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『蜚語』創刊準備号 特集12.8……。 (1987.11.25)

 昔、今日のように、ネットを通じたコミュニケーション方法がなかったころ、「葉書通信」というものがあった。葉書のサイズに段組したレイアウトで、ちょうど新聞の1面のような体裁のもの。私も、1987年4月、性差別や男女関係、家族制度を主なテーマに《ふりかけ通信》というタイトルの「はがき通信」を発行した。
 しかし、3号まで出したあと、とても葉書サイズでは入りきれなくなって、数ページの小冊子となった。そのタイトルが『蜚語』である。
 「流言蜚語」に由来する言葉なので、日本では悪いものとされてきたけれども、私は、体たらくなマスコミに対抗する意味で、あえてこのタイトルをつけた。
 DTPもない時代、ワープロでプリントアウトした原稿やコピーした図版などを切り貼りして版下を作り、近所の軽印刷所に頼むというもの。
 これから順次、再録していこうと考えている。


1987年11月25日 創刊準備号表紙。

【表紙は語る】


あるとき、戦争中のニュースフィルムなどを見ながら、そこに写っているひとりひとりを必死で捉えようとしている自分に気がついた。戦争とそれにかかわるものを、できるだけひとりひとりの人間単位にして見たいとおもう、名前のない兵隊ではなくて……。

物言わぬは腹ふくるる業

 思う事を表現するこれといった才能もなく、ましてや金も地位もなく、不満だらけの人間は、ときおり不機嫌になって八つ当たり、周囲に迷惑をかけるのが関の山だ。それでも積もり積もった不満は、グツグツ、ブクブク発酵してきて、おやおやなにやらガスのようなものが噴き出し始めた。
 家族制度や戸籍の問題をテーマに、《ふりかけ通信》を3号まで出してきたが、4号からは雑誌の体裁で発行することにした。新雑誌のタイトルは『蜚語』、隔月刊、《ふりかけ通信》は、今までの同じテーマで、〝雑誌内通信〟となる。
 〝蜚語〟は「どこからともなく飛び来たことば。誰いうとなく伝わった噂。いふらし。流言。飛語」の意。
 民衆と言われる人びとの成熟の度合いが低いと、蜚語は権力者の道具になる。関東大震災では、流言飛語に操られ暴徒と化した日本人が、多くの朝鮮人を殺した。それに比して、韓国の人びとは、長い軍事独裁政権に抗する闘いで確実に成長した。〝蜚語〟は抵抗の武器となった。 
 私たちは、彼らからたくさんのことを学んだ。
 彼らにあやかろうというわけではないが、このまま発酵し続けても腐ってしまうだけだ。それではいっそのこと、発行してしまえなんてダジャレたわけで、まずは、乞うご期待!

特集 12月8日…………。

歴史を学び知ることを恐れては、
再び、過ちを繰り返すことになってしまう。

戦争責任……「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」(1975年10月31日、ロンドンタイムス中村浩二記者の質問に答えて)

 「戦前世代の生き残りの一人として、あの悲惨な戦争を阻止できなかった貴任を少しでも果たしたいと思って………」。家永三郎氏は、教科書裁判を22年も続けている理由としてこのように語ったと聞く。
 上官の命令とはいえ、捕虜を殺したことを悔いて、自分は結婚をして、幸せな家庭を持ってはいけないと、生活保護を受けながら老人施設に一人暮らし、老体に鞭打って、戦争に反対する運動を続けている老人がいる。
 戦後46年経ってようやく、南京大虐殺をはじめ、旧日本軍が行った残忍な行為に参加した元兵士が、自らの行為を悔いつつ当時を証言し始めた。
 これらの人びとと、冒頭のすっとぼけた発言の主を比べるつもりはないが、あの戦争の最高責任者であった戦犯中の戦犯を、きっばり処刑しなかったことの結果が、冒頭のような発言を許す世の中を生み出している。

 12月8日は、いわゆる太平洋戦争開始の日ということになっているけれど、その4年前の1937年12月は、同7月7日、中国への侵略戦争を全面的に拡大した日本軍が南京を攻略、大虐殺を行なった。その12月14日天皇は、
「……速二首都南京ヲ陥レタルコトハ深ク満足二思フ此旨将兵申シ伝ヘヨ」と〝お言葉〟を発したそうな。
 これが、申シ伝へを受けた将兵の姿である。(註)
 中国の小中学校用教科書には、「南京で平和に暮らしていた住民は射殺練習の的にされ、刀で切られ、石油で焼き殺され、はては心臓をえぐりとられるものもあった」と記されているという。

(註)現在はネット上に当時の将兵の写真がたくさんあるので、そちらをご覧ください。

松代大本営跡とは何か。

愚行と笑えぬ、この国のありよう。

 太平洋戦争末期、日本軍部は本土決戦に備えて大本営(天皇御座所・軍事統帥本部・政府•NHK・通信施設•印刷所などをそっくり移転する計画)を長野県松代付近の地下に建設するために、山をくり抜き始めた。工事は1944年11月に始まり、敗戦までのおよそ9か月間に長さ13069m、堀り出した岩石14万m3というから、かなりの突貰工事であった。その苛酷な労働には、強制連行されてきた朝鮮人労働者が使われ、その数7000人とも15000人とも言われている。極秘のうちにに行なわれた工事のため、いまだにその実態は明らかにされていないが、多くの朝鮮人が過労のため亡くなった。朝鮮人強制連行、強制労働のまさに、最後の現場である。
 地元では、篠ノ井旭高校の生徒らを中心に平和祈念館として保存しようという運動が起こっている、。
 今年5月、その大本営跡を見に行った参加者約60名は、様々な思いをもって懐中電灯の灯りを頼りに、地下壕を歩いた。「松代地下大本営を見に行く会」の感想文集より、何編かを転載する。

松代大本営を訪ねて  

李相鎬 イ・サンホ 社会福祉法人青丘社職員(当時)(註)

 地下壕を出て来て、新間記者からコメントを求められた。「どう感じられましたか?」私は、どういう答えを期待しているのかと考えた。しかし、ただ単に、「驚いた。信じられない」と言うことは出来なかった。いろんな事を話したように思う。
 川崎に戻って考えた。「何故、松代のことを何も知らないで生きてきたのか」。私は、いつもここにぶつかる。朝鮮人であることを隠しつづけてきた少年時代。そして、青年になるころ、在日朝鮮人の歴史を知り、「何故、強制連行のことを何も知らないで生きてきたのか」「何故、父や母、祖母たちは何も言わないで生きてきたのか」。
 在日韓国・朝鮮人は、日本国籍も含めて100万人を大きく超える。しかし、日本社会ではその数の多さほど話題にも問題にもならない。今もなお、在日する多くの人々は、「ほっといてくれ。差別なんか関係ない」と言う。そして日本人は、「私は差別なんかしていない。まわりが悪いのだ」。「差別はよくない。だけど、朝鮮人も問題だ」。そうやって、在日の問題は、タブー視されていく。松代もタブー視されてきた。何もなかったかのようにすることがいいこととされてきた。しかし、戦後40年をすぎて、日本人の意識は何も変わらなかった。みざる・いわざる・きかざるでありつづける限り、日本には真の平和も、真の国際化もありえないだろう。差別に正面から向き合えない日本社会に、共に生きる社会は訪れないだろう。
 今、松代で、高校生たちが声を上げ始めた。共に生きるためにチャレンジし始めた。物質的に満たされ、とぎすまされた感性を失っていると思っていた若者の中から動きが出てきた。新鮮な呼吸をしはじめてきた。
 夏、私は神奈川の若者たちを松代に連れて行こうと思っている。
 共に生きるために……。「許そう。しかし、忘れまい。」

(註)リンク先に、李相鎬さんへの慰問押捺に関するインタビュー映像があります(NHKアーカイブ)。

「松代大本営跡」を世界平和の砦に

浜田 甫(はまだはじめ/学習塾経営)

 壕をひと通り見学し反対側の出口あたりに来て、信濃毎日のインタピューを受けた参加女性の開口一番は、「ここに、こんなものを作って何に使おうとしたのか、まずその事に疑問を感じました」と。見たまま感じたままを語る最も端的な表現。横でこれを耳に挟んだ私も、見学中ずっとそんな印象を持ちながら壕の中を歩いた。
 無論この地下壕が「米軍の本格的本土爆撃が深まってきた1944年、天皇・大本営・政府という当時の日本中枢部を空襲から守り、本土決戦の最後の指揮をとる為、陸軍内部で密かに企画。当時の金額で総工貨2億円の巨費と強制連行朝鮮人を含む延べ300万人を動員し、住民は勿論、管轄の憲兵隊にも極秘裏で建造。中途で敗戦を迎え、放置されたままになっている『松代大本営跡』」という予備知識を持った上で、改めて出てきた感想である。実は、こうした、「どうしてこんなものが……?」という極めて素朴な壕についての疑問こそが、現代日本に暮らす我々にとって、あの太平洋戦争就んずく日本軍国主義の本質とそして今の日本を考えるメルクマールとならざるを得ない。私は、この「松代大本営跡」という地下壕をまのあたりにして、壕という物質そのもの、及び壕をとりまく状況の両者のそれぞれについて、《二重の意味》での奇怪な本質を見い出さざるを得なかった。
 すなわち、単に地下壕=防空壕と云っても、それは「長野盆地に接する白鳥、皆神、象山の三山の地下に、のべ延長13kmにのぼる大地下壕」であるという物質的規模であるという点。事前に私自身の地下壕という印象から想像したより、遥かに大きな地下「穴」であったことに驚かされた。しかし、である。この「穴」が、何と天皇、陸海軍大本営、政府など当時の日本中枢部を収めるための建造物であったことへの、余りの〈発想の歪少さ〉ないしは自分達だけ生き延びようという卑屈な〈ケチ臭さ〉をこの「穴」の中に見る奇妙な物質的側面における二重性。
 そして、この地下壕が作られて戦後40年を超えるのに、そのままソックリ原型のまま放置され残っているという現況。ヒロシマの原爆ドーム、或いはアウシュビッツ収容所のように、後世の為「ここだけは当時のままに……」と意識的に保存されてきたのではなく、「単に放梱されて来ただけ!」というのは、やはり繁きである。(一部は戦後間もなくから「地霰観測所」として使用されてきたのを除いて)ところが不思語にも、このような大地下埋が、原型そのままで残存しているにも拘らず、ヒロシマやナガサキの原想記念館をとりまく今日までの状況に比し、国家レベルで問題にされたことはまだ一度もないという状況における奇怪な二重性。私達は、これが偽らざる《現代日本の二重性》であり、かつ《本質》であることを確認せざるを得ない。あることを確認せざるを得ない。
 これを認めた上で、真にこの矛盾を止措する展翔は、この地で死んだ幾多の勅鮮の人たちの魂を思い、すぺての民族と民族がその述いのためだけで二度と悲劇を起こさぬ恒久的世界平和を哲う《記念碑》、すなわち世界平和の砦》に、この「松代大本営」を『平和記念館』として残すべく運動を続けることではないかと思うのである。

トンネルの向こうに、見えたもの

遠藤京子

 戦前・戦中の日本は、多くの人びとを犠牲にして〝ばかげたこと〟をたくさんやってきた。〝ばかげた〟とは、今そう言えることであって、当時は真剣だった。とくに、若者は八紘一宇を信じて使命感に燃えていたというようなことを、体験者から聞くことがある。たいていの場合、今は反戦運動をしていて、その活動の場で告白する。
 あれだけ多くの人びとを戦争に駆り立てるために、いったいどのようなことを国はやったのだろうか。実例を調べてもどうも実惑がわかない。ただ、朝鮮や中国などで人を人とも思わないことを平気でやったり、強制連行などに携わった日本人も、特別の人間だったとは思えない。いま生きている私たちと大して変わらないし、世代的にもそれほど昔のことではない。親や祖父母の時代だ。そう考えると、これからだって彼らがかつてやってきたことと同じ事をやらないという保証はどこにもない。実はすでにやっているのだ。
 他国の森林を伐採し、海を荒らし、生活文化や価値観を踏み躙り、その上での豊かな生活に浸っている。戦争に負けて新しい憲法が発布されても、 深いところで人びとは変わらなかった。戦後40年も経つのに……などというけれど、何年たっても戦前・ 戦中のようなことは起こる。何も変わっていないのだから。そして、朝鮮特需・ベトナム特需で中流になった。いったんレベルアップした生活は、容易なことではダウンできない。人びとにとって豊かな生活を守ることが最も重要なことだから、不況になればとうぜん〝特需〟を期待する。少なくとも、隣近所のレペルではそんな立ち話しを耳にする。大義名分はどのようにでも付けられて、みんなそれが正義だと信じて疑わないようになる。
 この国には、民主主義というものがない。あるのは「戦後民主主義」である。これがくせもの! 自由だの人権だの平等だのと言葉だけが内実を伴わずに濶歩している。何も変わらないものの上に、ファッションとしてふわっと被っただけ。人びとは相変わらず愚痴をこぼしながら、しかたがないと諦める。なぜか、一人になるのが怖いからだ。民主主義が成立し育っていくためには、一人一人が独立した個人として自立していなくてはならないのに、この国の人びとはどこかに所属しなければ生きていけない。それは、ドロップアウト組も同じ。常に集団でいないと不安で落ち着けない。
 このすばらしき人びとは、実に統治し易い。中流の豊かな生活を守りたくて、義務と責任の伴なわないファッションとしての自由が大好きな……。

国賊呼ばわりされたくなくて。

石川すず

 第2次世界大戦末期、国内では食物がなくなり、戦争は益々苛烈を極め、どんな呑気やでも、これはおかしい、日本は敗けるんじゃないかしら、とそろそろ思い始めた頃、赤坂にヤミのバターを売る所があって私は出かけた。その帰りの電車の中で、「あっ、憲兵だ!」という声を耳にした瞬間、あらあらしい靴音が私の前でとまって、「外に出ろ」と言った。ヤミ物資を買った、すねに傷持つ弱身で、大切なバターさえ奪われなければと、私は素直に抵抗せず下車した。するといきなり、「おい、その髪はなんだ、毛唐の真似しやがって」と言った。その頃、断髪の人はあまりいなかったので目立ったのだろう。何だそのことかと私は胸をなで下ろした。
 「あらいけないでしょうか、空襲の時でも何でも一番簡単で、国策の線に添った髪型だと皆さんにもおすすめしたいるんですが」。 すると二人の憲兵は二人とも何故か言葉なく、唇だけ変に動かして「もういい、乗れ」と言った。 見ると、なりゆきいかにと電車の窓からのぞいていた人たちが一斉に首を引っ込めた。電車が止まっていてくれたのである。電車に乗ると「飛んだ目に遭いましたな」「つれて行かれないでよかったですね」とみんな同情してくれた。その中に、こんな話をしてくれたおじさんがいた。  「私もこの電車がすいていたので、一方の足を片方の足にのせて、つまり足をくんで、ゆっくり腰かけていたんです。そうしたら、いきなり憲兵がやってきて、私の向こうづねを、いやというほど蹴っ飛ばしたんですよ。痛いの何のって、涙が出ましたよ。〝鬼畜米英という言葉を知らんか、貴様〟と言ったんですよ。私は〝知っていますが、私が何か〟と言い終わらないうちに、〝日本人ならちゃんと足を揃えてかけろ〟と言うんです。あまりのくだらなさに廻りの人たちが笑い出してしまいました。やっこさんたち、さすがに少 し恥ずかしかっ たのかすごすごと降りてってしまいました。まっ たく目茶苦茶ですな、もう」。  戦争中は肺漫澗になり病院通いをしていた。  ある時、防空演習の時間が、私の病院に行く時間とかち合った。一人足り無いじゃないか」と防空団長が言っ た。「石川さんは病院に行きました」銃後の吾々も戦地の兵隊さん同様毎日が戦争でなければならなぃ。 少しくらいの病気で防空演習を怠けるなんて許せない。よし、石川の家を目標に、ここに焼夷弾が蒋ちたと仮定して水をかけろ」  私が帰宅した時、家の中は水びたしになっていた。隣組の人が二、三人集まってきて 気の詣そうに話し合っ た。  「ごめんなさいね、反対できないで」  「すぐ国賊呼ばわりされるのが辛くて」  「空家ならともなく、人が住んでる家をこんなにするなんてムチャですね」   「よその 隣組で屋根にの ぼって火を消す練習の時、怪我人ができたんですって」  「水いっ ぱいいれたパケツを持って、はしごをの ぼるの実際こわいですからね」  主婦たちはみな団長様のいない所では実に雄弁である。だが、これらはすべて、かげの声にすぎなかった。

石川すずさんのこと
すずさんが亡くなった。89歳だった。初めお会いしたとき、すでに70歳を超えていらしたの、でいずれお送りすることになるのだろうと思うこともあったが、そのときは、「インターナショナル」や「同志は倒れぬ」を歌うのだろうと思っていた。しかし、ともに闘ってきた同志は参列しなかった。
 闘いは政治に無関係ではいられないけれども、闘いに無関係な政治はある。その政治のために、本当に寂しい通夜だった。

【石 川すず】
 1898年7月横浜本牧に生まれる。
  フェリス女学院卒業後、YMCAの活動を通じて社会に目覚める。その後、 1987年8月31日、 89歳で亡くなるまで、戦争に反対し、自由と平等と平和のために働いた。若いころからたいへ ん行動的で積極的なすずさんは、   河上肇の著作を読んであこがれ、京大へ入りたいとおしかけたり、失 恋?   して大阪でYMCAの活動をしたり……。
 メー デーに新調の振り袖を着ていっ た話は、すずさんを知るうえで大事なエピソード。 労働者のお祭りと聞いてめかしこんでいっ たら、もみくちゃにされて袖はちぎれ、泥だらけになっ たという事件だ。   
 その時の若い労働者の発言が、 彼女の人生を根底からひっくりかえした.   この事件がきっかけとなって、もっ と世の中を知りたいと思うようになっ たとか。戦後、ピストルをつきつ けられても戦争に反対しますと言わなかったじゃないかと自らを反省し、再建まもない共産党に入党した。自他ともに認める《赤旗》売りの名人だったが、1950年の分裂で除名される。
 1970年、革新無所属の目黒区議会議員宮本なおみさんを支持して、議員報酬の値上げに反対する宮本さんの議会活動応援のため本会議を傍聴した際に、傍聴席から「お手盛りアップ反対!」と声を上げた。すると、議場から傍聴席を振り向いてものすごい血相で共産党の議員が、こう言った。
 「黙れ! この反戦ババア!」
 共に傍聴していた私も、これには驚いた。いまだに語り草となっている。
 ちなみにこのお手盛りアップは、39対1で可決された。
 共産党除名以降は、無党派市民として、婦人民主クラプ祐天寺支部として骨身を惜しまず活動した。晩年、婦人民主クラプ分裂の際、支部数の欲しい 一党派に祐天寺支部として利用され、それまでともに闘ってきた同志と離れたことが悔やまれる。
 この原稿は1981年に書いていただいたが、発表できずにあった。(京)

【2022コメント】
 松代大本営跡は、現在は長野市の観光案内にも掲載され、パンフレットまで作られている。写真なども豊富にあるのでそちらを参考にしてほしい。
 私たちは、父親が地下壕の建設の現場で働かされ、近くに住んでいたという朝鮮人の父と日本人の母を持つ山根昌子さんから、松代大本営のことを聞き、ともに見学に行くことになった。
 戦後、彼女の家族は朝鮮民主主義人民共和国へ帰国することになったが、長野から新潟へ向かう列車が走り出す直前に彼女だけ飛び降り、一人日本に残ったとのことであった。当時、山根さんは19歳であった。
 山根昌子さんはすでに亡くなられたが、『遥かなる旅』という著書を残している。

ふりかけ通信 第4号

ハガキ通信として出していた「ふりかけ通信」は、A5のサイズの1ページになりました。

編集後記

『蜚語』創刊号「編集後記」

【2022年の編集後記】
▶︎創刊号でもよかったんだけど、世の中の常を真似て、準備号と気取ってみたんだな。
▶︎子どものころ、母の実家である石川県の浄土真宗の小さな寺に、夏休みになると行った。そこで見た母の兄だという人のセピア色になった写真。出征の時に撮ったので、悲しそうな顔をしていると、母の妹が言っていた。結核になり敗戦の4か月ほど前に、宮古島の陸軍病院で亡くなったと聞いた。それが、私が、戦争と出会った最初の出来事。
▶︎沖縄に移住して、出会うすべての人が、身内の誰かを沖縄戦で亡くしている。それが、4人に1人が戦死した沖縄戦の今。
▶︎女性にたいする性暴力や性搾取が、あれやこれやのごまかしによって、あたかも女性が自ら望んだかのような言説を、ミソジニーな連中が垂れ流す。「ふりかけ通信」は、ミソジニーと闘います。

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