないと、天皇制への契機は、日常茶飯事の中にこそ根を伸ばしているということでした。新田選(沖縄)

 本島市長狙撃事件に寄せて
 「本島市長撃たれる」の報は、職場の送迎バスの運転中、ラジオのニュースで知りました。すぐ怒りがこみあげてきました。
 言論の自由は保障されるべきで、決して暴力によって弾圧されてはならないと思います。この国では、いつのまに物も言えない状況になってしまったのだろうと認しく思いました。
 それにしても、今回つくづくと思い知らされたのは、日常茶飯事のなかに人権の折目を畳み込んでいく作業をしつかり持続させておかないと、天皇制への契機は、日常茶飯事の中にこそ根を伸ばしているということでした。
 私は現在、3歳と1歳の子を持つ父親ですが、例えば、我が子ということで、あたかも子供たちが私有されているような錯覚でもって、子どもの要求や言い分に耳をかすことをせず、大人の物差しでもって、おしつけたり、しかりつけたりしがちです。そうした日常を振り返って自己変革していかないと、天皇制はすぐに根を伸ばしてきます。なにしろ、「おらが代」よりは「君が代」にすがって安心する国民性ですから……。
 まずは、自己と自分の足もとからの見直しを始めなければ、人権思想はなかなか根を張ってこないし、天皇制を越える契機にはなり得ないと思います。
 今回、本島氏が撃たれた翌日には、東京の山口泉氏より電話が入り、こうして、天皇制を自省してみるチャンスが与えられました。
 また、数日後にニュースで流れていたように、多数のお見舞いが本島市長のもとに寄せられているようです。
 時と場所を越えて、決して少なからぬ人々の問題意識を持続させ、問い続けている人々との連帯において、天皇制を越えていく希望が見出されるように思います。信じています。

天皇制は、本来民主主義の原理と相容れないばかりか、戦後私たちが私たちの過去の過ちをみすえ、自分のあり方を改めていくことを決定的に阻害してきたと思います。上田昌文

今回の狙撃事件を1部突出した右翼の所為にする見方には賛成できません。本島市長の発言を受けて、天皇および私たちの戦争責任について再考する努力を、時期を逸せずに、私たちがもっと強く押し進めていたなら、この言論テロを防げたかもしれないからです。天皇問題を「タブー」にし続けているメディア、マスコミ閲係者、昨年の「自粛現象」に加担した人、職場や家庭でとにもかくにも天皇を敬う〝ふり〟だけはしておかないと、と決め込んだ人々、「平成元年」を何となくありがたく口にのぼし、書き記した人々……こうした下地があったからこそ事件は起こったのだ、と私は考えます。
 天皇制は、本来民主主義の原理と相容れないばかりか、戦後私たちが私たちの過去の過ちをみすえ、自分のあり方を改めていくことを決定的に阻害してきたと思います。戦争責任について問われて、「そういう言葉の綾ついては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、お答えできかねます」と全人類を愚弄するような言葉を吐いてテンと恥じない男、何百万ものアジア人が彼の名において殺されたにもかかわらず遂に一言の謝罪もせずに逝った男——この男を「平和主義者」と賛美する(あるいは賛美するにまかせる)ような国民を、どうして道義的にまともだなどといえるでしょうか。 私たちが自分の手で戦争責任を明確にし、謝罪と補償を行わないかぎり、天皇制に象徴される自閉的で独善的な、内にあっては差別を、外にあっては侵略を生みだす体質を脱することは、決してできないだろうと思います。

天皇制は生活や思考や言葉そして行為のあらゆる面に浸透し、空想的・抽象的な世界に引きずり込み、私達を利用して使い捨てのもののように平然と扱うと感じるからである。古賀芳夫

 長崎市長に対する銃撃事件に思うこと——天皇制からの説却を開始しよう——
 本島長崎市長が銃撃された。幸い一命はとりとめたものの「天皇に戦争責任はある」と発言したこによって、「右翼テロ」に狙われたのである。

 この報に接し私は、大きな衝撃を受けると同時に様々な思いに駆られた。それらは、右翼のここまでやり始めたか、という鷲き。この事件で天皇制を問題にしていく状況はかなり緊張したものになったな、という危惧。しかし、天皇制問題についてに徹底した暴露が必要であるという怒り。また、今後の状況については自分もかなり気をつけて対処していかなければいけない、という誓戒。そしてこのまま黙っていてはいけないという決意等々である。
 しかし、それらの感情と同時に私の心の内部では、この事件の背景にある天皇信仰あるいは天皇制支持というものをこの社会は本当に払拭できるのか、という疑問あるいは暗い予感といったものももった。
 それは、今回の銃撃事件だけでなく天皇制を容認している動きが繁茂に生じている現実があるからである。日常の街頭宣伝を含めた右翼の政治的活動をはじめ、最近話題になっている明仁の天皇即位や礼宮の結婚にまつわる報道。また、天皇にどれだけ近いかで判断される人間や文化の品位・上下についての感覚の存在等。あるいは天皇制に淵原を持つ休日・祝日の制度や元号使用等の制度・儀礼・行事の存在等、天皇制に結びつく習俗・事柄を含めた動向がこの社会の随所で顔をだしている。つまり天皇制を擁護する習俗・事柄は、この社会ではマスコミを始めとして様々な分野で日常的に機能を発揮しており、これらの機能が根底において天皇制を支えていると思われるからである。
 そういった意味で、現在の天皇制を容認する状況の成立を考えてみると、現在のこの社会生活の大枠である悪法体制は、第2次大戦後の成立の時からこの体制の根本に天皇制の存在を承認してきていたのであって、天皇制容認の土台は当初から悪法そのものによって保障されていたという事実につきあたらざるをえないのである。つまり、軍国主義・超国家主義の基盤であった天皇制は改革の中で戦争の責任問題を明確にすることもなく廃止されず、政治的に天皇制の悪法上での位置を一定変えただけで存続し、日常生活での天皇制に結びつく習俗や行事そして天皇に対する憧れ等と共に戦前から連続して生きのびてきたのである。そういう意味で、現在のこの社会の天皇制信奉者や天皇制イデオロギーは再生産の基盤を戦後の改革によって何ら根本的に破壊されず温存されてきたのであり、今日の天皇制支持の存在や今回の事件のような天皇制擁護の行動を取ることのできる条件を社会制度および生活構造上から与えられてきたのである。
 つまり、今回の事件は突発的に発生した事件であるかのように思われるが、戦後の改革の中で象徴天皇制と民主主義をうまく折衷させて成立した戦後体制の構造からいえば、起こるべくして起こった事件であったと考えられるのである。それは今回の事件を、許しがたい犯罪、言論の自由に対する許されない挑戦、また民主主義そのものに対する攻撃と言ってみても、昭和天皇の「下血」の時期のマスコミを始めとする「自粛」ブームや天皇制賛美の動向は、長崎市長の天皇の戦争責任発言をことの外脚光を浴びるものにし、その結果天皇制信奉者の感情を激昂させ彼らが行動を起こすのを促したのであって、自民党議員の市長の防衛体制の解除質問等を含めて、彼ら天皇制信奉者の行動を阻止するものはどこにも存在しなかったのである。つまり、今回の事件の発生は、現在の体制原理やシステムの持つ属性として不可避であった、と考えられるのである。
 そういう点で私は、この社会の現在の民主主義体制というものに対する見方・感じ方・思いの持ち方を根本的に変えていく必要を、今回の事件は教えていると感じるのである。それは、現在のこの社会の民主主義体制は、天皇を戴く民主主義であり、天皇制が機軸であって、その枠の中での「自由」と「平和」と「豊かさ」の追求をしていく体制でしかないのである、と。
 そしてこのシステムがあるかぎり今回のような「テロ」は防止されるのではなく、天皇制の維持・強化のためには今後何度でも起こる。また、天皇制を巡る支持・擁護派と反対・廃止派との間の闘いはますます激化し対立を増していく。それらは、現在のシステムからいって当然なのである、と。
 したがって今回の事件から今後を展望するならば、天皇制という装置・構造・存在をこの社会での民主主義の発展にとって本当に必要とするのかどうかを根本的に問うことが、基本的に重要な作業になると私には思われる。つまりまさに長崎市長が発言したように天皇制には問題があるのであり、天皇制との共存による民主主義というものがそもそもあり得るかどうか決着を付けることである。(もちろん、そういう作業を行なっていく過程において、今回の銃撃事件のような「テロ」の再発を根本的に防止することはできないであろう。なぜなら、天皇信奉者や天皇制擁護派は現在の憲法体制によって擁護されているだけでなく、彼らの存在をかけて立ち向かってくるであろうからである。)
 それは、どのような価値をもち、どのような考えをもっていても、この社会の中で1人ひとりの人間の生命や生活が保障されることが基本的に重要なことなのである。そのために民主主義という社会体制を選択しているのであって、文化的・宗教的に天皇がどうであれ政治と宗教との分離という原則によって、1人ひとりの人間の生命を尊重する社会の実現を図ろうとしているのである。そういった意味で天皇制に限らず宗教的政治制度というものはそもそも民主主義の理念や制度とは矛盾するものであるのであって、ここのところをはっきりとさせなければならないのである。そうでなければ、今回のような事件の再発は防げないと思われるし、この社会での民主主義自体の発展というものもあり得ないと思われるのである。つまり、「神」という本質をもつ天皇を宗教以外には使用しないという原則を厳守していくことが必要であり、天皇の政治的利用形態である天皇制というものを社会統治や社会運営の手法としては用いないようにすることである。
 そういった意味で私は、天皇制の「虚構」の在り様を1人ひとりが喝破し克服していくことを考えていかなければならないと考えるものである。それは「神」である天皇が「人間」社会のことに関係することの矛盾と誤りを発見することである。また「神」が「人間」の政治関係を律していくという「虚構」を見抜くことである。同時にこの「虚梢」の下にいるかぎり私たちは「人間」でないことを自覚することである。
 そのためには、「人間」としてよりよく生きたいという自己に宿る生の欲求と天皇制とが矛盾する関係にあることを1人ひとりが確認する作業。つまり、喜怒哀楽の実感をもつ自己という「人間」の現実的存在と「神」の観念による政治体系である天皇制の教条との乖離を見出だすこと。そしてそこを踏まえて人民主権や基本的人権の徹底による社会の実現を1人ひとりにおいて構想すること。その作業によってこの社会における民主主義というものは、存在の根拠を天皇に求める「天皇制民主義」というものから、1人ひとりの人間に根拠をもつ「人間的民主主義」へと脱皮していくこととなるであろう。
 そういった意味で、私達は天皇制を必要としない私達自身の生活や社会の在り方を求めていく1歩を、自分自身の体験や内面における反天皇制の根拠を確立していく作業から切り開いていかなければならないと思うものである。
 さて上述した意味で、私は天皇制についての私自身の意識形成について若干触れておきたいと思う。それは、私の考えは私自身の体験から生まれてきているからである。
 私は小さい頃から身内の一部が信仰していたある新宗教の影響で、「天皇は神であり、私達は神の子であり、天皇=神はすべてのものの調和を保っために存在している」という教えを受け、「日本は天孫降臨によって作られ、我々は天皇に連なる単一民族であり、世界にも類のない特別な民族である」こと、「日本人は天皇がいなければうまくまとまらない」こと、「欽定悪法こそが正しい悪法であり、現在の悪法は間違っている」こと等を教えられてきた。それらは私の幼児体験のなかで、精神や価値の面で私の内部に大きな比重を占めていたが、同時に非常に強圧的なもの、窮屈なもの、嫌なのもの、枠にはめてくるものとして存在した。そして、教えられる様々な考えや行儀作法等々は、私の内部では自意識や事実探究の欲求等を抑制するものとして機能した。そしてまた、たたきこまれる神と人と国家・社会との観念における一体感や安定感というものが、私の心の中では、生身の人間の感情(疑問・驚き・哀しみ等々)を生かしてほしい、生身の人間の成長をゆったりと伸び伸びと育んでほしい、という気持ちを生み出し次第に強いものにしていったのである。
 これらは私自身の成長の過程のなかで次第に、何が事実であり真実であるかという問いを生み、天皇の存在に対する疑問を抱かせるようになってきた。つまり、天皇は神であり神話的事実によって日本が作られたということ。日本人は天皇に連なる単一民族であり世界に例のない特別な存在であること。天皇の存在を抜きにしては日本人の統一はたもたれないこと等、に対する疑問であった。
 これらの疑問に対する私の努力は、やがて宇宙進化論、人類進化論、騎馬民族征服王朝説、天孫降臨神話の朝鮮・韓半島における存在、その他考古学や民族学等々の学習によって次第に答えを見出し、自分なりに納得できる境地を開いていった。それらは、天皇は神でなく同じ人間であること。彼らは大陸からやってきた征服王朝であろうこと。日本列島は天皇がやってくる以前から存在し縄文時代・弥生時代といった段階を経る発展過程をもつ地域であること。日本列島には北方から南方から様々な人種・民族が渡来しており、単一民族・単一文化ではないこと。古代以来、天皇家は対立・抗争、侵略・戦争の歴史を繰り返してきた支配者であること。天皇制に対する反乱・闘争が日本史の中に存在していたということ、等々の認識となったのである。そして同時に、天皇制についての教えは具体的な事実に基づく論証ではなく、抽象的な論理や体系において天皇の存在や天皇制というものがどれだけ超越的で調和的で崇高であるかということを覚え込ませようとするものであったこと。また1人1人の人間が判断や価値・行為の主体となって生きていくことを保障し援助するのではなく、天皇に帰依し天皇制の下に生きていくことを教え込もうとするものであったこと。あるいは物や意味に対して、また人と人との関係に対して、違いや区別があることでもって格差や序列あるいは貴賤や浄穣等のランクを付けていったりするものであったこと、等を発見し気づかせてくれるものであった。
 これらは、天皇制信仰のもつ問題あるいは呪縛力というものから私自身が解放され、そしてその中での問題を私自身が実感していく過程である。しかし、この過程は理論上・論理上の問題だけではなく、私にとって私の身内の中での位置を変えていくものでもあった。それは共通の価値を有しないものに対しての一種の忌避あるいは排除であり、異なった価値・存在との共存を拒否する関係である。つまり、天皇制信仰の疑似解放感の中にいる間は問題ではないが、それから出ることによって共存・共生する関係が壊れるのである。このことは当然といえば当然であるかも知れないが、その根底に異なった価値・存在に対し対立的・攻撃的な属性のあることを知らされるのである。
 そういった点から私は、天皇信仰あるいは天皇制というものは、それが主張する人間世界の幸福とは裏腹に、人間の自由や平等の社会関係性を発展させるものではなく、天皇制あるいは天皇信仰のくびきの下に人々を繋ぎとめ、それ自身の制度や価値を維持し強化しようとすることに眼目があると結論をもつに到るのである。そしてここのところに、私自身の天皇信仰・天皇制支持の立場からの脱却が始まるのである。
 そういった意味で私は、私達1人ひとりが自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の言葉で生活を語りだし、生存と存在の拠点を自分自身の内部に持っていくことを自分自身の自立のためには最も重要なことであると強く考えるようになった。それは、そうしなければ、天皇制は生活や思考や言葉そして行為のあらゆる面に浸透し、空想的・抽象的な世界に引きずり込み、私達を利用して使い捨てのもののように平然と扱うと感じるからである。そういった意味で私達は本当に自分自身の人間としての生を全うしていかなければならないと考えるものである。
 以上、本島長崎市長の銃撃事件の報から自分自身が感じた様々なことを述べてきたが、銃撃事件を引き起こすのも、根底にある天皇崇拝・天皇信仰によるものである、と思う。そういう意味で、天皇崇拝・天皇制信仰からどのように脱却するか、を考えていく必要が私達にはあると思う。そうでなければ、事件の再発の防止だけでなく民主主義の徹底ということすら行なっていけないものと、私には感じられるからである。そのような意味で、私自身の体験も含めて天皇崇拝・天皇制信仰から抜けでていくことを考えてみたが、今回私が銃撃事件について考えたことが何らかの意味で役に立つならば安心するものである。

 理解できないこと、違うということ、更には、共感できないことに対しては、例えばこの映画の中でも「暴力」で「抹殺」してしまうシーンがでてきた。
 安藤鉄雄

《本島等と「ハーヴェイ・ミルク」》
 「本島等とハーヴェイ・ミルク」——原稿の依頼を受けた当初、私の頭にまっ先に浮かんだタイトルがこれである。
 私の瞼の裏では、ニュースで流れたテレビ画像と、いつだったか見ることのできた長編ドキュメンタリー映画「ハーヴェイ・ミルク」の冒頭のシーンが重なって展開されていたのである。
 ハーヴェイミルクは、アメリカ・サンフランシスコで1970年代の市政執行委員のひとりで、「ゲイ」をはじめとしたマイノリティの人々の権利を確立するために活動した。1987年1月27日、当時市長だったマスコーニと共に、執行委員だったダン・ホワイトによって暗殺された。
 ——しかし、それから1か月余りを過ぎて、やっと論考をまとめはじめてみると、社会的大状況なり、個人的小状況なりの幾多のことが重なったり、関係したりして、問題の本質としては同一緑上にあると言わなければならないような出来事もあったりして、なかなか論考もまとまらず、時間ばかり費やしてしまうことになってしまった。
 ——それでも、少しずつ書きすすめるうちに、私が当初考えていた内容もふくれにふくれあがって、枚数もはるかに予定を越えてしまったので、それはこの稿も含めて、後日、私の個人通信である「伝書鳩通信」にまとめるという、大胆かつ一石二鳥の策を講じることにしました。
 ということで、「飛語」へは14~15篇のうち3篇の原稿をまとめてみたい。

《「誓察よびますよ!」》
 これは忘れもしない1990年2月14日の、湿気の多い雨降りの午後の出来事である。
 私の住む愛知県の社会福祉協議会の図書室にあった本を借りるために、図書の貸出し業務をしている職員に「貸出カード」をつくってもらう時、それは起きたのである。職員に言われるままに、とりあえず、カード作成のために住所・氏名・電話番号を記入し、何故か記入欄の項目にある「生年月日」というところに「本を借りるのに生年月日が何故、必要なんだろう?」と不思議に思いながらも、そこに「1963年○月○日生」と記入した。更に、職業欄もあり、これまた「本を借りるのに職業が何故、必要なんだろう?」と、これまたわりきれない思いで、その用紙の中に分別された様々な職業別一覧をみて、どこに丸印を付けようかと迷いに迷うことになった。
 そこで、まず「職業欄」だけは空白にしたまま、どこにも丸印を付けないで、その用紙を提出した。
 職員は早速、事務手続を始めるが、生年月日の1963年」に薄く鉛筆で線を引いて「37」と書きかえたあと、私に再びそれを示し、「〝37〟としないとコンピュータ入力できない」旨の説明をはじめた。
 私は、「法的根拠もないものに、一方的にそんなを対応しないでほしい」ことと、「昭和を使う、使わないは、思想・信条に関わる問題だから、譲ることはできない」こと、更に、「しかし、昭和を使えば〝37〟ではなく、〝38〟です」、と言って、その用紙を返した。
 その瞬間だったろうか。 職員の口から、今までとは違った強い口調で、次の言葉が私に浴びせられた。
 「警察よびますよ!」
 はじめは耳を疑い、次に驚き、冷静になればなる程怒りがメ私は、

「どうぞお呼び下さい。自分の言ったことには責任を持って下さい。110番ですね。しかし、そうなれば私も新聞社の記者を呼んで、記者会見でも何でもしますから……」
 社会福社と警察権力の結託ぶりを見るのも悪くはないという思いと、半分は、この発言をした人物は椰捻し尽くして、なおあまりあるといった感じで悪たれをついた私。それに業を煮やした職員は上司をそこへ呼ぶ。私が一通りの事情説明と「警察呼びますよ!」発言への撤回と謝罪を文書で欲しい旨の要求をし、たった1人の権利闘争としてのシュプレヒコールを、図書室いっぱい、元気いっぱい張り上げてあげたのさ、ふふん。
 しかし、西暦を使うと「警察呼びますよ!」なんてことが、平気で行われてしまう時代があるいは到来するかもしれない気配が強くなっている感じはあります。ああ、恐ろしやなんて言ってられるのも今のうちですか……ね。(職業欄についての論考は省略)

《舟越保武と切支丹遺跡博物館》
 今年に入って2度程訪ねてくれて友人Kさんが、いよ!」と言って紹介、貸してくれた本が、舟越保武著「巨岩と花びら」だった。箱入り上製本の高価なその本は、私をすっかり虜にしてしまった。短いエッセイは、どれも読み易く、とても共感深いものがあり、めずらしく読書に耽ることができた。随分気持ちのいい、高貴な時間をたゆたった感じ……。読後、日本で2番目の蔵書数を誇る近くの図書館に行き、著者索引で「船越保武」の他の著書も探し出し、早速、それも読み耽った。石の音、石の影」がそれである。
 たった数頁の短編エッセイに酔うばかりかその勢いあまって、涙線が緩んでしまったり、並々ならぬ「感動」とその余韻を楽しむことができた。Kさん、ありがとう。
 さて、舟越保武氏のこと。彫刻家。有名な作品である「ダミアン神父」は、写真集の中でみつけて見て、とても印象深いものだった。それに、長崎の地にある「26聖人像」。
 「そうか、そうだったのか!」。
 この偶然の引き合わせは、私を更に感動させた。
 20歳の夏の日に初めて旅した長崎では、別に行くあてもなく、だらだらと坂を上がったり、迷路に迷い込んだ幼子のような心地で歩きはじめたのだった。が、迷路から抜けたと思えた広い広場のようなところに出たとき、そこにあったのが「26聖人像」だったのだ。切支丹弾圧の処刑場跡地に建てられている「26聖人像」は、圧巻で、私の撮影した写真では1人1人の顔の表情は判別できないけれど、改めて、写真集の表情をみて、揺さぶられた。 
 「切支丹遺跡博物館」と称された私設博物館があることを、たまたま新聞を読んでいて最近知った。それが私の住む名古屋市内にあり、私の舎から原付バイクで7分で行ける距離にあることを知り、早速、出かけてみた。
 長崎からもたくさんの見学者が訪ねてくるという話だったが、それも充分うなづける話だった。なによりもメインの展示物は、「真鍮踏絵——カルワリオ」で、これは長崎にさえも残されていない珍しいものだという。解説には「徳川幕府は信徒を鑑別、あるいは検出する方法として踏絵の制をとった。はじめはキリストやマリアの像を紙に書いて踏ませたが、多数の信徒に踏ませる為、破損しやすいので、のち木版製にしたけれども、これも摩滅破損がひどいので、更に真鍮製にしたものである」。
 切支丹弾圧のすさまじさと共に、それに抵抗し続けた信徒たちの巧みなアイデアと工夫をこらした十字架など、その知恵と勇気に一端でも触れられること、また、その博物館のある寺は、切支丹弾圧の処刑場だったことも解説の中で語られている。
 長崎の処刑場と名古屋の処刑場。「26聖人像」と「切支丹遺跡博物館」。
 いつの時代にも弾圧があり、それに対してしたたかに抵抗した人たちの闘いとその記録が残されていること、そのことが、私に迫ってくるのだった。

《映画「トーチソング・トリロジー」を見て》
 先だって映画「トーチソング・トリロジー」を見てきました。私は、この映画を大変高く評価している。
 映画の中心、ストーリーは、ある一人のゲイの生き様を追いつづけるもので、トーチソング(オールドファッションな安っぼいラブソング)を歌うアーノルドを柱に、彼のモノローグからはじまり、彼と、その母親とのどこまでも分かり合えない「ゲイの生き様」をめぐって展開されるののしり合いのクライマックスを経てエンディングとなる。
 私が最もこの映画で感動したのは、映画が終わって最後の最後に写し出されたクレジットに対してであった。
 「この映画をエイズと闘っているすべての人に捧げる」
 
 「エイズ」という病気が発生してから、多くの差別的表現や心ない「エイズ撲滅」運動が広がってきた。「エイズ撲滅」の本当のところは、「ゲイ撲滅」運動であったことは、「エイズ予防法」案通過の時に、血友病患者は除外するという条件付で、強引に法案成立をさせた経緯を見ても、また、日本赤十字社の献血車近くに設置されている立て看板の活字(そこには「男性同性愛者、両性愛者は献血お断り」の旨か堂々と平気に張り出されている。)を見ても明らかである。
 理解できないこと、違うということ、更には、共感できないことに対しては、例えばこの映画の中でも「暴力」で「抹殺」してしまうシーンがでてきた。
 アーノルドの恋人アランは、ゲイの老人が殴られているのを助けに入って、自分が代わりに殴り殺される。路上で、ゲイは殴り殺されたのだ。
 救急車で運ばれていくアランの変わり果てた姿を見て、茫然として立ちつくすアーソルドの歪んだ顔、その迫真の演技に、私は強く魅かれた。
 更に、アーノルドとその母親とのやりとりのシーンも圧倒的な迫力があった。母親にむけて放たれたアーノルドの言葉は、私の心に深く泌み込んだ。
 「僕は人に頼らず、自分の事は自分で出来る。独りで生きてゆける。だから愛と尊敬以外は求めない。それを持たない人には用はないわ。あんたは母親。愛しているわ……心から。でも、僕を見下げるなら出てって」
 アメリカが舞台とはいえ、どの国においても、ゲイを生きようとする人々の、その生きる権利が奪われる危機が、「エイズ」発生と共にクローズアップされてきている。
 ゲイの人々もまた生きてある、そのセクシュアリティーを認め、共に生き合う時代の到来を希い、その実現にむけて、1歩も2歩も歩み始めている人や、エイズと闘っている人々と共に、生き続ける道を、私もまた歩みたい。
 「トーチソング・トリロジー」でアーノルドを演じたハーヴェイ・ファイアステインという俳優は、この映画の原作、脚本、主演を見事にやったばかりでなく、この後、論考を展開しようと思っている、長編ドキュメンタリー映画「ハーヴェイ・ミルク」のナレーターでもあることを、この映画を見た後に購入したパンフレットで知り、興味深くも感動したのでありました。

☆☆☆☆☆
【特集 本島等長崎市長暗殺未遂事件

精神の自由を頽廃させるものは何か? ⑴ 山口泉

【筆者前書】
 ごらんいただければお分かりのとおり、本稿は2部からなります。第1部は、信濃毎日新聞・水曜日夕刊に隔週で連載中のエッセイ《本の散歩道》(筆者自身による当初の原題は『本を吹く風』)の第21回(同じく原題は『精神の自由を頗廃させるものは何か』/1990年1月31日付夕刊)の再録であり、第2部は第1部の原稿の草稿ノートです。
 本来は1種の〝ブックガイド〟の場として設定されたものではありますが、その後、折り折りの諸問題を比較的自由に論じることが許されるようになったこの連載は、89年4月に始まりました。新聞の1回あたりは400字詰め原稿用紙4枚弱というスペースによるものであり、これから換算すれば、この草稿ノートは最終発表形の20倍ちかい分量のものということになります。しかし量と質の微妙な相閲関係から、新聞発表形は草稿ノートをたんに20分の1に圧縮した縮小版とはなっていません。
 すなわち、前者はこの分量で書かれたことによってやや力点が移動し、後者とは明らかに別の作品となっていると看倣すべきであること、掲載紙がいわゆる地方紙で、《蜚語》の読者ではご存じない方がほとんどであろうこと、また筆者は発表日時のもつ時事的な意味あいが少なくないと考えていること、ここで取り上げられたように『長崎市長への7300通の手紙』という出版物への批判が、決して《蜚語》以外のメディアでは展開されていないものではない事実を明らかにするのは、それなりに意味があると私が考えていること、《蜚語》の組みにして2ページ弱の分最であること……等の理由から、草稿ノートそれ自体である第2部に先立ち、第1部としてその再録をお許しいただきたいと考えるものです。この構成の意図をお汲み取りくださり、お読みいただければ幸いです。
 なおこの記事に関しては、掲載紙を速達でお送りした翌日、2月4日夕方、本島さん御本人からお電話をいただき、「私のことを非常によく理解していただいてありがたい。いま病院からかけていますが、1日も早く元気になろうと頑張っているところです。ご健闘を期待します」という趣旨の御感想をうかがいました。

1990.1.31「信濃毎日新聞」掲載画像。

第1部 『精神の自由を頽廃させるものは何か?』新聞発表形
【信濃毎日新聞・夕刊《本の散歩道》第21回(1990年1月31日付】

一般論ひそむ無責任———精神の自由を退廃させるもの
 
あの日夕方、友人から別の件で電話をもらい、そこで初めて本島等氏が撃たれたことを知った。以来ずっと全身がわななくような怒りをもてあましている。それは犯行を行った側に対してだけではない。
               
 事件後「この銃弾は市長だけでなく国民全部に撃ちこまれた」との言い方が流行した。
 だがそれは傲(ごう)慢だ。あの日、日、1月18日午後、撃たれた1人と他の撃たれなかったすべての者は違う。そしてなぜその違いが生じたのかを考えるところからのみおのおの自分自身の〝言論の自由〟の意味が問い直されてくるはずだ。
 自己の見解を具体的に述べた人間を突出した異端者として孤立させ、周囲は彼を遠巻きにして、ただ「言論の自由は大切だ」と一般論の大合唱を繰り返しているという風景。そのとき既に〝民主主義〟は、発言する自由は、事態の前より確実に後退してしまっている。
               
 新聞によれば、事件以来『長崎市長への7300通の手紙』(径書房、以下『7300通』と略)の注文が版元に殺到しているという。本欄連載開始以来、長崎市長・本島等氏について再三書いてきたのと同様この本にも触れてきた。今こうした事態にいたり気になるのは、本書をめぐる状況に集約的に象徴される現在の日本の精神の退廃だ。
               
 「市長への支持意見、あるいは反対意見の、いずれか一方の側に立って編集したものではありません」(『7300通』増補版「この本の編集方針を再点検する」)と公言された本書の姿勢には、「不偏不党を信用せず」という中国文学者・故竹内好氏の言葉に言論人の誠意を見てきた私としては、奇異の念を抱かざるを得なかった。出来上がった本の編者の言には、例えば「ここには、いまにしてなお、幾多の血がしたたり、涙がにじみ…」とある。こうした美文のもと、死者が死者であるという理由だけで「すべての立場を区別することなく」(前出「この本の…」)一くくりにされてしまうことに恐怖を覚える。この果てにくるのは変形された一億総懺悔(ざんげ)・総責任論でしがない。
               
 聞くところでは『7300通』刊行に際して版元は「市長が背負っている圧力を引き取るのが出版社の責任」との判断を下したとの話だ。だが本島氏は撃たれた。そしてこの本は売れている。
 「自分は天皇に戦争責任があると思う」と語った本島氏にかかる圧力を、「すべての立場を区別することなく」編まれた書簡選集や、それを出す出版社が「引き取る」ことなどできるはずのないのは、分かりきった話だ。「言論の自由は大切だ」と言うだけなら(少なくとも今のところは)撃たれはしない。だが「自分は天皇に戦争責任があると思う」というと殺されかねないのであり、両者の位置は決定的に違う。
 以前、本島氏をお訪ねして本書に話が及んだとき、氏が「あの編集方針では(出版社側が)脅迫を受けることはないでしょう」と語られたのは、強く印象に残っている。
               
 そもそも言われている〝言論の自由〟とは何なのか? いま有力な言論の装置は事実上、金のある者、地位のある者、社会的名声のある者の占有物となり、十分特権化し暴力化している。そしてその実態の不平等は、誠意ある1人の孤立を他の人びとが守りきる条件を整えないばかりか、この無責任で脆(ぜい)弱な〝言論の自由〟の幻想を踏みにじる側の〝暴力の自由〟の主張すら、完全には論破し得ていない。
               
 第1次資料にあたることはつねに大切だ。本島氏の思想と人間像について、やや前の本だが『長崎市長のことば』(岩波ブックレット)はぜひ読んでほしい。25日、事件後初めてTVインタヴューを受けた氏の、過剰な身振りも思い詰めた自己演出もおしつけがましい説教臭さもない、淡淡として自らの考えを繰り返される姿に接し、魂の震えるのを覚えた。
 「本島さんには身代わりになってもらったようで申し訳ない」と、電話で氏と同世代の批評家がつらそうに述懐されたのは事件当夜のことだ。「この1年私たちは本当に素晴らしい市長を持った」と、その夜のTVで語っていたのは長崎の1市民だった。この人たちと、いつか連帯したい。

※ 見出しは新聞社・整理部によるもの。カット写真・キャプション/撃たれ救急車に収容される本島等長崎市長=1月18日午後3時すぎ、長崎市役所前(長埼放送提供)


第2部 『精神の自由を退廃させるものは何か?』草稿ノートから

 今回は当初、予定していたテーマを緊急に変更して書く。あの日夕方、ある方から別の件で電話をもらい、そこで初めて本島等氏が撃たれたことを知った。以後、翌朝までTVのニュースにつきっきりになり、合間にはお見舞いの電報を打ったり、手紙を書いたり、数10人の友人たちと電話連絡をとりあったりして、結局、翌朝のニュースの時間まで起きつづけるということになる。
 その間も、そしていまも、時が経ち、事件の経過・進行・背景・周囲の対応がわかってくるにつれ、いよいよ高まってくる全身がわななくような怒りをもてあましている。犯人やその背後にあるものに対してだけではない。それと別に、それとまったく同等かあるいはそれ以上に、その後の、特ジャーナリズムに登場した人びとの言動やその周辺の動きについてである。
              
 新聞によれば、事件以来『長埼市長への7300通の手紙』(径書房、以下『7300通』と略)が売れに売れているのだという。版元に到着した註文は5000部を超え、急逮決定された増刷ではまだ足りず、追加増刷が決定されたというのが事件の翌日までの状況だ。
 この連載開始以来、長崎市長・本島等氏の思想と人格については再三触れてきた。またそれに関係する形で、同書についても紹介してきている。
 いま事態がこうした局面に立ちいたるに及び、気になってならないのは、本書の出され方、また(必ずしも「読まれ方」とイコールであるとは思わないが)報道のされ方に象徴される今日の日本のある精神の顔廃についてである。
               
 一冊の本はそれのみで必ずしも完結しているものではない。読者論の問題というのは、どのような種類の出版物においても完全に無縁であることはできないだろう。とりわけ同書は、その性格からいっても、その「編まれ方」と並んで「読まれ方」の持つ意味もまた少なくないのではないだろうか。以下、『7300通』を主な検討材料に、今回の事件をめぐる真の問題点を考えてみたい。というのは、この本の抱えるさまざまな危険性は、単にこの1書にとどまらず、このかんのすべての言論機関の退廃を集約的に象徴していると看倣しうるからだ。
               
 これほど重要な問題に対して出された出版物としてはあまりに問題を含む同書に、私はもう少し批判的な読み方がなされるものと予想していた。にもかかわらず現時点までに、そうした論調は(少なくとも、ジャーナリズムの表立った部分では)ほとんどまったく見られない。このこと自体に、私は現在の日本の異様なまでの批判精神の衰弱・頽廃を感じずにはいられないのだ。
 「天皇の戦争責任 ある! ない!」という帯の雑駁な宣伝文がまことに象徴的なこの本は、後で詳述するように言葉の真の意味での道義的な責任(これは、とりもなおさず思想的な問題となる)のみならず、それ以前の編集の技術的・形式的な次元における責任をも、必ずしもまっとうし得ていないのではないかと私は考える。表題に「長崎市長への」とはあるものの、周知のようにそれは最終的に本島氏の合意のもとでの出版ではなく、またそこに紹介されたのは編集・出版者の主観的(〝公正・中立〟を標榜された、つまり2重の意味での主観的)選択を受けたごく1部でありながら「7300通」と謳われる。国民の、というより人民の財産ともいうべき手紙の記録として不十分であるということはすでに書いた。(

 筆者註 信濃毎日新聞・同連載・第4回(1989年5月31日附)『〝言論の自由〟の中身』参照。
 
 「ごく一部の勇壮活発な抗議状()、また脅迫を除いて、すべてのお便りはきわめて真地なものです。市長発言に対して批判、抗議するものも、その多くは深い礼節謙譲のことばをもって書かれ、支持、激励するものも、書き手ひとりひとりのこれまで歩んでこられた道、いわば人生そのものをふまえて、あふれるばかりの真情をたたえています。」(『7300通』「刊行にあたって」編集部)

 筆者註 この形容は何らかの茶化し、ないしは嫌味なへつらいだろうか。しかし問題の本質を考えれば、本来こうした括り方で済まされる事柄ではないはずである。この1段高みに立ち、そこから奇妙な〝中立的〟余裕をもって吐かれたらしい言辞には、非常な不快を覚えずいられない。

 「深い礼節謙譲のことばをもって」書かれているという、それが問題ではないということが、この筆者にはどうして理解できないのだろう?  重要なのはあくまで、本島氏の発言に対する姿勢、その内容がすべてなのだ。これに対しては、何らかの手続きや最初から用意されている特権的立場によって人が一段高見に立った〝中立〟を装うことができないのと同様、文体や言葉遣いによって悪しきものを良きものに、また誤てるものを正しきものへと偽装することもできない。
 内容ではなく態度を、本質ではなく気分を、ことさら意味あるものであるかのようにもてはやす情緒主義こそが、かつてのファシズムを支え、いままたより隠微で柔らかな、この不透明な管理と批判精神鈍麻の時代を支える。

 「そして天皇乃至戦争責任を問うことは、とりも直さず私たち自身を問うことなのだ……。」(同)

 ほら、始まった!  何だ、この「……」はこれこそが、「一億総懺悔」の発想そのものなのだよ。「私たち」——完全な〝戦無世代〟である私自身をも含めて、いかにも日本人1人1人が戦争貴任を問い、担っていかなければならないのは当然である。しかしその《責任》の中身を、天皇および天皇制の担うべき《責任》と意図的に一緒くたにし、結局のところ何1つ明らかにされないまま、それら天皇制と情緒的に一体化した詠嘆と回願にしか終わらないことにこそ、この〝民草〟をもって任ずる者たちの常套手段のやりきれない限界とペテンがある。「天皇乃至戦争責任を問うこと」が、すぐさま「私たち1人1人」という、結局何1つ言ったことにならない集団主義に溶解してゆくのではなしに、あくまでその文字通り「天皇乃至戦争責任を問うこと」に明晰な焦点を合わせて剔抉されてゆくこと、天皇およひ天皇制の担うべき《責任》と「私たち1人1人」の担うべき《責任》の本質的な違いを明らかにしつづけることこそが、「私たち1人1人」の《責任》の第1歩なのだ。
 どうやらいくつになっても《天皇》から永遠に乳離れできない人格というものが、日本人という種族には確かに存在するらしい。《天皇》について考え始めたと思うが早いか、たちまち「……陛下!」となり、最後は「熱い涙」で「1言、あの者たちにも陛下からのお言葉を。そのお言葉をかけていただきさえすれば!」となってしまうのだ、この手合いは!
 「天皇乃至戦争責任を問うことは、とりも直さず私たち自身を問うこと」! この詭弁を打ち破らない限り、永遠に〝天皇の戦争責任〟を検討することなど、できはしないだろう。
 おいおい、いい加減にしてくれよ。悪を犯したと認めることまで「陛下」と一緒でないと心細いのかね、あの人びとは。もう一度、言う。天皇の《責任》と、〝天皇を利用した〟者たちの《責任》、そしてそれらに利用され流された者の《責任》はそれぞれに違うのだ。その重さが違うとは、アジアの他の国国の人びとを前にして、また日本国内でもそれらと戦った勇気ある少数者に向かって、あえて言うまい。だが、構造的意味・機能が違う。そして及ぼす被害の規模が違う。それを「ふまえ」ないかぎり、いくら「人生そのものをふまえ」ようと、そんなものはぬかるみにゴム長を踏み込んだほどの意味も持ちはしないのだ。

 「『特定の誰かが悪いのではない。日本人みんなが時代に流されていたのだ』といわれる。だが『流されていた者』には『流されていた者』の責任のとり方があるはずだ。それは自分を『流していた者』の責任を問いつづけること以外、ない。」(拙稿/前出・『〝言論の自由〟の中身』から)
 
 ああ、いつまで自分の貴重な人生の時間を無駄にして、こんな分かり切ったことを書き綴らなければならないのだ! これほどまでにやりきれない文章を書きつづけねばならないのは、初めてではないが久しぶりだ。 

 「本書をご一読いただければ明らかなように、手紙は、本島市長への支持意見、あるいは反対意見の、いずれか一方の側に立って編集したものではありません。」
       (『7300通』増補版「この本の絹集方針を再点検する」)
 これは一体どういうことなのだろう。
 すべてを「痛切な思い」といった情緒にのみ溶解してしまうとき、すでに歴史は個人的な思い入れの物語にすぎず、それを批判し相対化する余地はない。南京大虐殺に参加した兵士も、東条英樹も、「痛切な思い」を検証する歴史観、論理的・倫理的な批判精神こそが、まさに問われているのではないか。こうした主題でこうした手紙類を、それも取捨選択して刊行というとき、「いかなる立場にも」「思い」といった方法・基準が設定されることは、一見〝中立〟〝客観的〟な装いのもとに編集することの責任を無限に軽くし、一方その恣意性を最大限に行使してしまうことになる。
 人が「真摯」であることと、歴史的・人道的悪を犯すこと、ましてやそれらに無批判・鈍感であることとは、なんら矛盾しない。本島氏を撃った田尻某の激情だけが〝真摯〟でないとされるのだとしたら、その根拠は何だろう。極度の情緒性と主観性の強調でしかあり得ない。
 
 「ここには、いまにしてなお、幾多の血がしたたり、涙がにじみ、別離と悔恨の痛みがうずいています。」「彼らは顔蒼ざめ、五体は血ぬられ、飢えと渇きにあがきもだえ、あるいは波にあらがいつつ、大海に呑み込まれていきます。」
             (いずれも『7300通』「刊行にあたって」)
 
 ああ、引用するのもおぞましい。なんという空ぞらしい、悪どく空しい言葉の羅列だろう! 〝死者を侮辱する〟とは、たとえばこういうことを言うのだろう。
 こうした〝美文〟のもと、死者がその死者であるという理由ですべて一くくりにされてしまっていることは、心の底から恐ろしいと思わずにいられない。「玉砕Jとか「散華」といった奇怪な言葉を生み出した言語感覚と同じ精神の貧しさ、想像力の欠如が、ここには満ち満ちている。
 人間が、ある問題について1つの意見を持つということ、それはひいてはどのような《生》を——そして《死》を——選択したか(選択させられたか)ということであり、の重みが、まったく捨象されてしまっている。あまりに呑気で、そして特権的である。こうした横暴な精神が存続する世界では、人はついに死すら歪曲され、変形されてしまうという屈辱を舐めなければならないのか? この果てにたちまちやってくるのは、変形された一億総懺悔・総責任論だろう。
 もう1度だけ、確認しておく。筆者=編集発行者は「天皇の戦争責任を問うことは、私たち日本人1人1人を問うこと」と書いている。だが、「天皇の戦争責任を問うこと」が少なくともその問題に関して、あくまで「天皇の戦争責任を問うこと」であるのにとどまらず、たちまち客体と主体の同化・混合が行われ、〝天皇制を担ったわれら(誰のことか?)もまた同罪〟=陛下の過ちはとりもなおさず、御民われの過ち〟と総括されてしまう心情主義には、永遠に冷静な批評精神など根づきはしない。自称〝民草〟の側がこうも一方的に急転直下の自己批判のサイクルをあくこともなく自己陶酔的に繰り返していてくれるかぎり、日本人の、日本人による、日本人のための〝天皇制批判〟は、ついにただの一瞬たりとも現実の批判の構造として客観的に成立することはなく、天皇との愛憎あい半ばした心情的相関関係を共有(独占)すると称する、特定の世代の精神的自慰行為の水準を出ることはないだろう。そして当の天皇・天皇制は、この〝世代的に〟天皇制批判の尖兵をもって任ずる人びとが、いわば共犯的な自慰行為を反復することによってたえず真の(もっと恐るべき)天皇・天皇制批判を巧みに封殺してくれることにより、自らに向けられた批判への反撃に関してすら、自らは一滴の汗も流すことなく、永遠に枕を高くして惰眠をむさぼりつづけることができる……。まことに結構な仕組みではないか。
 この構造は一般に現在の頗廃した天皇制ジャーナリズムの根幹を支える原理そのものにも通底してゆく。その当の対象への唯一特権的な最前衛の発言者・批判者たる地位を、強引に——あるいは他からの〝推挽〟によってなんの苦もなく獲得したものが、その者のごとき衰弱した精神が公のシーンの批判者でしかないという自己提出をして見せることによって、間接的・結果的に、批判すべき当の対象への無限の庇護者・〝醜の御楯〟であるという茶番! 「若! じいはかくまでに御身を思ってお仕え申し上げておりますぞ!」……。
 〝悪貨は良貨を駆逐する〟という、あの名高いグレシャムの法則は、単に流通経済においてのみ成立する原理ではない。今日の日本において最も原理的な次元から批判を構築しなおさなければならない、《天皇制》から《差別》にいたる全問題の広大な領野が、想像しうるかぎり最も低劣な職業的言論人らの〝飯と自己宣伝の種〟として寡占されている。
                           〔以下次号〕

☆☆☆☆☆

《ふりかけ通信》第10号

『蜚語』第9.10合併 p78 

 農村のいわゆる〝嫁不足〟の打開策として、アジア各国から女性を嫁として連れてくることが、行政まで乗り出して行われるようになってから久しい。そのことをテーマとしたシンポジウムなども開催されさまざまに意見が出されている。 財団法人日本青年館が主催する「結婚問題スペシャリスト講座」は毎年2月に開催され、すでに4回行われている。毎回報告集が出されているが、それでみるかぎり、いわゆる嫁受け入れ賛成側の発言が凄い。その1言1言が、性差別そのものだし、すでに受け入れた女性たちをも侮辱している。彼女たちは日本語があまりよく分からないから、怒りを買わないで済んでいるのではないだろうかとさえ思う。
 フィリピンのサンチャゴから5人の女性を嫁として受け入れた徳島県の東祖谷山村の村長は、村の過疎の現状を語り、「フィリピン娘を金で買ってきたとか、また、じゃぱゆきさん的な見方をされることは大変迷惑なことです」「嫁がほしいという青年の心と、日本へ行きたいと思っフィリピン娘の心がぴったり合ったのだと思っています。こうした気持ちのうえで両性の合意をみた結婚であると思っています」と、第2回結婚問題スペシャリスト講座で発言した。
 「フィリピン娘」とは随分失礼な呼び方だが、この人は「両性の合意」の意味をはき違えている。合意とは、お互いに結婚したいという気持ちを指すのであって、この場合、フィリピンの女性たちは、結婚しなくても日本に来る方法があれば、そうはしなかったのではないだろうか。 そもそもなぜ日本に来たかったのか。フィリピンは貧しく、日本は金持ちだからだ。同じくフィリピンから山形県朝日町——東祖谷山村は、ここを参考にした——にきた女性は、自分がなぜ日本人と結婚したかということを、涙ながらに次のように語っている。
 「……やっぱり、心だけじゃなくて、自分の生活にも、それに買いたいなあ、こういうものが欲しいなあ、心だけじゃなくて、こういう男を愛しているなあ、愛しているだけなくて、……(涙)心だけじゃなくて、やっぱり、いい生活が欲しいですから、だから、日本人と結婚しました。でも、私の考えと違って、非常に大変でしたよ」 
 と。この女性は、まわりの人びとが協力的だったので「今は、だから、私の場合は日本に来てよかったと思っています」と締めくくってはいが……。
 また、韓国から新潟に来た女性は、日本の植民地支配の歴史を挙げて、
 「昔とやり方は違うけど、国の力を後ろだてにして、甘い言葉でアジアの娘たちを日本嫁不足のために利用していると思います」「……嫁さんたち、ここに来て嫁不足対策の結婚だとわかった時、すごく傷ついています」 
 と語っている。同じ韓国から来た女性のなかには、姑から「〝高い女〟金を返して出て行け」などと言われた人もあると涙ながらに訴えている。 茫然とするほど悲しい状況だと思うけれど、これらの発言を間いて「これでよし」と考える人の気がしれない。
 山形県の山村に住む〝農民作家〟佐藤藤三郎氏の発言など、この女性たちの気持ちなどまったく考えていない。「どこからでもいいから結婚相手を探してくる以外にないんじゃないか……」と無責任なことを言い、アジアの女性たちには「……日本が豊かであると思ってきたとすればこれは大間違いだと思います」と説教を垂れているからあきれるばかりだ。
 おまけにすでに〝嫁〟としてきた女性がいるにもかかわらず、本当は日本人がよかったがしかたないというような発言を、この男ばかりでなく何人かが言っている。彼女たちはそれを聞いてどんな気持ちだろうか。しかも、彼女たちの多くは子どもが生まれてしまうと諦めの心境か、鷲くほど落ち着いてしまう。なんともやり切れないではないか。


映画『カサブランカ』を見た。

 ドイツ占領下のフランス領モロッコの首都カサブランカが物語の舞台。
イングリッド・バーグマン扮するレジスタンスの指導者の妻が、夫が収容所からの脱走に失敗して死んだとの悲報に沈んでいるときに出会い、恋人となったハンフリー・ポガード扮する元レジスタンス運動員の男と、実は生きていた夫との間で動揺する話なのだ。
 所詮、ハリウッド映画だと言ってしまえば、そうなのだけれども、私はこの手の戦争やレジスタンスや革命を背景とした恋愛映画を見ると、いつも釈然としない気持ちになる。だって、そこに登場する女は、いつだって、誰だって、ばかみたいなんだもの。
 それに、秘密警察の手を逃れて、カサブランカまでたどりつき、アメリカヘの亡命を図ろうとする人が、毎晩ドレスアップして登場する。それも女がばかみたいに見える要因なんだけれども、過去何10年もの間、こうして作られた女性像を、変えていくのは容易なことではないなと思ってしまうのでした。


「山形交通裁判を支えてくださった会員の皆様へ」
という手紙が来ました。

 山形交通裁判は、バスガイドのAさんが、出張先のホテルで運転士に襲われたことを会社に訴えたところ、逆に解雇されてしまったことに対する、解雇無効を訴える裁判のことです。「山交裁判に関わった山形と宮城の女たち」から送られてきた手紙の内容は、およそ次のようなものでした。
 「昨年11月、教育史料出版会より出版された、宮淑子著『セクシュアル・ハラスメント』に、山交裁判のことも載っているが、Aさんの意に添わない形で掲載され、Aさんを傷つけることになってしまった」といったものです。
 手紙に書かれた経過を見るかぎりでは、著者が被害者であり裁判の原告であるAさん本人から、取材して本に載せる、また内容に関してどの程度記事にして良いかなど、本人のプライバシーに関わる事柄に関して、きちんと了解を取らなかったという、ごく初歩的な手続を怠ったようです。
 この本の著者は、取材にあたって、当事者から直接の話は聞けず、当事者の夫が取材に応じたものの「原稿ができたら送る約束でしたが、何の連絡もなかった」とのこと。また、支援の女性たちは、会って話をすることには応じたが、取材と断られたわけでなかったこと。それらの経過を経て、「Aさんのプライバシーに関わることなので不安で何度も宮さんに連絡したのですが話になりませんでした」と、報告されています。そして「見本の本を読んでみて、不安は現実のものとなってしまった」。当事者の「Aさんにとってはショックのようだった」と述べています。
 支援の女性たちは、この本の著者に不用意に詳しい話をしたことに関して、Aさんに謝罪しています。そして、著者がAさんに宛てた手紙に対しては「……謝罪というよりは、性暴力に対して立ち上がるこれからの女性達のためにAさんのすべてが明らかになることについては我慢してほしいといっているように思えました」との感想を述べています。
 
 私は次のような手紙を、山形へ宛てて書きました。
 《前略 あれから気になったので『セクシュアル・ハラスメント』(この言い方に私は賛成できません。どうして「性的いやがらせ」ではいけないのか。そのほうが誰でも一目、一言で分かるのに……いちいち「性的いやがらせのことです」と説明するのなんておかしいと思いませんか)を読みました。予想してたこととはいえ、たいへんショックを受けました。この本全体に良い印象はありませんが、山形交通の項も、こんなふうに書かれたら誰だっていやです。
 私はこの著者の「ジャーナリスト」として立つ姿勢に疑問があります。いちばんの被害者は誰なのか。そして、傷つきながらも立ち上がった女性がさらに傷つくようなことをどうしてやるのか。1人の人権やプライバシーを守れなくて、なんで他の女性たちのためになるのか。なんのために書いているのか。とくに「あとがき」を読んであまりの傲慢さに、どうしてもこのことをお伝えしたくお手紙を書きました。
 それは「書いていることをなりわいとしている以上、私が知り得たことを闇に葬るわけにはいかなかった」という1節です。
 差別されたもの、弱いもの、人権を犯されたもの、これらの人びとの立場に立ち物を書く、たとえ知り得たことであっても、それによってそれらの人びとが傷つくことは公表しないのが、ジャーナリスト(と言うならば)の仕事だと思います。「知り得たことを広く伝えることがジャーナリストの使命」だなんてとんでもない話です。だってその知り得たことと称するものだって、取材方法によって全く違った内容になりますよね。どちらが本当かということを、取材した者は何によって判断するのでしょう。そのとき、どういう立場で物を書くかが問われるのではないでしょうか。これは「事実とは何か」として、ノンフィクションを扱う人間に突きつけられる問題でもあります。私は「事実は、力を持たない者、差別された者、弱い者、人権を犯された者などの側にある」と思っています。そのように考えたとき、この本の著者の立場はひじょうに曖昧で、問題がプライバシーや人権に深くかかわるだけに、困ったことだと思いました。》
 
 1人のジャーナリストが有名になる影に、1人の女性のプライバシーの侵害があるわけです。


女性の社会進出!?
 
 
最近封切られ、電車の釣り広告にもなっている映画「アパッチ」の広告コピーを見たことありますか。
 「女性にも平等に危険を下さい」を見て、一瞬ぎょっとしたのだけれども、実は現実のほうがはるかに進んでいることを思い出し、新聞のきり抜きの山を探した。
 まず、今年1月4日付『朝日新聞』。「米軍、女性兵士も前線へ」との見出しで、29歳の女性大尉が30人の部隊を指揮して、パナマ軍と交戦したことを伝えている。
 そうかと思えば、2月17日『朝日新聞』では、イギリスの海軍が長い伝統を破り、女性兵士の艦上動務を認める決定を行なったことに対して、夫の浮気を恐れた水兵の妻たちが、反対の請願とデモを行なったとの報道があった。

1990年1月4日付『朝日新聞』

 来年の正月映画「BEST GUY」は、航空自衛隊が舞台で、F15イーグルのパイロットの教官が女性であるとの設定で、話題づくりをしようとしている。
 映画のほうは、どうせ先に挙げた「カサブランカ」と同じで、恋愛を絡ませて、女性を愚弄した描き方をするのだろうけれど、その点も含めて、これまた2重にも3重にも愚劣なものになりそうだ。女性の社会進出も中身抜きで押し進めると、こんなことまで起こってしまう。今や人手不足の解消にも、女性の労働力を、といった傾向だってある。
 私も、男ばかりの名前が並んでいたりするといい気持ちはしないけれど、そこに並んだ男ともども、滅んだほうがいいことだってあるんだ。

☆☆☆☆☆

【編集後記】

『蜚語』第9.10合併号 表3  ●訂正 2段目7行目(中公新書→中公文庫)

【2023年の編集後記】

▶︎タイトルの写真は2016年の大浦天主堂。
▶︎本島等さんが亡くなってすでに9年が過ぎた。この特集を改めて読んでいて、お会いできなかったことが悔やまれる。「今東京に来ている」と突然お電話をいただいたのはいつのことだったのか、慌ただしそうに「なんとか時間が取れたら伺います」と言って電話を切られた後、再びかかってくることはなく長崎に戻られた。生前、こちらから時間を作って、長崎に赴けばよかった。
▶︎オーロラ自由アトリエで1994年に絵本『さだ子と千羽づる』を刊行し、それ以来、毎年8月に広島平和公園で絵本の街頭朗読を行なっている。コロナ禍でこの3年間、広島行きを断念してきたが、それ以前の数年は、長崎にも足を伸ばすようになった。こんど長崎に行ったら、本島等さんの墓へ参ろうか……。
▶︎この第9.10合併号から、発行主がオーロラ自由アトリエになった。それまでは、未完社という社名で、雑誌やカタログなどの企画・編集・取材・執筆などを請け負っていた。『蜚語』も当初の発行主にはその名を使った。
▶︎有限会社オーロラ自由アトリエは、1990年5月31日に設立した。最初の出版物は『アジア、冬物語』。山口泉さんが「信濃毎日新聞」連載していた「本の散歩道」というブックレビューの形式を使ったエッセイをまとめたもので、1991年7月に刊行した。

『アジア、冬物語』山口泉(1991年刊)表紙

▶︎天皇の戦争責任問題をめぐって、当時のさまざまを思い出しては、腹立たしい気持ちが蘇ってきている。天皇制はすでに孫世代に引き継がれ、また、この国の政治家も、どいつも、こいつも、バカヅラな世襲が跋扈する有様で、国は滅びの道を歩んでいる。もう少しまともな世の中を、次の世代に引き継ぎたかった。
▶︎山口泉さんの「会見記」で、本島等元長崎市長が読んでくださったという私の「近況報告」(『蜚語』第5.6合併号)は、再録していません。良心的出版社と言われているところが、実は裏腹であるというような内容です。これは、そこに限ったことではなく、よくある話です。あえて、再録の必要もないかと思います。



 

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