母たちの国へ16. 親友

知り合い、友人、そして、親友。人生に親友と呼べる人は何人いるだろうか。青春時代、何度も夜を徹して語り合った友人を、親友と呼ばないでなんと呼ぶのだろう。

Kは私の大学時代の親友だった。

あの頃、Kも私も映画が好きだった。彼女の趣味はいたって正統派、ロバート・レッドフォードのファンで、邦画なら山田洋二監督作品が好きだった。タルコフスキーが好きな私には、彼女が良いという映画はそれほどおもしろく思えないのだが、正反対の性格だったからあれこれ議論していられたのかもしれない。

Kは話すのが好きな人だった。そういう人には珍しく話を聞くのも上手で、彼女の下宿で話し込むとたいてい白々と夜が明けてきた。大学で同じ社会福祉を学んで、私はその道には進まず、Kは子どもの頃からの夢だった障害のある子どもの教師になった。私が働きながら写真学校で学んでいたときは、彼女が担任する特別支援学級の子どもたちの日常を撮らせてもらって、「伊那谷の子どもたち」という作品に仕上げて作品展に出品した。

オウムに入って修行が好きになると、すぐにKにもオウムを勧めた。私が言うならと入会してくれても、南信州には支部道場がなかったので修行はできず、私を信じてただ月会費を払っているだけだった。地下鉄サリン事件が起こったとき、オウム信者だということで、教師だったKにどんな迷惑をかけてしまったか聞いたことはなかったし、彼女もなにも言わなかった。

事件後数年たち騒ぎもおさまってきて、私はKに連絡して久しぶりに会いに行った。

長く会わないうちに、Kは大きな農家の長男のところに嫁いで子どもも二人いた。もちろん教師も続けていたが、まだ教団にいる私になにか意見をするということはなかった。

別れ際にKが言った。

「我が家は土地だけは広いから、年をとったらうちに来ればいいよ。あんたの住む場所くらいあるから」

私がオウムをやめてからは、年に一度か二度会いに行ったり、大学時代の他の友人と一緒に温泉旅行にも行った。そんなときは、昔と変わらず話し込んだ。話題はKの障害のある子どもたちの指導の苦労や喜び、教育現場を理解しない校長との軋轢のようなもので、私は聞き役にまわった。私のことを話そうにも、オウムの生活のなにをどこからどう話せばいいのか見当もつかなかったし、Kも特に聞かなかった。

私の母が入院しているとき、Kから電話がかかってきた。

「私さ、癌なんだって。もうびっくりだよ。すぐに手術することにしたから」

私の実家のある岐阜県とKの住んでいる長野県は隣接しているのだが、南信州までは県境の険しい峠を越えて車で片道三時間ほどかかった。Kも私が父と母のことで忙しくしていることは知っていたから、「お互いに落ち着いたら会おうね」と言って電話を切った。

Kの声はいつものように元気だった。夫とまだ成人していない二人の子どももいるのだから、Kは大丈夫に決まっている。私だって話したいことはまだまだある。今の実家での大変さも、オウムでのことも、Kにならいつかは少しずつ話せるだろう。そして、Kはいつものように、ゆっくりとうなずきながら、時間をかけて私の話に耳を傾けてくれるだろう。

年をとったらうちに来ればいいよ。あんたの住む場所くらいあるから――

そう言ってくれたのだから。


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