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【備忘録】The Art of Being.  The Art of Living. 生き方の技術 生活の芸術


1. 趣味は何かと聞かれたら

 私は、比較的多趣味な人間だ。
 子供の頃は10個以上の習い事をさせていただき、社会人になった今、仕事以外の時間、つまり「余暇」を、茶道、パルクール、読書、ヴィパッサナー瞑想、データサイエンス研究、筋トレ、水泳、海外・国内旅行、バイオリン演奏・作曲、作品鑑賞、美術館巡り、投資などに費やしている。
 しかし、これらの活動が「趣味」なのかと言われたら、私は肯定することに躊躇してしまう。趣味とは、「仕事、職業としてではなく個人が楽しみとしている事柄(広辞苑)」であるが、私にとってこれらは生活の一部であり、趣味や娯楽とは別物のような気がして、違和感を覚えてしまうのだ。

辞書の定義では、仕事・職業以外の楽しみを趣味・娯楽としているが、現代人の生活をあえて分割するなら、①仕事(収入・糧を得るためのプロセス)、②生活(健康かつ文化的に生きるためのプロセス)、③娯楽(①及び②に該当せず、自分らしく生きるためのプロセス)の3つに分けられ、それぞれがどのように分離し、また融合しているかには個人差があり、綺麗に分離できるものではないように思われる。
例えば、学生時代に体育会サッカー部で活躍していた、現在会社勤めのサラリーマンが、毎週日曜日に地域の児童サッカークラブのコーチのようなことをして謝礼1000円(気持ち程度)を受け取っていたら、その時間は①〜③のどれに該当するのか。それは、本人の考え方次第だろう。

私が上に書いた「余暇の過ごし方」も、単純に③娯楽に該当するものではない。

茶道🍵:
季節感を楽しみながらお茶を点て、飲む。茶事では、食事とお菓子、しつらえを工夫して、人をもてなすという、生活様式の総合芸術。私は弟子をとっていないので①ではないが、②と③のどちらかは曖昧。

パルクール🏃‍➡️:
壁や段差といった街の中の障害物を利用して合理的な動きで移動することを追求するライフスタイルスポーツ。私にとって①ではないが、日常動作である「移動」に組み込まれているため、②と③のどちらかは曖昧。

読書📕:
仕事に関するまとまった情報を得るために読書することもあれば(①)、生活の知恵を得るために料理本や片付け本、税金に関する本等の実用書を読むこともあれば(②)、娯楽のために文学作品やラノベを読むこともあり(③)、①〜③の全てに該当。

ヴィパッサナー瞑想🧘:
観察し、ただあるがままに受け入れる訓練であり、戒律(シーラ)は生活習慣とも密接に関係している。また、ヴィパッサナー瞑想の訓練は仕事でも役立っており、①〜③の全てに該当。

データサイエンスの研究💻:
仕事とは関係なく、自分の興味関心に沿ってデータを集めて仮説とモデルを作成し、うまくいったものを学会で発表しているが、そこで築いた研究者との人脈が仕事でも生きてきているので、①と③に該当。

筋トレ💪:
健やかに長く生きるためには筋肉を「貯筋」することは大切であり、歯磨きするのと目的は変わらない(②)。他方、回数や重量を増やすこと、YouTubeを見ながら工夫することに楽しみを見出しており(③)、②と③のどちらかは曖昧。

水泳🏊:
筋トレと同様に、健やかな体の維持のためと、自身の楽しみのためという2つの目的があり、②と③のどちらかは曖昧。

旅行✈️:
仕事で海外出張の機会が多く、自由時間を見つけると、情報収集を兼ねて出張先の街をブラブラしている(①)。それとは別に、年2〜3回は休暇をとって旅行に行っている(③)。

バイオリン🎻:
子供の頃に所属していたジュニアオーケストラで教えつつ、それとは別に自分が弾いてみたい曲を練習している。音楽は生活の一部になっている。

2. 生活の芸術という考え方との出会い

そんなふうに「趣味・娯楽」という表現に違和感を覚えていた時に、三木清の「人生論ノート」のある章を読み、生活の芸術、生活の技術という考え方に出会った(下記引用の太字)。

娯樂について

 生活を樂しむことを知らねばならぬ。「生活術」といふのはそれ以外のものでない。それは技術であり、徳である。どこまでも物の中にゐてしかも物に對して自律的であるといふことがあらゆる技術の本質である。生活の技術も同樣である。どこまでも生活の中にゐてしかも生活を超えることによつて生活を樂しむといふことは可能になる。

 娯樂といふ觀念は恐らく近代的な觀念である。それは機械技術の時代の産物であり、この時代のあらゆる特徴を具へてゐる。娯樂といふものは生活を樂しむことを知らなくなつた人間がその代りに考へ出したものである。それは幸福に對する近代的な代用品である。幸福についてほんとに考へることを知らない近代人は娯樂について考へる。

 娯樂といふものは、簡單に定義すると、他の仕方における生活である。この他とは何であるかが問題である。この他とは元來宗教的なものを意味してゐた。從つて人間にとつて娯樂は祭としてのみ可能であつた。

 かやうな觀念が失はれたとき、娯樂はただ單に、働いてゐる時間に對する遊んでゐる時間、眞面目な活動に對する享樂的な活動、つまり「生活」とは別の或るものと考へられるやうになつた。樂しみは生活そのもののうちになく、生活の他のもの即ち娯樂のうちにあると考へられる。一つの生活にほかならぬ娯樂が生活と對立させられる。生活の分裂から娯樂の觀念が生じた。娯樂を求める現代人は多かれ少かれ二重生活者としてそれを求めてゐる。近代的生活はそのやうに非人間的になつた。生活を苦痛としてのみ感じる人間は生活の他のものとして娯樂を求めるが、その娯樂といふものは同じやうに非人間的であるのほかない。

 娯樂は生活の附加物であるかのやうに考へられるところから、それはまた斷念されても宜いもの、むしろ斷念さるべきものとも考へられるのである。

 祭は他の秩序のもの、より高い秩序のものと結び附いてゐる。しかるに生活と娯樂とは同じ秩序のものであるのに對立させられてゐる。むしろ現代における秩序の思想の喪失がそれらの對立的に見られる根源である。

 他の、より高い秩序から見ると、人生のあらゆる營みは、眞面目な仕事も道樂も、すべて慰戲(divertissement)に過ぎないであらう。パスカルはそのやうに考へた。一度この思想にまで戻つて考へることが、生活と娯樂といふ對立を拂拭するために必要である。娯樂の觀念の根柢にも形而上學がなければならぬ。

 たとへば、自分の專門は娯樂でなく、娯樂といふのは自分の專門以外のものである。畫は畫家にとつては娯樂でなく、會社員にとつては娯樂である。音樂は音樂家にとつては娯樂でなく、タイピストにとつては娯樂である。かやうにしてあらゆる文化について、娯樂的な對し方といふものが出來た。そこに現代の文化の墮落の一つの原因があるといへるであらう。

 現代の教養の缺陷は、教養といふものが娯樂の形式において求められることに基いてゐる。專門は「生活」であつて、教養は專門とは別のものであり、このものは結局娯樂であると思はれてゐるのである。

 專門といふ見地から生活と娯樂が區別されるに從つて、娯樂を專門とする者が生じた。彼にとつてはもちろん娯樂は生活であつて娯樂であることができぬ。そこに純粹な娯樂そのものが作られ、娯樂はいよいよ生活から離れてしまつた。

 娯樂を專門とする者が生じ、純粹な娯樂そのものが作られるに從つて、一般の人々にとつて娯樂は自分がそれを作るのに參加するものでなく、ただ外から見て享樂するものとなつた。彼等が參加してゐるといふのはただ、彼等が他の觀衆とか聽衆の中に加はつてゐるといふ意味である。祭が娯樂の唯一の形式であつた時代に比較して考へると、大衆が、もしくは純粹な娯樂そのものが、もしくは享樂が、神の地位を占めるやうになつたのである。今日娯樂の大衆性といふものは概してかくの如きものである。

 生活と娯樂とは區別されながら一つのものである。それらを抽象的に對立させるところから、娯樂についての、また生活についての、種々の間違つた觀念が生じてゐる。

 娯樂が生活になり生活が娯樂にならなければならない。生活と娯樂とが人格的統一に齎されることが必要である。生活を樂しむといふこと、從つて幸福といふものがその際根本の觀念でなければならぬ。

 娯樂が藝術になり、生活が藝術にならなければならない。生活の技術は生活の藝術でなければならぬ。

 娯樂は生活の中にあつて生活のスタイルを作るものである。娯樂は單に消費的、享受的なものでなく、生産的、創造的なものでなければならぬ。單に見ることによつて樂しむのでなく、作ることによつて樂しむことが大切である。

 娯樂は他の仕方における生活として我々の平生使はれてゐない器官や能力を働かせることによつて教養となることができる。この場合もちろん娯樂はただ他の仕方における生活であつて、生活の他のものであるのではない。

 生活の他のものとしての娯樂といふ抽象的な觀念が生じたのは近代技術が人間生活に及ぼした影響に依るものとすれば、この機械技術を支配する技術が必要である。技術を支配する技術といふものが現代文化の根本問題である。

 今日娯樂といはれるものの持つてゐる唯一の意義は生理的なものである。「健全な娯樂」といふ合言葉がそれを示してゐる。だから私は今日娯樂といはれるもののうち體操とスポーツだけは信用することができる。娯樂は衞生である。ただ、それは身體の衞生であるのみでなく、精神の衞生でもなければならぬ。そして身體の衞生が血液の運行を善くすることにある如く、精神の衞生は觀念の運行を善くすることにある。凝結した觀念が今日かくも多いといふことは、娯樂の意義とその方法がほんとに理解されてゐない證據である。

 生活を樂しむ者はリアリストでなければならぬ。しかしそのリアリズムは技術のリアリズムでなければならない。即ち生活の技術の尖端にはつねにイマジネーションがなければならない。あらゆる小さな事柄に至るまで、工夫と發明が必要である。しかも忘れてならないのは、發明は單に手段の發明に止まらないで、目的の發明でもなければならぬといふことである。第一級の發明は、いはゆる技術においても、新しい技術的手段の發明であると共に新しい技術的目的の發明であつた。眞に生活を樂しむには、生活において發明的であること、とりわけ新しい生活意欲を發明することが大切である。

 エピキュリアンといふのは生活の藝術におけるディレッタントである。眞に生活を樂しむ者はディレッタントとは區別される創造的な藝術家である。

三木清「人生論ノート」娯楽について

3.Artとは

上記の引用からさらに抜粋すると、三木清は技術と藝術という文言をどちらも使っている。

娯樂が藝術になり、生活が藝術にならなければならない。生活の技術は生活の藝術でなければならぬ。

三木清「人生論ノート」娯楽について

私は、この場合の三木清が言うところの技術と藝術は、いずれも英語の art (アート)、ラテン語の ars (アルス)であろうと考えている。
そう考えると、前述した、
①仕事(収入・糧を得るためのプロセス)、
②生活(健康かつ文化的に生きるためのプロセス)、
③娯楽(①及び②に該当せず、自分らしく生きるためのプロセス)
は全て、生きる上での芸術・技術(Art)である。

そうすると、生活は常に、24時間、The Art of Being. The Art of Living. 生き方の技術、生活の芸術であり、楽しみ、愛おしみ、尊ぶべきものなのだ。私には、この考え方がしっくりきた。

従って、私が最初に列挙した「趣味」は全て、The Art of Being. The Art of Living. 生き方の技術、生活の芸術である。