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麻原彰晃の原風景09. 怨恨なのか?

オウム事件の背景には、麻原彰晃の不幸な生い立ちによる社会に対する怨恨があったと考える人は多い。
目が不自由なのは水俣病が原因だったかもしれないこと、幼くして親元から離され寄宿舎生活をしていたこと…その恨みや憎しみによって凶悪な犯罪を犯すようになる、というのは事件の背景として納得しやすいのかもしれない。

たしかに、麻原彰晃の宗教観は社会の価値観とは決して相容れないものではあったが、オウムにいた私は宗教的な強い信念を感じても個人的な怨念のようなものを感じたことはなかった。

宗教学者の島田裕巳氏も異を唱えている。

麻原彰晃の人生は不幸と挫折のくり返しである。しかしその人生を振り返ってみたとき、麻原が、必ずしも幸福とは言えない自らの境遇に敗北感を感じてしまう人間であったようには見えない。彼には不幸と挫折を乗り越え、社会のなかで成り上がっていこうとする強烈な野心があった。その野心はときに空回りすることはあったものの、彼はその野心をある程度まで満たすことに成功した。麻原はたんなる敗北者だったとはいえない。

『オウム真理教事件Ⅰ』(トランスビュー)p42

麻原彰晃が自身の身体障害や生きづらい人生をどう考えていたのかがわかる説法がある。何度かテープで聴いて印象に残った説法だったが、当時の私にはあまりよく理解できていなかったと思う。脱会してから、オウムについて考えるために年代順に説法を読み返して、これが麻原彰晃自身について語られたものであることにようやく気がつき、なにを言おうとしているのか以前よりわかった。説法はこんな問いかけで始まっている。

ここに二人の者がいたと。一人は大金持ちの息子として、あるいは娘として生まれ、そして顔形もよく成長した。才能にも恵まれていた。そして、修行者になった。もう一人はつんぼであったと。両耳がつんぼであると問題があるわけだが、片耳は完全に聴こえず、片耳もどんどん悪くなる状態であったと。そして、無常を悟り、同じように修行に入っていったと。果たして、この二人はどちらが徳があるだろうかと。

ここで例にあげている「片耳が聴こえず、もう一方の耳もだんだん悪くなる状態」とは、耳を目に置き換えればまさに麻原彰晃自身のことだ。高弟たち一人一人に質問をして、それぞれの答えを聞きながら最後に次のような説明をする。

実は質問のなかに答えがあったんだよ。耳の聴こえない人について、私ははじめに、耳が全部聴こえない、いや違うと。一方は聴こえなくて、一方は少し聴こえない状況でどんどん聴こえなくなっていくと。なぜ私がその言葉をつけ加えたかというと、まず、修行のスタートは苦を感じること。しかし、その前に無常からくる苦を感じなくてはならないわけだよ。

五体満足でこの世に生まれ、おおいに徳があって、そして高い世界を知っていて出家する者、これは案外多い。もともと高い世界へ行くための道だということを前生から記憶しているからであると。しかし、五体が不満足で、この現世もなかなか生きづらいと。その状態で解脱を求めると。これは徳の問題からおかしいなと。どうだ。なぜならば一般的には現世がよくなって修行に入っていくわけだから。だとしたら、この者はもともと菩薩の修行をしていて、もともと徳があって、前生において現世的な楽というものをすべて知ったうえで修行し、自己のカルマを滅する、あるいは他のカルマをしょうという修行をしていると考える以外にないんじゃないか。(2)

一九八九年五月七日富士山総本部道場説法

麻原彰晃自身、幼少期からまったく目の見えない子どもたちと生活を共にし、見える方の右目もやがて見えなくなるという、無常からくる苦しみを感じていただろう。そして、盲学校を卒業して十二年後、徳がないようにみえる恵まれない環境に生まれたとしても、そこから修行の道に入っていくならば、それは徳がないのではなく、前生から菩薩の修行をしているからであって、今生も菩薩として自己のカルマを滅する、あるいは他の苦しみを背負うという修行をする菩薩だからだ、と説いてる。

生まれ持った障害や逆境は、積極的かつ宗教的にとらえられている。

オウム事件について、高弟だった早川紀代秀死刑囚が宗教的な動機を見落とさないよう訴えている。

オウム事件は、どんなに気違いじみたことであっても、それはグルの宗教的動機から起こっていったということ、そしてグルへの絶対的帰依を実践するというグルと弟子の宗教的関係性によって、弟子がグルの具体的指示、命令に従って事件を起こしていったということ。この二点は、二度とこのような事件が起こらないためにも、見誤ることなく、きちんと理解していただけたらと思います。

『私にとってオウムとは何だったのか』(ポプラ社)p216



(1)島田裕巳氏は麻原彰晃と二度対談し、テレビの討論会(「朝まで生テレビ」)にも一緒に出演しているから、実際に会って話した印象も加わっているだろう。
(2)この説法の背景には、「人は最も徳のある状態で修行の道に入る」という世界観がある。例えば、ブッダは王子として生まれ、なに不自由のない生活を約束された現世的功徳の最高の状態にありながら、無常を痛感して修行の道に入って行く。
この年の選挙活動を経て、麻原彰晃はほぼ視力を失ったと言われている。

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