カルトの子ども/後継者・宗教二世
「マフィア根絶への試み、一族の子に別の人生を」という記事を読みました。イタリアのマフィアの子どもに、組織以外の人生の「選択の自由」を保障しようとするプログラムの内容を読んで、あらためてオウム真理教の後継者とされた教祖の子どもたち(ここでは三女・当時アーチャリー正大師について)の困難さについて思いました。(記事は末尾を参照)
カルトの後継者
ずいぶん前のことです。実家にいる私の携帯電話に見知らぬ番号から着信がありました。
「だれだろう?」
少し不審に思いながら電話にでてみると若い女性の声で
「TD師ですか?」
「ん?」どこか聞き覚えのある声です。
かすかに舌足らずなところのあるしゃべり方は、もしかして…。
「あっちゃん、ですか?」
「そう。お久しぶりです!」
「おおー、お久しぶりですねえ、元気ですか? 何年ぶり? いわき以来だから…十七年だよ!」
三女アーチャリー正大師からの電話でした。
普通の女の子
地下鉄サリン事件後まもなく、教団施設が破産管財人に差し押さえられると、教団施設に住んでいた出家者は新しく取得した家屋や賃貸物件などに住むことになりました。私はアーチャリー正大師のグループにいて、一緒に福島県いわき市に移り、そこで一年ほど過ごしました。
当時の私はかなり精神不安定な状態で、「正大師」という一番ステージの高いアーチャリー正大師なら、適切な指導をしてくれるだろうと期待していました。ところが、いわきで一緒に生活してみると、正大師は本当に普通の女の子で(今思えば当たり前のことですが)、正大師自身修行はしないし、私たちを指導するつもりもなく、半年もすると「修行の指導を期待する私の方が間違っている」と思わざるをえませんでした。
そういう正大師に失望したのか、いわきのグループからいなくなるメンバーも出てきました。私も、いわきの物件から退去するのを契機に、正大師から離れて教団の修行施設に行って修行することにしたのです。
(この間の事情は「オウムとクンダリニー」の「89.いわきへ」「90.学校へ行きたい」を参照)
そのときから二十年以上、アーチャリー正大師とは電話で話すことも、メールのやり取りをすることも、もちろん会うこともありませんでした。正大師が合格した大学から入学拒否されたことなどは、報道を通じて知っていましたが、私は正大師がどこでだれと生活をしているのか、どんなことを考えているのか、スタイルはぽっちゃりのままなのか、いわきで執念を燃やしていたダイエットが功を奏してスリムに成長したのかも知りませんでした。
なつかしい声を聞き、お互いなんとか元気で過ごしていることを報告しあったあと、私は「どうしたんですか?」と、アーチャリー正大師が電話をしてきた理由をたずねました。
「うん…そろそろ、自分と向き合おうと思って。観念崩壊セミナーのことで聞きたいことがあるの…」
「観念崩壊セミナーですかぁ!? それはまたずいぶんと大昔の話ですねえ…」
アーチャリー正大師は電話をしてきた理由を説明しました。
トラウマ
「父が逮捕されてから一晩眠るたびに記憶が消えていっちゃって、特に『観念崩壊セミナー』のことはひどいトラウマになっていて記憶が欠落してる部分があるから、セミナーの修行監督をしていたTD師にセミナーのことを確かめたいの」
たしかに、あのセミナーは後半になると修行から逸脱したようなことも行なわれ、それを聞いて参加するのを恐怖する人もいました。(「88.観念崩壊セミナー」参照)
「私が、断食の後に大量に食べるように指示をして、救急車で運ばれたサマナがいたという話になっているんだけど…。私、あの頃、まだ子どもで無知だったといっても、いくらなんでも断食の後にいきなり大量に食べさせるなんてことするかなぁ…と思うんだけど…」
それを聞いて、私ははっきりと言いました。
「それは誤情報です。救急車で運ばれた人のことはよく知っていますが、断食はしてませんでしたよ。それに、あのセミナーでなにがあったとしても、まだ十三歳になったばかりだったあっちゃんに責任はありませんよ。責任があるとすれば、修行監督をしていた私たち大人の責任です」
正大師は黙っていました。
「いいですか。もう一度言いますけど、だれがなんと言おうと、あのセミナーについては、当時まだ子どもだった正大師に責任はありませんからね」
アーチャリー正大師は、電話の向こうで静かに泣いているようでした。
『止まった時計』
その後、アーチャリー正大師が――今はもう松本麗華さんと呼びますが、『止まった時計』(講談社)を出版すると、上祐氏の「ひかりの輪」のサイトで本の内容が批判されていました。特に「観念崩壊セミナー」については、私と同じようにセミナーで修行監督をしていた人が、すべてはアーチャリー正大師の責任だったといわんばかりでした。
なぜ同じ場所で修行監督し指導していた大人が、十三歳の少女一人に責任があったと思うのでしょうか?
オウムの世界にどっぷりはまっていた当時なら、オウムのなかでステージが一番高い「正大師」に責任があったと思うのは仕方がないでしょう。しかし、オウムを批判し、脱会した今もなお「子どもに責任があった」のだと本気で思っているのなら、その人はまだオウムの霊的ステージを信じているということです。なるほど、上祐さんというかつての「正大師」について行って「ひかりの輪」にいるのだから、オウムの霊的ステージを信じて、今もオウムの世界を生きているのでしょう。
『止まった時計』を読んだとき、私は「松本麗華さんはこんなに繊細な感受性があって、よくあの状況を正気で生き抜いてきたものだな、気が狂ってもおかしくないほどの孤独だっただろうに…。そして、十三歳のときは自分の名前も漢字で書けなかったのに、本を一冊書くなんて、本当によく頑張ったよ」と感心しました。
二重の虐待
松本麗華さん本人に対しては、当然賛否両論あるでしょう。私は、オウムという団体、特に末期の狂気じみた状況を生き抜いた子どもに対しては、「さぞ大変だったでしょう…」という気持ちしかありません。マスコミから追いまわされて、社会から公正な援助があるわけでもなく、それどころか就学や就労を拒否され、教団からは後継者である「正大師」であることを求められ続けたティーンエイジャーが、そこから自力で脱却する――自分の親を憎まず、自分の未来を自分で選ぶこと――は、どれほど困難だったでしょう。
カルト教団の子ども(後継者)というのは、社会からも教団からも、二重に虐待されてきたといえるのではないでしょうか。
●マフィア根絶への試み、一族の子に別の人生を
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