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イリュージョン02. 畳職人の息子

麻原彰晃は熊本の畳職人の息子として生まれた。
農家の子どもでもなく、商売人の子どもでもなく、教師の子どもでもなく、会社員の子どもでもなく、畳職人の子どもに生まれたこと――これはかなり象徴的なことではないだろうか? 

「そんなことは単なる偶然、意味のないことだよ」

そう言われそうなことでも、寝ても覚めてもオウムについて考えていた私は「畳職人の息子」ということに、なにか引っかかってしまった。

よく知られているように畳の表はイ草という植物で作られている。麻原彰晃の生地である熊本県はイ草の一大生産地だった。畳は日本人の日常生活に欠かせないもので、麻原彰晃が育った昭和三十年代という経済成長期、腕のいい畳職人に仕事はたくさんあっただろう。いろいろ調べていくと、畳表にはイ草だけではなく麻糸が使われていることがわかった。かつて熊本はイ草とともに麻の生産も盛んだった。「麻原彰晃」という宗教名について考えていたこともあって、畳に「麻」が使われていることに、私は「あれ?」と思った。

「麻原彰晃の父親は畳職人で、畳にはイ草と麻が使われているのかぁ…」

古来から人間は麻でいろいろなものを作ってきたが、じょうぶで水に強い性質の麻は縄に適している。そして、死刑が確定している麻原教祖が絞首刑になるとき、そこでは当然縄が使われる。現代の日本の絞首刑で実際に使われるのが麻縄なのかビニール製の縄なのかはわからないが、私がここで問題にしているのは「象徴」ということだ。

麻原彰晃は麻縄に吊るされ殺される。
父親は麻糸をあつかう畳職人だった――。

ここには、二千年前、木製の十字架の上で殺されたイエス・キリストの父親が「大工」だったこととよく似たイメージがあるのではないだろうか。父親の職業というのは子どもを養い育てる糧を生み出すものだが、その子どもが殺されるときに同じものが使われるのだ。大工の息子であるイエスが木製の十字架上で殺されること、畳職人の息子である麻原彰晃が麻縄に吊るされ殺されること。

ここには「養い育てるもの」と「殺すもの」が、「生」と「死」が同じであるという、対極するものの統合のイメージが見て取れるのではないだろうか。

数年前、インターネットを見ていたら、東京拘置所にいる麻原教祖が「ちくしょう、なんでなんだー」と大声で叫んでいたと書かれていた。実際の麻原教祖はとても言葉遣いがきれいな人だったし、ネットの情報だから真偽のほどはあやしいとしても、しかし、実際に麻原教祖の言葉かどうかが問題なのではない。このような言葉が「麻原彰晃の言葉」としてインターネット上に流れて、今後もずっと残っていくだろうということに私は驚いた。

ちくしょう、なんでなんだー

そう叫ぶとき、人はなにかにひどく裏切られたと感じたときだ。
二千年前、十字架の上でイエス・キリストが大声で言ったとされる言葉がある。

「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか)」

これもまた、「ちくしょう、なんでなんだー」と同じように、ひどく裏切られた人が発する言葉ではないだろうか。やはりイエスの物語と麻原彰晃の人生には同じようなパターンが働いているんだ…そのときの私はそう思わざるを得なかった。

もちろん、このようなことはすべてイリュージョンでしかないが…。


(*)十字架刑はその残忍性のため、ローマ帝国でも反逆者のみが受け、ローマ市民権保持者は免除されていた最も重い刑罰であった。<中略>この時代の磔刑では十字架につけられて即死することはなかった。刑を受ける者は両手首と両足首を釘でうちつけられ、体を支えられなくなることで呼吸困難に陥って死に至った。そのため、長引く場合は48時間程度も苦しみ続けて死んだと言われる。(Wikipediaより)


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