母たちの国へ27. 失われた光

「死にたい!」という思いが突然私を襲った。「希死念慮(きしねんりょ)」という言葉があるが、まさにそれだった。

ある朝、目覚めた瞬間に「死にたい!」という言葉がガツンと頭を打った。間髪を入れずに「死にたい!」「死にたい!」ガツン、ガツンと衝撃が続く。私から「死にたい」という思いが湧いてくるのではなく、もっと実体的なものとして感じる。たとえるなら大きな堅い木製のハンマー、木槌のようなものが空中にあらわれる。そこには「死にたい!」と黒く大きな文字が書かかれていて、それが私の頭をガツンと強く叩きつけるようなものだった。

部屋にいると、前ぶれもなく「死にたい!」「死にたい!」という衝撃に打たれる。でも、私自身は「死にたい」と思っていないのだから、いったい自分になにが起こっているのかわからなかった。自分を観察していると、どうやら「境界」が関係しているようだった。部屋の出入り口、車のドアといった仕切りを開けた瞬間に「死にたい!」「死にたい!」ガツン、ガツンと衝撃が来る。眠りから目覚めた瞬間が一番ひどかった。「死にたい!」「死にたい!」「死にたい!」という衝撃に頭を打たれて一日がはじまるのは、かなり辛いものだった。

このような現象(症状)は、きっと脳内の神経伝達物質の異常として説明できるのだろう。
私はこの木槌の正体を、これまでに私が「否定」してきたすべてが集積したものだと感じた。普段、私たちは無意識のうちに識別を働かせて生きている。子どものときからずっと、「これはいい」「あれはダメ」「これは好き」「あれは嫌い」「こうあるべき」「これはありえない」などと瞬時に判別して、自分と他を区別しながら環境に社会に適応している。

「私」というものは、そうやって肯定したものでできあがっていて、否定し、排除したものは、私とは無関係なものとして境界の向こう、厚い壁の向こう側の影に沈める。もし私というものが解体されたなら、これまで壁の向こうに沈めてきたものが、津波のように押し寄せてくるだろう。
オウムではそれを「カルマの解放」と言って、修行者にとって喜ばしいこととされていたが、それはなにも特別なことではなく、誰もが死んだら経験することだ。

あるとき、いつものように食卓についた。母に代わって家事をするようになってから、私はずっと母の席に座っていたのだが、ふいに「ここは母の席だった。父はいつもの場所に座っている…」と思った。そして、父を見ると、幼くして亡くなった父の娘の存在を感じた。
すると、こんな疑問が浮かんできた。

「今ここに座っている私は、本当に私なんだろうか?」

母の席に座っているのは、父の亡くなった娘なのかもしれないし、亡くなった母なのかもしれない…絶対にそうではないと言い切れるだろうか?…。
なにやら「私」という意識に、古いテレビの画面の走査線が乱れるように、あるいは松の葉をすかせば向こうが見えるように、たくさんの隙間があるようだった。私というものはスカスカな繊維の束のようなもので、その隙間に、私と縁のある亡くなった二人が混在しているように感じられて、「私」がわからなくなってしまった。

「いったい私って誰なんだろう…。亡くなった父の娘なのかも、亡くなった母なのかも…」

それから、気がつくと世界から光が失われていた。空にも、太陽にも、風景にも、私が見ている世界の背後にあるはずの光がなくなってしまったのだ。どこを見ても、なにを見ても光がない。世界の姿かたちはそのままで、世界を輝かせている生気は失われ、シャットダウンしてしまった。

おそらく、死んだのは世界じゃなくて私の方だったのだろう。その頃、味覚がなくなった。なにを食べても味がしないのだ。また、テレビ番組を見ていても、なにがおもしろいのかさっぱりわからない。もちろん話している言葉はわかるけれど、そこで話されている話題に関係できない。意味もわからない。そのうちに、時間も、記憶も、感覚も、感情も、他者との距離感も、なにもかもどこかが狂ってしまって、この世界から切り離されてしまったようだった。

そして、出口の見えない闇夜、深く、暗い鬱がやってきた。
ただひとつ確かなものは、虚無。

私はしばらく引きこもって休むことにした。病院を受診することも少し考えたが、「死にたい」という衝撃に襲われても、衝動的に自殺することはないだろうと思った。それは、私がヨーガや仏教的世界を信じていたからだ。死んで解決することなどなにもない。この虚無が私自身なら、それに耐えるくらいの覚悟はあった。

半年、一年と経ち、希死念慮は徐々にやわらいだが世界に光は戻ってこなかった。なにもかも死んだままで生きているようなものだった。「生きる屍って、上手いこと言うものだな…」と思った。そんなとき、ガンを公表した小林麻央さんのブログを読むようになった。恵まれた人生を生きている別世界の女性だと思って、それほど期待して読んでいたわけではないのだが、麻央さんの純粋な心を感じて、応援する気持ちになって更新を待っていた。
しかし、どんなに若くても、愛する夫や子どもがいて生きたいと願っても、死はやってくる。

その朝、ネットのニュースで小林麻央さんの早すぎる死を知って、私は泣いた。なぜか涙が止まらなかった。母が死んだときも泣かなかった、いや、泣けなかった私が、朝日のあたるキッチンでお茶をいれながら、知り合いでもない有名人の死に涙していた。

なぜ泣いているのだろう?
これはだれのための涙なんだろう? 

小林麻央さんが亡くなった6月22日は、夏至の日。
ちょうど二年前、私が東大寺で月光菩薩のフィギュアを手にした日と同じだった。

あたたかい涙が頬を止めどなく流れていた。
外は良い天気で、部屋には光があふれていた。


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